13 私を信じてください
「本当に残念だわ」
冷たく、そしてどこか悲しげに呟かれた言葉。
アリステア皇女とカルロッタ嬢がどんな関係を築いてきたのか、ひと月と半月前にヴァレンツィアにやって来た私にはちっともわからない。
メイドの噂では二人がまだ幼いころからの友人と聞いていたけれど……。
そんなことを考えていると、皇女のマリンブルーの瞳が顔を真っ青にしているカルロッタ嬢から私の方へと向けられる。
「ルクレティア妃」
子供の成長は早いって言うけれど、まさかここまでだなんて。
「私が今ここに立てているのはあなたのおかげです。本当にありがとうございます」
頭を下げ、肩から流れ落ちる淡いピンク色の髪。
ふわふわとしているのに、一本一本が意志を持っているかのようにサラサラと揺れている。
アリステア皇女は瞳の色と同じ水色のドレスの裾を両手で丁寧に持ち上げると、私に向かって深々と頭を下げた。
「そして、これまでの無礼な振る舞いの数々をどうかお許しください」
落ち着いた声で謝罪の言葉を並べたアリステア皇女。
彼女は本当に、あのアリステア・ディ・ヴァレンツィアなのだろうか?
本当に信じられないことばかり重なる。
カルロッタ嬢を叩いたことだけでも信じられないというのに、まさか皇女が人に頭を下げるだなんて。それも、相手は私よ?
「皇女……」
信じられない光景を前に言葉が出ない。
しかし、だからと言っていつまでも口を閉ざしたままいるわけにもいかない。
私がこの帝国の大切な皇女さまに頭を下げさせているという光景を使用人にでも見られたら、どんな勘違いをされ噂をされるか……うう、想像しただけでも恐ろしい。
とりあえず、彼女を宥めて頭を上げてもらわなくては。
ギュッと拳を握りしめて覚悟を決めた私は、恐る恐る口を開いた。
「皇女、お願いですからどうか顔をあげてくだ……」
「一体何の騒ぎだ?」
低くも芯のある、よく通る声が私の覚悟ある一声を遮った。
それは憎き令嬢たちのものでも、涙に頬を濡らすアリステア皇女のものでも、もちろん私の声でもない。
「おにいさま……」
アリステア皇女が呟いたその一言がこの場の空気を一変させた。
まっすぐな足取りで姿を現したのは、私の形式上の夫であり、涙を流す皇女のお兄様。
アルセイン・ディ・ヴァレンツィア皇子だった。
「あっ……」
皇子の姿を目にしたアリステア皇女の表情に、はっきりとした動揺の色が走る。
その透き通るように白い手を胸元でぎゅっと合わせ、長く伸びた睫毛を震わせながら目を閉じた。
瞬間、まるで恐ろしい魔物から逃げ出すかの如く勢いよく踵を返し、部屋を飛び出してしまった。
「皇女!」
思わず呼び止めようと声を上げる。
けれど、響いた落ち着いた低音に声を遮られてしまう。
「アリステアの所には、後でフレデリック公子を送っておくから大丈夫だ」
驚くほど冷静なアルセイン皇子の口調に、やや気まずさを覚えながらも私は小さく頷いた。
彼は一歩こちらに歩み寄ると、皇女より濃い青の瞳をまっすぐに私に向けた。
「それで、君が説明してくれるか? これは一体どういう状況なのか」
「そ、それがですね……」
アルセイン皇子に説明を求められ、これ以上面倒ごとは起こしたくないと考えた私は、とっさに政治の話で盛り上がったなどと適当な理由で丸め込もうと思い、口を開こうとした。
「アルセイン!」
けれど、それもまた何度目かの邪魔者によって塞がれてしまった。
どいつもこいつも、どうして私に最後まで話させてくれないのよ!
背後から甘く、甲高い声。
カルロッタ嬢が潤んだ瞳で、迷うことなく皇子の方へ駆け寄ったのだ。そしてそのまま、勢いよく彼の腕へと身を預けるように抱きついた。
「あなたが来てくれて、私がどれほど安心したことか……!」
嗚咽混じりに、震える声で訴えるカルロッタ嬢。
ぽろぽろと涙をこぼし、まるでこの世の終わりとばかりに肩を震わせるその様は、王都の劇場で十分に主役を張れそうなほど。
皇子の視線がカルロッタ嬢へと向かう。
長身の彼に見下ろされた涙を浮かべて小さく震えるお嬢様の姿は絵画のように美しい。
美男美女。まさに、ロマンス物語の一場面ってところかしら?
