3 皇子と姫
「なっ!」
「これだけあれば十分でしょう」
「あ、ああ、そうだな……! アンタがそこまで言うんだ、今回は特別に見逃してやるよ!」
男は鼻の下をこすりながら下卑た笑みを浮かべて床にしゃがみこみ、必死になって金貨を拾い集め始めた。
その光景を呆然と見つめていた少年が、私に向き直り、おずおずと袖を引っ張ってくる。
「あの、ありがとうございます。僕を助けていただいて……」
「何か勘違いをしているみたいだけど、私はあなたを引き渡してもらっただけよ」
「えっ……?」
少年の目が恐怖に見開かれる。
私は静かに視線を落としたまま冷たく言葉を重ねた。
「犯罪行為をしておいて、許されるとでも思っているの? そうね、あなたを騎士団に引き渡すのも悪くないわ」
「そ、それだけは……! 僕が居ないとお母さんに薬を渡せない。お母さんが死んじゃうんです!」
「そう? じゃあ、私が代わりにあなたに罰を与えようかしら」
私の言葉に、一体何をされるのかと途端に震え出した少年。
私はその姿を見据え、ため息をついてから、そっと手を伸ばした。
子供の額に親指と人差し指をあてて、パチンッと軽い音を立ててはじく。
「はい。今ここで、この私が罰を与えたわ。これであなたの罪はおしまい」
「へ……? えっと、僕、何が何だか……」
「病にかかった母君の薬を買いたいと言ったわね。これをあげるから、今度は真っ直ぐ家に帰るのよ。そして、二度と罪を犯してはいけないわ」
私は残っていた数枚の金貨をそっと彼の小さな手に握らせる。
すると、少年は信じられないとでも言いたげに目を見開くと、今にも涙がこぼれ落ちそうな瞳でこちらを見つめて、何度も私に向かって頭を下げた。
「ありがとう、お姉さん! これでお母さんに薬を買えるよ!」
「……気を付けて」
少年は満面の笑みを浮かべると、くるりと踵を返し、人混みの中へと駆けていった。
その小さな背中が見えなくなったところで、私はほっと息を吐く。
まったく……あんな幼い子が、こんな時間に一人で街を歩くなんて。
「嬢ちゃん、すげえじゃないか! よくやった!」
「ああ、本当に立派だったよ!」
「そうだ、そうだ!」
次の瞬間、店内に割れんばかりの拍手が響き渡った。
客たちは口々に称賛の声を上げ、温かな視線が一斉に私へと注がれる。
どうしよう。目立つような行動は極力避けなければいけなかったのに。
「アハハ……」
乾いた笑みを誤魔化すように浮かべながら、私はウェーブがかった金色の髪を顔に寄せる。
このままここに居続けても、余計に人目を集めるだけだ。
まだ一口も飲めていない白ブドウジュースを一気に飲み越して、早々に店を出よう。
そう決めて、私は足早に自分の席へと戻った。
「――お嬢さん」
席に腰を下ろした、その瞬間だった。不意に声をかけられ、私は反射的に顔を上げると、少し離れた席に座っていた初老の男が私を見つめていた。
「はい? 私に何か御用ですか?」
「その……お嬢さん、あの金は一体どこから……」
「失礼」
低く落ち着いた声が、男の言葉を遮った。
同時に、一人の青年が私と老人の間へ音もなく割って入る。
黒いローブを纏い、フードを深く被ったその姿は、私と同じように顔の大半が影に隠れていた。
男は何のためらいもなく私のテーブルへ手を伸ばすと、目の前に置いてあった白ブドウジュースが入ったグラスを持ち上げた。
「あっ! それは私の!」
私の必死の制止の声も虚しく、男は一口、二口と喉を鳴らし、そのまま最後の一滴まで飲み干してしまった。
空になったグラスを机へ戻し、小さく息を吐く。
「……甘いな。ジュースか」
……この男、人の飲み物を勝手に飲んでおいて文句までつけるつもり?
「水を頼む」
「……か、かしこまりました」
カウンター越しに立っていた店主は、青年の声を聞いた途端、目に見えて表情を強張らせた。
額にうっすらと汗を滲ませながら深々と頭を下げると、逃げるように足早に店の奥へと消えていく。
「ま、まだ一口も飲んでいないのに!」
「なら、もう一杯頼むか?」
「……その前に謝罪の言葉が先では?」
突然現れたかと思えば、人の了承も得ずに飲み物を奪い、一滴残らず飲み干した。
味の感想を口にする前に、まず私へ謝るのが礼儀というものではないだろうか。
まあ、泥棒相手に礼儀を説いたところで、意味なんてないのかもしれないけれど……。
「それは君の方だろ」
「私が何に謝罪するというのですか?」
「君が口にするのは謝罪じゃない。感謝さ」
「……はい?」
冗談? それとも、酔っぱらっているの?
「もし、俺が割って入らなければ、君はもっと厄介な目に合っていただろう。もう少し周りを見ることだ」
そう言われ、私はようやく店内へ視線を巡らせた。
先ほどまで温かな拍手を送ってくれていた人々が、今では静かにこちらを窺っている。
酒を飲みながら談笑していた男たちまでもが、値踏みするような目で私を見つめていた。
「知らないようだから教えてやる。この街には、あんなにも大量の金貨を持っている人間はいない。幼い子供に大金を与えたら、その後どうなるか考えないのか。金を奪おうとする者もいれば、子供ごと攫おうとする者だっている」
「そ、それは……」
確かに彼の言うとおりだ。私は不用意すぎたかもしれない。
テレジアンにいた頃の癖で、つい面倒ごとをお金で物事を片付けてしまった。
誰かを助ける時も、それが一番早く、一番確実な方法だと思っていた。
でも、仕方ないじゃない。結局私は、傲慢で我儘なテレジアンのバカな姫なのよ!
