20 漂う甘い香り
「この棚にある品をすべて私に買ってください」
均等の取れた豊かな胸をはしたなく晒し、むせ返るほど甘い香りを纏った女が眺めていた棚を指さす。
「あと、あなたの持っているそれも私のものよ」
ラベンダー色の小瓶へ視線を向けると、女は露骨に眉をひそめた。
「は……? あんた誰よ、突然話かてきたかと思えば何様のつもり? 先に私が手につけていたんだから、これは私の物よ!」
「そういうあなたこそ何様なの? 私は一つ残らず全部ほしいの。分かったら、さっさとその手に持っている品を置いてどこかへ行ってくれる?」
「突然どうしたんだ。君らしくない」
「そうですか? こっちの方が私らしいと思いますけど」
なだめるように腕を掴んできたアルセイン皇子の手を、私はそっと振り払った。
軽く睨みつけると、そのまま視線を再び女へと向ける。
別に、この香水が特別欲しかったわけではない。
これより高価な香水なら、生涯をかけても使い切れないほど持っているし、お気に入り以外を身につけることなど滅多にない。
ただ、何故か無性に腹がたってしまったのだ。彼女から何か嫌なことをされたわけでもないのに。
それでも、胸の奥から理由もなく苛立ちが込み上げてくる。
……ああ、本当に訳が分からない。
自分でも、自分の感情についていけない。
ヴァレンツィアへ来てからというもの、私は今まで知らなかった感情ばかりを知るようになった。
そのたびに頭の中はいっぱいになり、目の前のことしか見えなくなる。
それもこれも、全部あなたの……。
「ティア?」
戸惑うような声に顔を上げる。
そこには、困惑した表情でこちらを見つめるアルセイン皇子がいた。
私は眉をひそめて彼を睨みつけると、すぐに顔を背けた。
「あなたがどれだけ騒ごうと、ここにある品は全部私のものよ。分かったら、さっさと別の店に行って」
私は悪名高いお姫様なんだから、たまには傲慢に振る舞ったって構わないでしょ?
「本当に何なのよ! どこのお嬢様か知らないけどね、その生意気な口をどうにかしなさいよ!」
「どうして私が、あなたに命令されないといけないわけ?」
「あんた、お姫様気取りはいい加減に――」
「お客様! 如何されましたか!」
私たちの言い争いに気づいた店主が、慌てた様子で駆け寄ってくる。
その姿を見た途端、女の顔色がさっと変わった。
「まっ、また来たのか、エリス!」
「……さいあく」
店主の顔を見るなり、女は露骨に顔をしかめると店を飛び出し、そのまま人混みの中へ逃げ去ってしまった。
「お客様、大変申し訳ございません。彼女は以前からうちの商品を盗んでいく者でしてね」
「盗み……。まあ、そうだったのですね!」
思わず声が弾む。
先ほどまで胸の中を渦巻いていた得体の知れない苛立ちが嘘のように晴れていくのを感じた。
突如満面の笑みになった私を見て、困惑したかのように眉尻を下げて笑う店主。
ほら、結局はただの犯罪者だったんじゃない。
私は最初から分かっていたのよ。あの女は極悪人だって!
心の中で力強く頷きながら、私は隣に立つアルセイン皇子へ視線を向ける。
どうですか、と言わんばかりに見つめてみたものの、彼は意味が分からないと言いたげに小さく首を傾げるだけだった。
「先ほど彼女が今までに盗んだ品は、この棚に並んでいる香水と同じものだったのか?」
「え……?」
突然の問いに店主は目を丸くした。
「ええと……どうだったでしょう」
「大事なことだ。よく思い出してほしい」
穏やかな口調だったが、その眼差しは真剣だった。
どうしてそんなに、あの女のことを気にするのだろう。
私は目を細めてアルセイン皇子の顔を見つめる。
「ええと……確かに、この棚にある香水と同じものだったと思います。うちはレディー・マルグリッドの香水しか取り扱っておりませんので」
店主は記憶を辿るように視線を泳がせたあと、小さく頷いた。
「実は、彼女以外にもなぜかこの香水ばかり万引きされていて困っているのです。エリス……先程の彼女は、幼い時から街で見守っていた子なので中々騎士様の元へ突き出すこともできずにおりまして。昔はあんな子ではなかったのですが……」
そう言って店主は、寂しそうに目を伏せた。
その話を聞き終えたアルセイン皇子は、顎に手を添え、静かに思案するように目を細める。
その横顔からは、先ほどまでの穏やかな笑みはすっかり消えていた。
「分かった。では、ここにある物を全て売ってくれ」
「す、すべてですか……?」
「ああ。在庫分もすべてだ」
店主は口をぱくぱくと動かし、言葉を失っている。
「ねえ、私、やっぱり……」
慌てて止めようとした私の言葉を遮るように、アルセイン皇子が一歩近づいてきた。
「後で説明する。今は俺に合わせてくれ」
低く落ち着いた声が、耳元で静かに囁いた。
不意に距離を詰められ、思わず息を呑む。
真っ直ぐに向けられた真剣な眼差しには、不思議と逆らうことができなかった。
「品物は全種類、一つずつティアルジ公爵家へ届けてくれ。残りと請求書は皇宮へ頼む」
アルセイン皇子の口から「公爵家」と「皇宮」という言葉が飛び出した瞬間、店主は今にも卒倒しそうなほど目を見開いた。
「か、かしこまりました!」
深々と頭を下げると、店主は慌ただしく店の奥へと駆け込んでいく。
どうしてフレデリック公子の屋敷へ送るのかは気になったが、深く追及する気にもなれなかった。
どうしてあんなに? 確かに、私が言い出したことだけれど……。
けれど、それは本気で欲しかったからではない。
……ただ、腹が立ってしまっただけ。
先日も、そして今日も。私の怒りは気づけば抑えきれないほど大きくなっていた。
王族として生まれた以上、優先するべきなのは自分の感情ではない。
そう分かっているはずなのに、どうして私は訳の分からない感情にこんなにも振り回されているのだろう。
アルセイン皇子が、私のような子どもっぽい女よりも年上で色香のある大人の女性を好んでいたとしても、どうだってよかったはずなのに。
アリステア皇女から借りた、あの馬鹿げた夢物語を読んでしまったからだろうか。
どれもこれも、全て彼のせいだ。
アルセイン皇子が私を人魚姫のようだなんて言ったから、変に物語のキャラクターたちに、自分と周囲の人間を当てはめてしまったのよ。
結局は明るく愛される少女が全てを持って行って、一人ぼっちになってしまう人魚姫と、私を重ねてしまったから。
たとえ何も得られず、一人ぼっちで泡となって消えていく運命だとしても、私は……。
「ティア」
不意に背後から名を呼ばれ、肩がぴくりと震える。
……今さら私に幻滅したって、もう遅いのよ。
「そろそろ仕事にしよう」
そこには穏やかな微笑みを浮かべ、私へ向かって手を差し伸べるアルセイン皇子がいた。
まるで、物語に出てくる理想の王子様のように。
相変わらず、何一つ隙のない笑みを浮かべながら。
おかしな期待を抱いてしまうと、後々待っているのは苦しい痛みだけ。
お願いだから、私に優しくなんてしないで。




