2 謝罪の言葉が先では?
「次はこの書類をお願いします。予算表ですが、月別にして纏めてください」
ヴァレンツィア帝国に来てから、早くも一か月が経った。
本来ならば戦地より戻っているはずだったという私の夫は、何やらトラブルが起きたらしく、帰りが遅れてしまっているという。
「かしこまりました」
指示を出すと、財務部から来た男がこちらにぺこりと頭を下げて部屋を出て行った。
淡い光の差し込む扉が静かに閉まり、部屋には再び私一人きりが残される。
今だけの話ではない。皇子が戦地から返ってこないせいで、私は皇子妃となった今も一人ぼっちで過ごしていた。
一人なことには慣れっこなはずだけど、何だか少し寂しい。それに、顔も合わせたことのない夫に異国の地で一人にされるというのも何だか癪に障る。
「テレジアの姫と聞いてから心配してましたが、しっかりと仕事をなさる方じゃないか」
「そりゃあ、まだ嫁いできたばかりですから猫をかぶっているのでしょう。そう長くは持ちませんよ」
簡単に書類をまとめた後、私もそろそろ戻って休もうと部屋から出てみると、書類を持っていったはずの二人が部屋を出てすぐのところで立ち話をしているのが見えた。
テレジアの姫と、聞きなれた呼び名が聞こえてきたため扉の陰でこっそりと聞き耳を立てていると、いつものアレが耳に飛び込んできた。
「あと数カ月……いや、あと数週間も経てば本性を現すはずさ」
「あの、傲慢で我儘な最低最悪の……悪名高いテレジアの姫のことなのだから」
本性を表す、ね。アハハッ、私の本性って一体なんなのかしら?
噂というものは本当に厄介なもので、テレジア王国で言われていた「テレジアの姫の本性」というやつは、このヴァレンツィア帝国でも中々に広まっているようだった。
そのせいで、軽蔑のまなざしを向けられる毎日を送っていた。
この国の人々は建前上では他国から嫁いできた姫として親切に接してくれるから、それだけでもテレジアよりはマシな待遇だといえるわね。
もうしばらくで帰ってくるという夫を待つ間も、私は皇子妃としての仕事を黙々とこなしていた。
与えられた役割を果たせば余計な言葉を浴びずに済む。それが私の生きた十七年間で学んだやり方だった。
ヴァレンツィアにようやく馴染み始めた頃。
エメラルド庭園を一人で散歩していると、私はふと、茂みに隠れるようにして開いた小さな穴を見つけた。
子供の背丈ほどの穴。興味半分でくぐってみると、それは街まで続いた抜け穴だった。
抜け穴を見つけて以来、私は時折、夜中にひっそりとその抜け道を使って街へ出るようになった。
テレジアに居た頃もそうだった。
ルクレティア姫という肩書で生きる人生はなんとも息苦しくて、城を抜け出しては街でどこにでもいる少女の一人として遊んだものだ。
「おじさん、これをください」
街の出店のフルーツ串屋に寄った私は、いちごとブドウが交互に刺さった串を選ぶ。
「はいよ。お嬢さん可愛いから、もう一つおまけしてあげるよ!」
「わあ、本当ですか? ありがとうございます!」
こういう時の笑顔なら、自然に浮かんでしまうのが不思議なものだ。
テレジアに居た頃は念のためにと厳重な変装を行っていたが、こっちでは軽くローブ一枚被るだけで済んでしまう。
「お嬢さん見ない顔だけど、旅人か何かかい?」
「ええ、まあ」
「そうかい。それじゃあヴァレンツィアを存分に楽しんでいきなね! この国はいい国だよ!」
「はい、ありがとうございます。……そうだ。この辺りでいい感じの酒場を知りませんか?」
私の問いかけに、おじさんは少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐにニヤリと笑みを浮かべた。
「へえ、お嬢さんなかなか通だね。飲み歩きがお好きと見た」
「アハハ、お酒はあんまり好きでは無いんですが、あのガヤガヤとした楽しげな雰囲気が好きなんです」
「なるほどねえ。そうだな、美味しいワインの店があるところがある。ランタンが綺麗だって観光客にも人気だよ」
おじさんは通りの奥に向かって指を向けた。
「この通りを抜けて左、ちょっと細い路地に入ったところにある。表通りからは見えないが灯りが綺麗なんだよ。天井から小さなランタンがずらっと並んでてな。料理も丁寧だし、常連も多いけどよそ者にも優しい。あんたみたいな娘さんにはちょうどいいと思うよ」
「へえ……ちょっと行ってみます」
「気をつけてな。あんまり遅くならないように」
「はい。ありがとうございます!」
私はそのまま、手を振ってくれるおじさんに手を振り返しながら背を向けて、月明かりが照らす街へと歩き出した。
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「白ブドウジュースをお願いします」
「かしこまりました」
ワインが美味しい店は、例外なくブドウジュースも美味しい。これは私の持論だが、外れたことは一度もないから丁寧な論文として書き出せば……なんて、姫である私が街の酒場に行った話を出来るはずがないのだが。
