2 黄金
「お初にお目にかかります。ルクレティア・フォン・テレジアン姫様。私は、ロザリア公爵家当主イシス・ロザリアでございます」
長時間の移動を終えてヴァレンツィア帝国に到着すると、一番に私を出迎えたのはロザリア公爵家の当主と名乗る男だった。
知的な雰囲気が漂う中年男性の公爵は私に向かって手を差し伸べる。
「初めまして、ロザリア公爵」
ロザリア公爵の生きた年数だけ皺が刻まれた手を取り、私は馬車から降りた。
ヴァレンツィア帝国は、他国と比べて比較的新しい国にも関わらず経済に恵まれており、とても栄えている国だった。
ヴァレンツィアの皇帝はとても知性に恵まれた人で、政治で右に出るものは居ないと聞いたことがある。
そして、そんな父の優秀さを丸々受け継いだと言われているのが、私の夫となるアルセイン・ディ・ヴァレンツィア皇子だ。
歴史あるテレジアン王国が同盟を結ぼうとしたのも、経済が潤っているヴァレンツィア帝国からの支援が欲しかったからというのが一番の理由だった。
そして、まだ建国してから日が浅いヴァレンツィア帝国は古くから存在するテレジアン王国の後ろ盾がほしかった。
その同盟を結ぶための道具として、姫と皇子を結婚させる。
至って普通の、互いに利益を求めた国同士の政略結婚だ。
つまり私は、ヴァレンツィアからの経済力を求めた父によって、テレジアンより献上された貢女というわけだった。
「皇帝陛下は中でお待ちでございます。それまでは私が案内を務めさせていただきます」
「公爵が直々に案内してくださるとは光栄です」
「当然でございます。テレジアン王国の姫君が我がヴァレンツィア帝国へ嫁がれてきたこと。これは、ヴァレンツィア帝国民皆の喜びです!」
「ありがとうございます。ロザリア公爵」
目を閉じて笑うと、ロザリア公爵は私を上から下まで舐めまわすように見た後、「ほっほっ」と自身のあごひげを触りながら笑った。
あなた今、私を品定めしたの? バカな姫がやって来たとでも思っているのでしょう。
それでいいわ。せいぜい私のことを見下していてちょうだい。そっちの方が、こちらとしても動きやすいもの。
「皇子殿下はとても素晴らしいお方です。右肩下がりだったこの帝国を大帝国とまで言わせたのは、皇帝陛下のお力もありますが、やはり皇子殿下のお力があってのことでしょう。まだ若いというのに、彼にはそれだけの力がある」
「公爵は陛下と皇子を尊敬されているのですね。私もお会いするのがとても楽しみになってきました」
「ええ、そうでしょう! それになんといっても、皇子殿下は非常にハンサムなお方です! きっと姫様も気に入るでしょう!」
長く続く廊下に聳え立つようにして存在する大きな扉の前まで来ると、ロザリア公爵はピタリと足を止める。
「陛下、イシス・ロザリアでございます。ルクレティア姫をお連れいたしました」
公爵の声が響いてすぐに、扉の向こうから「通せ」と静かな声が聞こえた。
恐らく、今のがヴァレンツィアの皇帝陛下の声だろう。
扉の前に立っていた二人の衛兵によって歪な音を立てながら大きな扉が開かれる。
私は数歩足を前に進めると、スカートを優雅につまみ上げて礼を取った。
「お初にお目にかかります。テレジアン王国第一王女。ルクレティア・フォン・テレジアンが、ヴァレンツィア帝国の偉大なる皇帝陛下にご挨拶申し上げます」
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「次はこの書類をお願いします。予算表は月別にして纏めてください」
「かしこまりました、妃殿下」
指示を出すと、財務部から来た男たちが頭を下げ、部屋を出て行く。
淡い光の差し込む扉が静かに閉まり、部屋には再び私一人きりが残された。
一人きりというのは今だけの話ではない。
私がヴァレンツィア帝国に来てから、早くも一か月。
本来ならば戦地より戻っているはずだったという夫は、何やらトラブルが起きたらしく帰りが遅れてしまっているという。
一人なことにはもう慣れっこになっていたはずだけど、何だか複雑な感情を抱いてしまう。
顔も合わせたことのない夫に異国の地で一人にされるというのも、何だか癪に障るのだ。
「テレジアンの姫と聞いて心配したが、しっかりと仕事をなさる方じゃないか」
「まだ嫁いできたばかりですし、猫をかぶっているのでは? そう長くは持たないでしょう」
私に任された仕事の書類を纏め終え、部屋に戻って休もうと執務室から出てみると、書類を持っていったはずの二人が、部屋を出てすぐのところで立ち話をしていた。
テレジアンの姫という聞き慣れた愛称が聞こえ、扉の陰でこっそりと聞き耳を立てていると、いつものアレが耳に飛び込んできた。
「あと数カ月……いや、あと数週間もあれば本性を現すはずさ。あの、悪名高いテレジアンの姫のことなのだから」
本性を表す……か。
私の本性って一体何なのかしら?