「安心しろ。俺の従者に後をつけさせたから、あの子なら今頃無事に家に帰れているだろう」
その一言に、張り詰めていた胸が少しだけ軽くなる。
同時に、じわりと気まずさが込み上げてきた。
私は唇を噛み締め、ローブの裾をぎゅっと握る。
胸の奥に広がる気まずさから逃げるように、私はそっと顔を背ける。
「それでも、あなたが私の楽しみにしていたブドウジュースを勝手に飲んだことは別問題です」
生意気にそう言うと、男は小さく鼻で笑った。
「それは失礼。ならば俺がもう一杯ご馳走しよう」
「別に……それより、名前くらい名乗るべきじゃなくて?」
「ならば君の方から名乗ってくれ。俺は君に興味があるんだ」
「私に興味? バカなことを言わないで」
意図せずこの男に助けられてしまったのだ。名前くらい覚えておいてあげようと思ったのに、おかしなことを言って、私をバカにするなんて。
こんなワケの分からない人と話す時間が無駄よ。
夜明けまではまだ余裕があるけれど、万が一誰かに気づかれる前に宮殿へ戻った方がいい。
ええ、そう。はやく帰るのよ、ルクレティア!
「ひどいと思わない? 一体、私が何をしたって言うのよ!」
「少し飲みすぎじゃないか? さっきから俺と同じ量を飲んでいるだろう」
「うるさい! 私は酔ってなんかないわ!」
勢いよく言い返すと、彼は困ったように眉を下げて笑った。
さっきからクスクスと鬱陶しいほど笑ってるけど、この男、どれだけ人をバカにすれば気が済むの?
「君……名前は確か、ティアと言ったか」
その言葉に私は一瞬肩を強張らせる。
そういえば、会話の初めに適当に作った偽名を名乗ったんだっけ?
そういうこの男は名乗ったのか、名乗っていないのか。もうすっかり忘れてしまった。
分かるのは、猛烈に痛む頭だけ……。
「なんとなく、君という人間が分かってきたよ」
「そうですか。ティアのことをよく知れてよかったですねえ」
「ああ、本当に。やっぱり俺はついている」
一体どこからその自信が湧いてくるのだろう。
まるで私の内側まで見透かしているような口ぶりが、妙に癪に障る。
……いくらお酒が入っているとはいえ、普段の私はこんなに感情を表へ出したりしない。
それなのに、この男と話していると、言葉が勝手に口から零れてしまう。
まるで、彼の手のひらで転がされているかのように、上手く誘導されているかのように感じるのは、ただの気のせいだろうか。
「私には、まだ一度も会ったことがない夫がいるの。その夫とやらが、もうすぐ帰ってくるらしくて……」
「へえ。よかったじゃないか」
「本気で言ってるの?」
「もちろん」
「はあ……そんなわけないでしょ、バカね。まだ一度も会っていないのに、私はその男に腹が立って仕方がないの。もちろん戦地で死なれる方が困るけど、せっかく嫁いできた妻のためにもっと急いで帰ってこいって感でしょ? こっちはずっと一人ぼっちにされているのに!」
そう言い切ってから、ハッと息を呑む。
少し話しすぎたかもしれない。こんなこと、誰にも話すつもりはなかったのに。
どうしてこんな見知らぬ男に話してしまうのか、自分でも訳が分からなかった。
何か、恐ろしい何かに惑わされてしまったとしか、思えなかった。
「仕方がないだろう。帰路の途中で馬車の車輪が壊れ、修理に時間を取られたんだ。戦で疲弊した兵士たちを急かすわけにも、戦利品を放置していくわけにもいかないからな」
……うん?
「どうして……それをあなたが知っているのよ?」
酔いが、一気に引いていく。
ぼやけていた視界が少しずつ鮮明になり、ランタンの灯りが男の横顔を照らした。
深く被っていたフードの影から、美しい顔立ちが少しずつ現れていく。
「奇遇だな。俺にも、まだ一度も顔を合わせたことのない妻がいる」
青い瞳が、まっすぐこちらを見つめている。
「けっこう、ありがちなんですね」
「ああ、そうかもな」
「いや、そんなはずないでしょ……」
ぐらりと視界が揺れた気がした。
眠気とアルコール、場の空気でふわふわとしていた頭が一瞬でハッとする。
そして私の視界に映し出されたのは、ニヤリと悪戯気な笑みを浮かべる彼の姿。
「あ……」
青みを帯びた黒髪。サファイアを思わせる深い青の瞳。そして右目の下に、小さなほくろが一つ。
儚げな印象の中に、どこか人を寄せつけない静謐さが漂っていた。
間違いない。
結婚の話を聞かされた後に、従者の者たちから見せられた肖像画で幾度となく見たその姿。
「アルセイン……皇子?」
「ようやく気が付いたか。テレジアンの姫よ。名前は確か……ルクレティア姫だったな?」
まるで最初から全て分かっていて、私が気づくのを楽しみに待っていたかのような反応だった。
アルセイン・ディ・ヴァレンツィア。
私の政略結婚の相手。
正体に気付かず愚痴を零し、お酒に酔って醜態をさらす様子を、ずっと面白そうに眺めていたのだ。
顔から、さっと血の気が引いていく。
皇子のもとへ私の肖像画が送られている以上、皇子が私の顔を知っていて当然だった。
つまり、この人は最初から、全部分かっていて、そのうえで私をからかって遊んでいたってこと?
な、なんて性格が悪い男なの……?
「私、帰ります!」
勢いよく椅子を引いて立ち上がる。
机の上へ金貨を一枚置くと、アルセインが呼び止める声も聞かず、私は逃げるように酒場を飛び出した。
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