2.貴妃、不遇を託(かこ)つ
寧福長公主明婉の思い付きは、はっきり言ってはしたなく外聞悪くみっともないものだ、と董貴妃仙娥は考えていた。
貴人の機嫌を取るためなのか何なのか、侍女も役者も止めなかったらしいのが信じがたいし嘆かわしい。
(しかも、演目は《女駙馬》ですって? 《探秘花》以上に荒唐無稽な……)
《女駙馬》は、父母の仇を討つために科挙を受験した娘が、状元で合格した上に公主の駙馬に選ばれるという筋書きだ。
そもそも女は科挙を受けられないし、不正防止のために受験者は内衣の中まで検査されるものだ。性を偽ったままで合格できる余地はない。
かような筋書きを好んで観るという下々は、よほど愚かなもの知らずなのだろう。
(愚かというなら、このふたりもだけど)
視界の端に映る同輩の貴妃たちを横目で窺って、仙娥は心中嘲った。
今日の席は、先日、各殿舎の役者が芸を披露したのと同じ建物だ。席次も、香雪が欠席している以外は変わらない。最年長の仙娥を中心として、ほかのふたりが左右を固める形になっている。
芝居なら何でも良い、と言いたげににこやかにしている謝貴妃華麟。長公主からの招待に、喜びと緊張の表情を相半ばさせて落ち着かない様子の周貴妃鶯佳。
いずれも、大したことは考えていないだろう。今後の立ち回りに頭を悩ませているのは、仙娥だけだ。
(興徳王殿下のお耳に入ったら何と仰るか……)
謹厳な皇父殿下が、愛娘の下品な遊びを気に入るはずがない。招待を受けた段階で諫めはしたけれど、長公主に強く命じられればどうしようもなかった。彼女は決して賛成しなかったのだと、理解していただけるだろうか。
(我が家の者が駙馬になった暁には、正しく教導して差し上げると──申し上げても、不敬にはならないかしら?)
興徳王は、まだ仙娥の甥を駙馬に、と考えてくださっている。好き好んで唄ったり踊ったりする姫君を身内に迎えるのは、まあ頭が痛いことではあるけれど、だからこそ快くお受けする姿勢を見せることで、興徳王の歓心を買えはしないだろうか。
(沈貴妃はもっと疑われると思ったのに。もっと、見苦しく泣き喚いて狼狽えると思ったのに。上手く行かない……!)
舞台の脇では、伶人《楽師》たちが各々の楽器の音を確かめ始めている。弦楽器はともかく、打楽器の音は甲高く耳障りで仙娥の神経を逆撫でる。ほかのふたりに気付かれぬよう、仙娥は卓の下で裙を思い切り握りしめた。
上手く行かない、は後宮に入って以来、常に仙娥に纏わりつく思いだった。
数多の妃嬪を見渡せば、皇帝の寵愛を得るのは彼女をおいてほかにいないだろう、と信じていた。
幼い鶯佳が競争相手にならないのはもちろんのこと、先帝同様の戯迷の華麟も、皇太后に取り入ることに専念していた趙貴妃瑛月も、新帝の目に留まるとは思えなかった。
けれど、皇帝は仙娥の横を素通りして、香雪を選んだ。あの女の清楚な美貌や教養高さ、控えめながら洗練された立ち居振る舞いが称賛されるのを漏れ聞く度に、仙娥は歯噛みしたものだ。
そんな美点はすべて、彼女だって持っているのに。先に皇帝の目に留まったのがどちらか、というだけでこうも明暗が分かれるのは、承服しがたい不公正というものだった。
(《偽春の変》の時だってそう! あの女は失うものがないから賭けに出ることができただけよ……!)