こうしてい見ていると、凱旋式の日を思い出す。
悲劇のヒロインを演じるのは、彼女の得意技なのだろう。
「どうした。頬が腫れているが……」
「グスッ、あのね、私ったらルクレティア妃を怒らせてしまったみたいなの」
口元に手を添えて、涙交じりにあざとく声を震わせるカルロッタ嬢。
伏し目がちにしているものの、その長い睫毛の影からは時折皇子の顔色を探る紫色の目が覗いている。
ハハハ……素直に尊敬だと言ってしまいたくなるほど見事な演技ね。
泣き顔ひとつで場を支配する才能。
こんな状況でも私を陥れることを諦めない執念……いや、もはや執着と言ったほうが正しいか。
まさか、アリステア皇女が叩いた頬を私の仕業に仕立て上げる気?
私は込み上げる複雑な感情を抑え込むようにしてケープの袖をギュッと握りしめた。
「怒らせた?」
「ええ、そうなの。アルセインは知らなかったわよね? 皇女が倒れたあの日、あなたが皇女を連れて行った後に何があったのか」
「……俺がアリステアを連れて行った後に騒ぎがあったことは知らせは受けている」
ああ、なんだ、全部知っていたの。
そのうえで私を放っておいたの? 何も言わず、気づいていないフリをして私を泳がしていたの?
もしかしてあなたって、結構性格が悪いのかしら?
「本当なのか?」
「え? 何を言うのよ。私があなたに嘘を付くわけ……」
「俺は、彼女に訊いている」
そう、どこか機嫌そうに言い放ったアルセイン皇子は自身の腕に纏わりついていたカルロッタ嬢の手を振り払った。
そして一歩、また一歩と私の方へと歩き出す。
その美しい青い瞳に私だけが映し出されると、またギュッと胸の奥が締め付けられた。
ドクン、ドクン、ドクン。
緊張して、怖くて、心臓の音が煩くて、今にも死んでしまいそう!
「ルクレティア、今の話は本当なのか?」
姫でも妃でも、皇子妃でもない。ただのルクレティア。
たったそれだけの呼びかけが、どうしてこんなにも胸を締めつけるのか。
あなたにその名を呼ばれると、私はどうも弱くなってしまうみたい。
あの夜に、あなたが言ってくれた言葉を思い出してしまうからかしら?
その問いかけは、ちゃんと私の言葉を聞いてくれる時の問いかけ。
急かしたり、無理に謝罪をさせようとしたりしない、私の意見を尊重してくれる優しい聞き方。
この騒動の真相を誰の言葉でもなく、私の口から知ろうとしてくれている。私に耳を傾けてくれている。
だったら私は……。
「ち、ちがいます!」
情けないほどに声が震えて、思わず胸元を掴んだ。
私はあなたのせいで、いつもみたいに上手くできなくなってしまうの。
平然と嘘をついて、何も感じていないフリをして誰の言葉も気にせず笑ってみせる。それは私の得意分野のはずなのに。
あなたの前ではどうしてこんなにも不器用になってしまうのかしら。どれもこれも、あなたのせいよ。
だからちゃんと私の話を聞いてちょうだい。
あなたにならきっと話せるから。私を信じると言ってくれた、あなたになら。
……あの言葉、私は信じてみてもいいのかしら?
「頬を叩いたのは私ではなく、アリステア皇女です」
「アリステアがカルロッタのことを?」
「はい、ですが皇女は私を庇ってくださっただけなのです。カルロッタ嬢が私に向かって無礼なことばかり言うので、私を庇ってアリステア皇女が……だから……」
言葉が断片的に途切れる。
胸の奥で渦を巻く感情を押さえ込もうとしても、うまく整わない。
思考が追いつかなくて、ただ必死に事実だけを絞り出す。
私の言いたいことは何? 今起きた事実をちゃんと纏めなくては!
嘘ならペラペラと滑らかに出てくるのに、本当のことを言うことがこんなにも難しいなんて。
私が一番伝えたいこと、伝えなければならないこと。
私は何もやっていない。全部嘘なのよ。
だからお願い。お願いだから……。
「わっ、私を信じてください!」
あなただけは、私の話を信じてくれるわよね? アルセイン……。
私は胸の前で両手を合わせて、勢いよく強く叫んだ。
返ってくる返事を想像するだけで、胃の奥がねじれて吐きそうになる。
神に祈るときのように指を固く組み合わせ、こみ上げる涙を喉の奥で押し殺す。
少しでも気を緩めれば、しゃっくりと一緒に嗚咽が零れ落ちてしまいそうだった。
それほどまでに、私は追い詰められていた。
……けれど、私の予想をあっさり裏切るほど、彼の返事は軽やかなものだった。
「分かった」
「え……」
「つまり君は、カルロッタのせいでそんな顔をしていたんだな」
鏡があればすぐに覗き込みたい衝動に駆られる。
そんな顔って……私は今、どんな顔をしているの?
