16 予期せぬ同行者
ブルーベリージャムとクロテッドクリームが添えられた温かいスコーンに、真っ白でふわふわのクリームと真紅の苺があしらわれたショートケーキ。彩り豊かな小さなタルトやムースが美しく並べられている。
机の上に広がる甘い香りと、午後の光にきらめく茶器の銀縁。
まるでおとぎ話の一場面のようなその空間で、私はティーカップを手に取り、紅茶を口に含む。
「あむっ!」
愛らしい声とともに、向かい側に座る少女がチョコレートケーキを頬張り、幸せそうに目を細めた。
「皇……アリスは、チョコレートが好きなのですか?」
「はい! 甘いものなら何だって好きですが、チョコレートが一番好きです」
満面の笑顔を浮かべて口へチョコレートケーキを運ぶアリステアの姿を見ると、先日に見た大量のチョコレートを口にしていた愛らしい皇女様の優秀なお兄様を思い出す。どうやらこの兄妹は揃って相当な甘党らしい。
「お姉さまは甘いものがお嫌いですか?」
「いいえ、好きですよ」
ニッコリと笑みを浮かべて、私も傍に置かれたショートケーキを口へと運ぶ。
ふわりと香る生クリームの優しい甘さと、苺の酸味が口いっぱいに広がった。甘くておいしい。
私のことを「お姉さま」と親しげに呼ぶこの子は、間違いなく、あのアリステア・ディ・ヴァレンツィア皇女だった。
カルロッタ嬢たちとの一件があったあの夜。形式的な謝罪をするつもりで皇女宮を訪ねた私を、彼女は目に大粒の涙を浮かべて出迎えた。
『一人は寂しくてたまらないんです。お願いします、お姉さま。私の傍に居てください』
そう必死に縋りつかれては、幼き皇女の……自分とよく似た育ちをした皇女の手を振り払うことなど、私にはできなかったのだ。
「そういえば、お姉さま。随分と慌てていらしたようでしたがどこかへ行かれていたんですか?」
「ええ……皇子の元に、少し」
「……そうでしたか」
アリステアの表情が一瞬にして曇る。わずかに眉根を寄せた後、慌てて作ったような笑顔を浮かべた。無理をしていることが一瞬にして分かる、下手くそな笑みを。
この際、お姉さまと慕ってくれているこの子に完璧な笑みの作り方でも教えてあげるべきかしら? 本当に分かりやすい子ね。
「アリスは人魚姫というものをご存じですか?」
急いで話を変えてみると、アリステアはきょとんとした顔をして首を傾げた。
「人魚姫? もちろん知っていますが……」
「やはり有名なのですね」
「ええ、ヴァレンツィアで育った子供なら誰しもが知っている有名な話ですよ。良ければ本をお貸しいたしましょうか?」
「まあ、本まであるのですね?」
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海の底に暮らす人魚のお姫様は地上の世界に憧れていました。暖かな日差しに包まれる、素敵な地上の暮らしを。
ある日、嵐に巻き込まれた王子を助けたことをきっかけにお姫様は王子に恋をします。
もっと近くで彼と過ごしたいと願った人魚姫は、魔女に頼んで声と引き換えに人間の足を手に入れます。
しかし王子は、彼女のことを助けてくれた人だと気づかず、別の女性と結婚してしまいました。
そして、失恋した人魚姫は、泡となって海に消えてしまうのでした――。
「……バカじゃないの?」
ぽつりと零れた独り言は思ったよりも鋭かった。
この人魚姫という惨めな主人公は、愛する家族が引き留め、差し伸べられた手を振り払ってまで愛などというくだらない感情を求めて生き、死んだ。最初から最後まで、なんともマヌケな話に私は強い苛立ちを覚えた。娯楽とする本を読んでここまで感情を揺さぶられたのは初めてだった。
ヴァレンツィアで育った人間なら誰しもが知っていると言う、この幼き少年少女たちが憧れる夢物語を知るには私はあまりにも遅かったのだろうか。現実的な考えをするつまらない大人の道を歩み出している私には。
「ルクレティア妃?」
「きゃあっ!」
突然背後から名前を呼ばれ、私は肩を跳ねさせて振り返った。
「い、いつからそちらにいらしたのですか? 公子」
そこに立っていたのは近頃顔を合わすことが何かと多いフレデリック・アルティアス公子だった。
「何度もお声がけしたのですが、本に夢中になられていたようですね」
「あ……ごめんなさい」