「申し訳ございません。本日はいつもよりお客様が多くて……騒がしいですよね? お席を変えましょうか」
「大丈夫ですよ。お気遣いいただいてありがとうございます」
丁寧に微笑み返したそのとき、不意に背後で聞き慣れない子供の叫び声が聞こえた。
「や、やめてください!」
「チッ、ガキが」
「ごめんなさいごめんなさいっ! どうか許してください!」
振り返ると、がっしりとした中年の男が今にも手を振り上げそうな勢いで少年の腕を掴んでいた。
少年の目は涙でいっぱいになっていて、見ればその頬は既に殴られたのか赤く腫れていた。
「……どうかされたのですか?」
「あ? なんだよ嬢ちゃん」
「その子、痛がっているじゃないですか。手を離してあげたらどうですか?」
「はっ、アンタには関係ないだろ。このクソガキ、俺の財布を盗もうとしやがったんだ!」
「ごめんなさい! お母さんの薬代が欲しくて……あ、謝りますからどうか見逃してください!」
ざわつく客たちは遠巻きに見ているだけで、誰一人として声を上げようとはしない。
謝罪の言葉を並べる子供を見ると、不愉快でしかたなくなる。
『ごめんなさい、ごめんなさい! どうか許してください! ……私は本当に、何もやっていないんです!』
昔、父に必死に縋っていた自分を思い出してしまうから。
「うるせえガキだな……。ほら、嬢ちゃんも分かったらあっちに行ってろ!」
「でしたら私が代わりに慰謝料を払いますから、その子供を引き渡してください」
「はあ? 慰謝料ってアンタ……」
私はローブの内ポケットから小さな財布を取り出す。そして、男の足元にそれをぱらりと床に投げ落とした。
「これで足りますか?」
中から転がり出たのは、艶のある金貨――それも一枚や二枚ではない。床一面に音を立てて散らばった金貨が一瞬にして酒場の空気を変えた。
「なっ!」
「慰謝料としては、十分ですよね?」
「……あ、ああ! まあ、これだけあるなら今回は特別に見逃してやるよ」
男は鼻の下をこすりながら、「へへっ」と下卑た笑みを浮かべて床にしゃがみこみ、金を拾い集めていた。
それを見ていた少年が、おずおずと私の袖を引っ張る。
「あの、助けていただいて……」
「助けた? 何か勘違いをしているみたいだけど、私はあなたを引き渡してもらっただけよ」
「えっ……?」
少年の目が、恐怖に見開かれる。私は静かに視線を落としたまま、冷たく言葉を重ねる。
「犯罪を起こしておいて許されるとでも思っているの? そうね、あなたを騎士団に引き渡すのも悪くないかもしれないわ」
「そ、それだけは……! 俺が居ないと、お母さんに薬を渡せない! お母さんが死んじゃうんです!」
「そう? じゃあ、私が代わりに罰をあたえるわ」
途端に震え出す少年に、私はひとつため息をついてから、そっと手を伸ばす。
彼の額に親指と人差し指をあてて、パチンッと軽い音を立ててデコピンをした。
「はい。この私が直接あなたに罰を与えたわ。これであなたの罪はおしまい」
「へ……? えっと、俺、何が何だか……」
「病にかかったお母さんの薬を買いたいといっていたわね。それならこれをあげるから、今度は真っ直ぐ家に帰るのよ。二度と罪を犯してはいけないわ」
私は残っていた数枚の金貨をそっと彼の小さな手に握らせた。
すると少年は信じられないとでも言いたげに目を見開いて、今にも涙がこぼれそうな顔で何度も頭を下げる。
「ありがとうございます! お姉さん! これでお母さんを助けられる!」
「ええ、気を付けてね」
私が手を振ると、少年はくるりと身を翻して走り去っていった。
「嬢ちゃんよくやった!」
「ああ、本当に!」
まずい。目立つような行動は極力避けなければいけなかったのに。
「あ、アハハ……」
全員から拍手が送られて、私はとっさにウェーブがかったハニーブロンドの髪を顔に寄せ、顔を背けた。
滞在したままなのも面倒だ。まだ一口も飲めていない白ブドウジュースを一気に飲み越してさっさと帰ろうと思い、席に戻った。
「お嬢さん……」
席に着いた途端に声をかけられた。顔を上げると、少し離れた席に座っていた初老の男が気まずそうにこちらを見ていた。
「その、アンタ、あの金は――」
「失礼」
そのとき、私と老人の間に一人の青年が割って入った。
私と同じく黒いローブのフードを深く被っており、顔の半分以上が影に隠れている。
誰……?
怪しむ間もなく、その男は私の目の前にあった白ブドウジュースを勝手に手に取り――
「あっ! それは私の!」
一口。二口。
私が止める暇もないまま、青年はそれをぐいっと飲み干した。
「甘いな……ジュースか」
「……はい?」
まさか、人の物を勝手に飲んでおいて文句をつけるつもり?
「マスター、水をくれるか」
「えっ……あ、はい、かしこまりました……」
カウンター席の机越しに立っていた店主は、怯えたような声で返事をすると急いで奥の部屋へと歩いて行った。
「まだ私飲んでないのに……」
「なら、もう一杯頼むか?」
「……その前に謝罪の言葉が先では?」
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