「俺は君を信じるよ」
たったその一言が、長年に渡って培っていた心の壁を破壊した。
バラバラと崩れ落ちるような、そんな……。
私を信じてくれる人が、この世界にいたなんて。
「は……? アルセイン、何を言っているの? 長年の友人である私の言葉を信じてくれないっていうの?!」
「ああ、そうだな。確かに君は昔から妹に良くしてくれた。大切なヴァレンツィアの人間だ」
「だったら……」
「だが、彼女は俺の妻だ。悪いが立場を弁えてくれるか」
その言葉と同時に、アルセイン皇子は私の肩へと静かに手を回す。
戸惑う私の身体を引き寄せるように、そっとその腕の中に抱いた。
彼の爽やかな香油の香りと、規則正しく刻まれる鼓動。
こういう時、守られるべき可憐な少女は何と言うのだろうか? よくあるロマンス物語の、カッコイイ王子さまに守られる少女ならば。
残念ながら、そういう本に興味も縁も無かった私にはどの言葉が正しいのかさえ分からない。
だから私はただ口を閉ざしたまま、夫の、その美しい横顔から目を離すことができなかった。
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カルロッタ嬢は、アルセインから突き放されたことがよほど堪えたのだろう。
顔を強張らせたまま言葉も発せず、背後に控えていたシルヴィア嬢とアリエル嬢にそっと支えられるようにして、その場を後にした。
そして今、私はアルセイン皇子に部屋まで送ってもらっていた。
広く長い廊下を、二人で並んで歩く。
外の窓から差し込む夕陽が、床に長く二人分の影を落としている。
その静けさが、さっきまでの騒動がまるで遠い昔のことのように思わせた。
「フレデリックを通して、アリステアからも話を訊くつもりだ。まずは疲れたことだろうからゆっくり休んでくれ」
「…………」
「ルクレティア妃?」
私がふいに立ち止まると、彼もまた足を止めた。
廊下の端で、夕陽に照らされた彼の瞳が柔らかく揺れているのが見える。
私が立ち止まると、彼もまた同じようにその場に立ち止まった。
「ルクレティアです。先程のように、ルクレティアと呼んでください」
彼の顔を見上げながら、そっと微笑む。
すると、アルセイン皇子の顔にはいつもの悪戯げな笑みが浮かんだ。
「俺だけが君の頼みを聞くのか? それは……」
「フェアじゃない、ですよね?」
その言葉を遮るように、私が先に口を開いた。
すると、アルセイン皇子は驚いたように目を見開く。
「では、先日仰っていた私の秘密を教えて差し上げます」
「秘密?」
「実は、私もチョコレートクッキーが好きなんです」
「は?」
あまりにも拍子抜けしたような声。
彼は瞬きを二度三度繰り返し、少し眉を上げると私の顔を覗き込んだ。
「だから、あなたがあの日私にくれたチョコレートクッキーを食べておけばよかったと後悔する時があってですね……」
自分でも分かるほど声が小さくなっていく。
そんな私を見て、アルセイン皇子は一瞬だけ目を丸くしたあと、思わずといったふうに笑い声をこぼした。
「ああ、そうだな。……俺も、久しぶりに食べたくなったよ」
そして小さく咳払いを一つすると、アルセイン皇子は私に向き直り、目を細めて笑みを浮かべた。
キラキラ……チカチカ……。
私には眩しすぎて、思わず両手で目を覆いたくなってしまうほど、あなたには輝いている。本当、鬱陶しいくらい。
「だが、一人で行くのはあまりにも寂しいだろう? ルクレティア、俺に着いて来てくれるか?」
その言葉とともに、私の前に差し出された手。
私はその手を見つめ、自然と口角が上に吊り上がる感覚を覚えた。
それはいつものような意図して作ったものではなく、自然に浮かんだ笑みだった。
「いいですよ。私も、あなたと一緒に行きたいと思っていましたから」
私は差し出されたその手に、そっと自分の手を重ねた。
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