姿勢を正して慌てて返すと、フレデリック公子はふっと笑みを浮かべて首をかしげた。
「一体何にそんなに夢中になられていたのですか?」
「これを、皇女殿下に貸していただいたんです」
私は手に持っていた本を公子に向かって差し出す。
「ふむ、人魚姫物語ですか? これはまた懐かしいですね……」
「公子もご存じなのですか?」
「ええ。僕も皇子も、暗記するほど読みました」
この本を暗記するほど読んだ……? まさか、見かけによらず二人ともロマンティックな物語が好きなのかしら。
「ふふ、誤解なさらないでください、ルクレティア妃。その本はアリステア皇女殿下がお好きだったんです。彼女にせがまれて、何度も読み聞かせたことがあって」
「あ……そういう……」
おかしな想像をしてしまった自分に少し頬が熱くなる。てっきり、二人仲良くこの人魚姫の物語の虜にでもなっているのかと思ってしまった。
「話が反れてしまいましたね。本日は頼まれていたものをお持ちいたしました」
「お忙しい中ありがとうございます、公子」
「とんでもございません」
手渡された書類にはソルリアの予算表が綴られていた。
ソルリア。ヴァレンツィア帝国の南東に位置する街で、私が皇子妃として任されている予算管理の管轄地域のひとつだった。ここ最近、いくつかの報告が食い違っており、状況を把握しきれずにいた。
そこで私が頼ったのが顔見知りと呼べるほどの関係性を築けたフレデリック公子だった。本来ならば皇宮の財務部の人間に頼るべきなのだろうが、彼らは私に好意的ではない。私だって自分の悪口を楽しそうに言い合う人間と仕事をしたいとは思わない。
「やはり書面だけでは状況を正確に掴みきれないと思うんです。実際に現地へ赴いてみたいのですが……」
「皇子妃直々に、現地へと……?」
「はい。……やはり難しいでしょうか?」
「いえ……許可さえ取れれば可能ですが……」
信じられないものを見たかのように驚きに目を丸くするフレデリック公子。淡いマリンブルーが揺れている。
「公子? どうかされましたか?」
一体何にそんな驚くのか分からなった私は問い返す。
「その、ルクレティア妃のように大国の姫として育った方は、あまり平民の暮らしを把握されていないと思っていましたので少し驚いてしまい……」
アリステア皇女ほどではないが、彼もまた表情に出やすい人だ。私の様子を伺いながらも恐る恐る語るその言葉を私は一つ残らず聞き入れた。
確かに大きな力を持つ権力者たちは自分第一主義の者が多い。それ自体はけして罪なことではないと、私は思う。育ちや環境の差が価値観の差を産むのは当然のことなのだから。私たちが民の困窮な暮らしを理解できないように、彼らも私たちの生きる世にも恐ろしい社交界のことを理解できえない。食に困り飢え死にするか。選択を間違え殺されるか。
大切なのは、寄り添う意識。
「民を第一に考えることこそ皇族の義務だと私は考えています」
私は自分のことに精一杯で他の誰かを考える余裕はない。それでも、何不自由のない生活を送って来たからこそ強く思う。尽くしてくれる民のために私もまた尽くさなければいけないのだと。皇子と結婚し、ヴァレンツィア帝国の皇族入りした私もまた、この国の民に尽くしたいと考えるのは当然だった。
「……あなた様も皇子と同じことを仰るのですね」
丸く見惹かれていた目が、今度は細められる。
微笑みとまでは呼べない穏やかな表情を浮かべたフレデリック公子はそう呟いた。
私が、夫と同じことを言ったのだと。
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数日後。護衛付きでの外出という条件付きではあるものの、皇帝陛下から正式に外出の許可が下りた。どうやらフレデリック公子が根回しをしてくれていたらしく、話は驚くほどスムーズに進んだ。
迎えの時間に合わせて城の裏門へ出ると、そこには一台の上等な馬車が静かに停まっていた。
金の装飾が施された車体は、見慣れた王族用のものである。
馬車に乗り込んだ瞬間、私は予期せぬ同行者の存在に固まってしまう。
「来たか」
そこにいたのは紛れもない、私の夫。アルセイン皇子だったからだ。
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