18 ソルリア
「お姫様が視察へ行きたいと言い出したと聞いた時は、本当に驚いたよ」
向かいの席で長い脚を優雅に組んだアルセイン皇子が、穏やかな口調でそう言った。
その整った顔には驚きなど微塵も浮かんでいない。いつも通りの涼しい表情。
「そうですか」
ぶっきらぼうに返事をすると、私は彼と目が合わないよう窓の外へ視線を向けた。
護衛と私だけで向かうものだとばかり思っていたのに、馬車の扉を開けた途端、この国の偉大なる皇子様がいたら驚くのも無理はないだろう。
悲鳴を上げなかっただけ褒めてほしいくらいだ。
「視察というからには変装でもしてくるのかと思ったが、随分と華やかな格好をしてきたんだな」
アルセイン皇子の視線が、私のドレスへと向けられる。
今日身に纏っているのは明るい水色のドレスだ。
胸元から裾にかけて繊細なレースと幾重にも重ねられたフリルが華やかな、少々愛らしすぎるくらいの装いだった。
「変に偽ったところで、より怪しく見えるものですから。あなただって、たとえ泥に塗れたとしても、皇族特有のオーラを消し去ることは難しいでしょうね」
「ふむ……。ならばどうするんだ?」
「貴族に成りすませばいいのです。今日の私は、地方から遊びにきた成金貴族の令嬢という設定です」
「それは楽しそうだ」
アルセイン皇子は感心したように頷き、小さく笑った。
心から楽しんでいるような笑みだった。
馬車の窓から差し込む柔らかな陽光が、その端正な横顔を照らし出す。
「今日はあなたも一緒に視察に行かれるのですよね?」
「ああ。ちょうど暇だったからな」
この国にたった一人の皇子が暇? そんなはずがないでしょ。
思わずそう言い返したくなったものの、口にしてもどうせ、いつものように皮肉を言われるだけだ。
私は視線を少し逸らすと、「そうでしたか」と曖昧に笑みを返した。
「でしたら、お互い今回限りの呼び名を決めませんか?」
「呼び名?」
「ええ。人前で皇子と呼ぶわけにも、お名前で呼ぶわけにもいきませんから」
「それもそうだな。有名なテレジアンの姫の名を呼べば、すぐに正体を疑われるだろう」
私の提案に納得したように頷くアルセイン皇子を見て、私は続ける。
「では、私のことはティアとお呼びください」
昔から城を抜け出す時に使っていた偽名を口にすると、アルセイン皇子は面白そうに口角を上げた。
「その名は、城を抜け出す時の定番だったのか?」
「……あの時のことはもう忘れてください」
「あの日の出来事は、俺の人生でも指折りに刺激的な思い出だからな。そう簡単には忘れられそうにない」
「いいから忘れてください!」
睨みつけると、彼はますます愉快そうに笑みを深める。
……この男は、私をからかわないと死んでしまう病にでもかかっているのだろうか。
平静を装おうとすればするほど、いつも彼に調子を狂わされてしまう。
「では、私のことはティアと呼んでくださいね」
私はわざとらしく小さく咳払いをひとつして、強引に元の話題に戻す。
「あなたは……アルセインからとって、アルはどうですか?」
「そんなに単純でいいのか?」
「単純ですか? 私だってルクレティアからとっているのに」
「だから聞いているんじゃないか」
「…………」
「冗談だからそう怖い顔をするな」
これからはアルセイン皇子の言う言葉のほとんどを冗談として受け取った方がいいかもしれない。
そうでもしなければ、私の方が先に限界に到達してしまいそうだ。
「では練習をしましょう。さあ、私のことを呼んでみてください」
「ああ」
彼は素直に頷くと、ゆっくりとこちらへ水色の視線を向けた。
「ティア」
「……はい、アル」
やっぱり練習をする必要はなかったかもしれない。
改めて呼ばれてみると、急に気恥ずかしくなってしまい、どうにも落ち着かなかった。
どうしたものかと困っていると、丁度、走り続けていた馬車が止まった。
「到着いたしました」
御者の声が外から聞こえ、私はほっと胸をなで下ろす。
どうやら、無事にソルリアに到着したようだ。
「ここは……」
馬車を降りて辺りを見渡す。
そこには視界が開けた、ひっそりとした空間が広がっていた。
街の中心部へ直接向かうものだと思っていたが、どうやらここは街外れらしい。
人通りもまばらで、周囲には民家や小さな倉庫が点在しているだけだった。
「この道をまっすぐに行けば、すぐに中心部だ。この馬車で堂々と街中へ乗り込めば、それこそ大騒ぎになるだろう?」
隣に降り立った皇子が、前方へ視線を向けながら口を開く。
「それもそうですね。では、さっそく仕事に――」
「視察をするためには、まずは観光が先だ」
「へっ? あ、ちょっと!」
「ソルリアはいい街だ。きっと君も気に入る」
私の言葉を遮るように、アルセイン皇子は唐突に私の手を取ると、そのまま歩き始めた。
私は抗議する暇もなく、その大きな手に引かれながら後を追うしかなかった。