万が一を考えて、偽皇子に役者を送った仙娥の判断は、賢かったはずだ。皇帝に問われたなら、あちらの様子を探るためだったと言い訳──否、説明する準備はできていた。でも、その機会は訪れなかった。皇帝は、香雪の振舞いこそを認めた。あの女は、何もしなかったという功績で貴妃に上ったのだ。同格に扱われるたびに、どれほど腸が煮える思いをしたことか。
仙娥が唇を噛んだ時──《女駙馬》の舞台が始まり、長公主明婉が演じる女駙馬が登場した。女だてらに状元で及第したことを驚きつつ誇る、晴れやかな歌の場面、のはずなのだけど──
(……聞くに堪えない。恥ずかしくないのかしら)
明婉のか細い声は柳の綿のように力なく頼りなく、伴奏の楽の音に負けてどこまでもふわふわと漂うようだった。
詞も仕草も、思いのほかによく覚えているようではあるけれど──どうあがいても下手、の評価を免れない。よそ見をすることさえ非礼だろうから、ほかの貴妃ふたりや侍女たちがどんな顔をしているかは分からないけれど、苛立ちを表情に出さないように、仙娥はかなりの忍耐を強いられた。
仙娥がようやく気を緩めることができたのは、黎姸玉が登場してからやっと、だった。
《探秘花》と同じく公主を演じている姸玉は、婿に迎えた状元が実は女だったと知って嘆き、怒る。女駙馬はそれを宥め、身の上話を打ち明けて許しを請おうとする。
おかしさと真剣味と切なさが同居する掛け合いは難しいが、歌の名手の姸玉に支えられて、明婉の声もほんの少しだけ聞けるものになった。
抱えの役者の技量に満足して、仙娥はようやく心から微笑み、手を叩いた。
(あの娘は、賜宴でどなたかの目に留まるでしょう。家妓でも妾でも──そうして、董家の人脈を強化してくれる)
秘華園の役者は、主である妃嬪とその実家にとって良い駒だった。けれどそれももう過去のことだ。先帝の御代でのように、祝儀を稼いでくれることはもうできないだろうから、賜宴で人目に触れるのを好機として、高く売ってしまうのが良いだろう。
まあ、梨燦珠と沈貴妃への取り調べの結果次第で、賜宴そのものが流れるかもしれないけれど──それはそれで、仙娥にとっては喜ばしい展開だ。
(あの女が罪に問われれば良い。貴妃の位も陛下の寵愛も失えば良い……!)
梨燦珠の翠牡丹が盗まれたのを利用して、興徳王に疑いを吹き込むことに成功した時は、胸が弾んだのに。仙娥の企みは、思ったほどの効果を上げてくれなかった。
皇帝は、思いのほかに冷静に調査を命じたし、香雪は思いのほかに諦め悪く、無罪を主張する余裕を見せた。興徳王は、開き直りの強弁だと解釈してくれたようだけれど、調査の上で香雪が無罪となったら、風向きはどのように変わるだろう。
(でも、少なくとも翠牡丹が怪しいことに使われたのは事実。問題文の件で照会を受ける方々も、香雪に悪印象を持つはず……!)
会試の出題者の高官たちは、問題文の漏洩を疑われれば不快に思うだろう。身の覚えのないことなのだから。
不名誉な疑いの原因が香雪や梨燦珠にあると知れば、彼女たちの外朝での評判は下がるはず。皇帝も、配慮しない訳にはいかなくなるだろう。問題は、糾弾の場での仙娥の言動だけれど──
(わたくしは──当然の意見を述べただけよ。何も悪いことはしていない。梨燦珠の翠牡丹を盗んだのは、わたくしではないのだし……!)
だから、仙娥は失うものはないはずだ。恐れ、焦る必要はない。ただ、それでも少しでも香雪の傷が深くなって欲しい。できることなら、あの女に肩入れする役者たちや、忌まわしいほど美しい楊太監も諸共に。
(あの女が失脚しますように……!)
もう何度目か、心に強く念じた時──拍手の音がして、仙娥は我に返った。
舞台では、明婉と姸玉が並んで観客に笑顔を見せている。性を偽った女駙馬の罪は許され、公主と姉妹の契りを結ぶ──《女駙馬》の筋書きの大団円を迎えていたらしい。
「役者顔負けの見事な演技でしたわ、長公主様」
卒なく見え透いた世辞を述べる華麟は白々しいことこの上ないし、大きく頷く鶯佳はたぶん何も考えていない。
(長公主様に役者だなんて)
呆れ果て、心中で嗤いながら、仙娥は賢い発言を考えようとした。興徳王や皇帝の耳にこの茶番が届いた時、わたくしは諫めたのですけれど、と言えそうなことを。目の前の無邪気で愚かな姫君よりも、その父君や兄君の機嫌のほうがよほど大事なのだから。
でも──仙娥が気の利いた表現を思いつくよりも、明婉が弾んだ声を上げるほうが早かった。
「本当に? では、わたくしも翠牡丹とやらをもらえるのかしら」