17 予期せぬ同行者
焼きたての温かなスコーンには、濃厚なクロテッドクリームと甘酸っぱいブルーベリージャム。
ふわりと真っ白な生クリームをまとったショートケーキには苺が宝石のように飾られている。
さらに小ぶりなフルーツタルトや色鮮やかなムース、可愛らしい焼き菓子まで並び、机いっぱいに広がる甘い香りは思わず頬が緩んでしまうほどだった。
午後の柔らかな陽射しを受け、銀細工のティーセットがきらりと輝く。
まるで絵本の中に迷い込んだような穏やかな空間で、私は紅茶を一口含んだ。
「あむっ!」
愛らしい声とともに、向かい側に座った少女がチョコレートケーキを頬張り、幸せそうに目を細めた。
「アリスは、チョコレートがお好きなのですか?」
「はい! 甘いものなら何だって好きですが、特にチョコレートが一番好きです」
その笑顔を見ていると、ふと先日一緒に町へ出掛けたアルセイン皇子の姿を思い出す。
あの日も彼は嬉しそうにチョコレートクッキーを頬張っていた。
どうやらこの兄妹は、揃って相当な甘党らしい。
「お姉さまは甘いものがお嫌いですか?」
「いいえ、好きですよ」
ニッコリと笑みを浮かべて、私も傍に置かれたショートケーキを口へと運ぶ。
ふわりと香る生クリームの優しい甘さと、苺の酸味が口いっぱいに広がった。甘くておいしい。
私のことを「お姉さま」と親しげに呼ぶこの子は、間違いなく、あのアリステア・ディ・ヴァレンツィア皇女だった。
カルロッタ嬢たちとの一件があった翌日、形式的な謝罪をするつもりで皇女宮を訪ねた私を出迎えたのは、目に大粒の涙を溜めた皇女の姿だった。
『一人は寂しいのです。お願いします、お姉さま。私の傍にいてください。どうか、私を一人にしないでください』
帝国の皇女だという肩書ではあるが、所詮はただの幼い少女。
そんな子供に涙ながらに縋られては、手を振り払えるはずがなかった。
「ところでお姉さま、随分と慌てていたようですが、どこかへ行かれていたのですか?」
「少し用事があって、皇子殿下の元へ行っていたわ」
「……そうでしたか」
アリステア皇女は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに慌てて笑顔を浮かべた。
無理をしていることが分かる、ぎこちない笑み。
本当に顔に出やすい子ね。
「そういえば、アリスに聞こうと思っていたことがあったんです」
「お姉さまが私に? まあ、何でしょう!」
「アリスは、人魚姫というものをご存じですか?」
「人魚姫? もちろん知っていますが……」
「やはり有名な話なのですね」
「もちろん。ヴァレンツィアで育った子供なら誰しもが知っている話ですわ」
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海の底に暮らす人魚の姫は、地上の世界に憧れていました。
暖かな日差しに包まれる素敵な暮らしを。
お姫様はある日、嵐に巻き込まれた王子を助けたことをきっかけに恋に落ちました。
生まれた時から過ごしてきた海から離れ、愛する王子の元へ行きたいと願った人魚の姫は、魔女に頼んで、声と引き換えに人間の足を手に入れたのです。
しかし、王子は彼女のことを命の恩人だとは気づかず、別の女性と結婚してしまいました。
失恋した人魚姫は泡となって海に消えてしまうのでした――。
「……これのどこが素敵な夢物語なの?」
この人魚姫という惨めな主人公は、愛する家族が引き留められ、差し伸べられた手を振り払ってまで、愛などというくだらない感情を求めて生きて死んだという。
この何ともマヌケな話に、私は強い苛立ちを覚えた。
娯楽とする本を読んで、ここまで感情を揺さぶられたのは初めてだ。
この幼き少年少女たちの憧れる夢物語を知るには、私はあまりに歳を取りすぎたのかもしれない。
現実的な考えをしてしまう、つまらない大人の道を歩み出している私には。
「ルクレティア妃?」
「きゃあっ! い、いつからそちらにいらしたのですか? 公子!」
突如、背後から名前を呼ばれ、私は肩を跳ねさせて振り返る。
そこに立っていたのは、近頃何かと顔を合わすことが多いフレデリック公子だった。
「何度もお声がけしたのですが、本に夢中になられていたのですね」
「あ……ごめんなさい。ちっとも気が付きませんでした」
羞恥心から熱くなる頬を誤魔化しながら慌てて姿勢を正すと、フレデリック公子は爽やかに笑った。
「一体、何にそこまで夢中になられていたのですか?」
「実は、この本を皇女に貸していただいたんです」
「これはまた……何とも懐かしいですね」
「公子もご存じなのですか?」
「ええ、僕も皇子も、暗記するほど読みましたから」
この本を暗記するほど読んだ……?