噂というものは本当に厄介なもので、テレジアン王国で言われていた「悪名高いお姫様」というやつは、この国でも中々に広まっているようだった。
そのせいで軽蔑の眼差しを向けられることもしばしば。
もちろん、この国の人たちは、建前上では他国の姫として親切に接してくれるから、それだけでもテレジアンよりはマシな待遇だといえるけれど……。
「……どいつもこいつも、私のことは放っておいてよ……」
もう暫くで帰ってくるという夫を待つ間も、私は皇子妃としての仕事を黙々とこなしていた。
与えられた役割を果たせば余計な言葉を浴びずに済む。それが、私の生きた十八年間で学んだやり方だった。
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ヴァレンツィア帝国に来たばかりの頃。皇宮内で最も質素な庭園であるエメラルド庭園を一人で散歩していた私は、ふと、茂みに隠れるようにして開いた小さな穴を見つけた。
興味半分でくぐってみると、それは街まで続いた抜け穴だった。
その抜け穴を見つけて以来、私は夜にひっそりと、その抜け道を使って街へ出るようになった。
テレジアン王国に居た頃も、私はよく城を抜け出しては街に遊びに行っていた。
ルクレティア姫という肩書で生きる人生はなんとも息苦しくて、城を抜け出しては、どこにでもいる一人の少女として遊んだものだった。
「おじさん、これをください」
出店のフルーツ串屋に寄った私は、いちごとブドウが交互に刺さった串を指さす。
「はいよ、お嬢さん可愛いからもう一つおまけしてあげるよ」
「いいんですか? ありがとうございます!」
こういう時の笑みなら、わざわざ作ることなく自然に浮かんでしまうのが不思議なもの。
いっそのこと、このまますべてを捨てて、どこにでもいる一人の少女として生きていければ、どれだけ楽になれるか。
「見ない顔だけど旅人かい? ヴァレンツィアを存分に楽しんでいきなね、この国はいい国だよ!」
「ありがとうございます。そうだ、この辺りでいい感じの酒場を教えていただけませんか?」
「おや、お嬢さん見かけによらず、なかなか通だね。飲み歩きがお好きと見た」
「お酒はあまり得意ではないのですが、あの楽しげな雰囲気が好きなんです」
「なるほどね。そうだな、美味しいワインの店を知ってるよ。ランタンが綺麗だって、観光客にも人気なのさ」
おじさんは通りの奥に向かって、指を向ける。
「この通りを抜けて左、細い路地に入ったところにある。天井から小さなランタンがずらっと並んでてな。料理も丁寧だし、常連も多いけどよそ者にも優しい。あんたみたいなお嬢さんにはちょうどいいと思うよ」
「それは素敵ですね。行ってみます」
「気をつけてな。あんまり遅くならないように」
「はい、ありがとうございます」
手を振ってくれるおじさんに手を振り返しながら背を向け、月明かりが照らす街へと歩き出した。
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「白ブドウジュースをひとつ」
「かしこまりました」
ワインが美味しい店は例外なくブドウジュースも美味しい。
これは私の持論だが、外れたことは一度もないから丁寧な論文として書き出せば……なんて、姫である私が街の酒場に行った話を出来るはずがないのだけど。
それでもこの持論に間違いはなかった。
質で言えば、皇宮で出てくるものの方が美味しいのだろうけど、城の中で食べたり飲んだりしたものは、どれもまったく味を感じることができない。
ムカデのように私の身体に這うような、あの視線……思い返すだけでも頭が痛くなる。
「うおおい! もっと酒もってこい!」
「こっちもだ! 酔いが覚めるだろう!」
男たちの荒々しい声に、悪い方向へと向かっていた私の思考がハッと引き戻される。
私が街へ出るのが好きなのは、やっぱりこれが一番の理由かもしれない。
現実の苦しみから逃げてしまいたくて、私は……。
「すみません。本日はいつもよりお客様が多くて……別のお席にご案内いたしましょうか?」
「私は大丈夫です。お気遣いいただいて、ありがとうございます」
店主に向かって返事をしたその時、子供の叫び声が響き渡った。
「や、やめてください!」
「チッ! このガキが!」
「ごめんなさい、ごめんなさい! どうか許してください!」
振り返ると、そこには体格の良い男が今にも殴り掛かりそうな勢いで少年の腕を掴み上げている光景が広がっていた。
少年の目は涙でいっぱいになっていて、既に殴られたのか、頬は赤く腫れている。
「どうされたのですか?」
気づけば私は席から立ち上がり、その男に向かって言葉を投げかけていた。
「その子、痛がっているじゃないですか。手を離してあげたらどうですか」
「はっ、アンタには関係ないだろ。このガキは俺の財布を盗もうとしやがったんだ!」
「ごめんなさい! お母さんの薬代が欲しくて……お、お金は返しますから、どうか見逃してください!」
ざわつく客たちは遠巻きに見ているだけで、誰一人として声を上げようとはしない。みんな面倒ごとは避けたいのだろう。生存本能を持つ人間として当然の行動だ。
バカな子供。泣き喚くその口を今にも塞いでやりたい。
謝罪の言葉を並べる子供を見ると、不愉快でたまらなくなる。
『ごめんなさい、ごめんなさい。どうか許してください。私は……本当に、何もやっていないんです!』
必死に縋る昔の自分の愚かな姿を思い出して、どうしようもない吐き気が襲ってくるから。
「うるせぇガキだな。ほら、アンタも分かったらあっちに行ってろ! これは俺とこのガキの問題だ」
「でしたら、私が代わりに和解金を払います。だからその子供を引き渡してください」
「はあ? 和解金って、アンタ……」
私はローブの内ポケットから小さな袋を取り出すと、それを男の足元に向かって投げ落とした。
袋の中から転がり出たのは、艶のある黄金――金貨だ。
床一面に音を立てて散らばった金貨に、一瞬にして酒場の空気が変わる。