まさか、見かけによらず二人ともロマンティックな物語が好きなのかしら。
「アリステア皇女殿下がとても愛された本だったんです。まだ幼い頃の皇女にせがまれて、何度も読み聞かせしましたから」
「あ……そういう……」
おかしな想像をしてしまった自分が恥ずかしい。
てっきり、二人仲良くこの人魚姫の物語の虜にでもなっているのかと思ってしまった。
「話が反れてしまいましたね、本日は頼まれていたものをお持ちいたしました」
「お忙しい中ありがとうございます、公子」
「とんでもございません」
手渡された書類には、ソルリアの予算表が綴られていた。
ソルリア。ヴァレンツィア帝国の南東に位置する街で、私が皇子妃として任されている予算管理の管轄地域のひとつ。
近頃、いくつかの報告が食い違っていて状況を把握しきれずにいたため前々からフレデリック公子に相談していた。
本来ならば皇宮の財務部の人間に頼るべきなのだろうが、彼らは私に好意的ではないし、私だって、私の悪口が大好きな人間と仕事をしたいとは到底思えなかった。
「やはり書面だけでは状況を正確に把握しきれません。できれば、実際に現地へ赴き、この目で確かめたいのですが……」
「皇子妃自ら現地へ……?」
「はい。やはり難しいでしょうか?」
「いえ……許可さえ下りれば不可能ではありませんが……」
まるで信じられないものでも見たかのように、フレデリック公子は金色の瞳を大きく見開いた。
「どうされました?」
「その……失礼ながら、ルクレティア妃のように大国の姫として育ったお方は、平民の暮らしにはあまり関心をお持ちではないと思っておりましたので、少々驚いてしまいました」
確かに、大きな力を持つ権力者たちは自分第一主義の者が多い。
それ自体はけして罪なことではないと私は思う。
育った環境が違えば、価値観も違う。それは、ごく当たり前のことだから。
私たち皇族が、日々の食事にも困る民の暮らしを実感できないように。
彼らもまた、皇族が生きる社交界という名の戦場を知ることはない。
飢えに苦しみ命を落とす世界と、たった一つの選択で地位も命も失いかねない世界。
「私は、民を第一に考えることこそ皇族の義務だと考えています」
私は自分のことに精一杯で、他の誰かを考える余裕はない。
それでも、何不自由のない生活を送って来たからこそ強く思う。尽くしてくれる民のために、私もまた尽くさなければいけないのだと。
皇子と結婚し、ヴァレンツィア帝国の皇族入りした私もまた、この国の民に尽くしたいと考えるのは当然だった。
「ルクレティア妃も、皇子と同じことを仰るのですね」
驚きに見開かれていた金色の瞳が、今度は穏やかに細められると、公子はそう呟いた。
私が、夫と同じことを言ったのだと。
・ ୨୧ ┈┈┈ ⋯ ┈┈┈ ୨୧ ・
数日後、護衛付きでの外出という条件付きではあるものの、皇帝陛下から正式に外出の許可が下りた。
どうやらフレデリック公子が根回しをしてくれていたらしく、話は驚くほどスムーズに進んだ。
迎えの時間に合わせて城の裏門へ出ると、そこには一台の上等な馬車が静かに停まっていた。
馬車に乗り込んだ瞬間、私は予期せぬ同行者の存在に固まってしまう。
「来たか」
そこには紛れもなく、私の夫、アルセイン皇子がいた。




