↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【書籍1、2巻発売中】煌めく宝珠は後宮に舞う  作者: 悠井すみれ
第二部 五章 虚実、入り乱れて嘘を暴く

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

103/136

1.長公主、衣装を纏う

 その日、秘華園《ひかえん》には再び貴妃《きひ》たちが集められた。


 科挙の不正に関わる嫌疑をかけられて謹慎中の沈《しん》貴妃香雪(こうせつ)以外の三人の貴妃たちは、寧福《ねいふく》長公主《ちょうこうしゅ》明婉《めいえん》が主演を務める芝居を観る栄誉を与えられたのだ。栄誉、と──招かれるほうは、そう言うしかないだろうけれど。


(……素人《しろうと》の下手な芝居を見せられるのだと、困っているのではないかしら……秘華園の役者の演技を見慣れている方たちなのに……)


 招いたのは自分自身だとは重々承知していても、明婉としては、怖くて恥ずかしくて堪らない。当日になって、これから衣装に着替えるという段になってなお、そうだった。

 侍女の梅馨《ばいけい》に不安を打ち明けたいけれど、では止めればよろしいとさらりと言われるのは目に見えている。


(とても大事なお(・)芝(・)居(・)だもの。皆、もう準備をしているところなのに)


 取りやめるなんて考えられない。楽しみにしている思いも、確かにある。でも、怖い。恥ずかしい。だから明婉は、先ほどから胸の前で手を組み合わせて、ぐるぐると歩き回っている。身体を動かしていると、まだ気が紛れる──ような気がしないでもない。


 緊張に震え、吐き気さえ覚え始めた明婉の耳を、軽やかな笑い声がくすぐった。


「初(・)舞(・)台(・)が大がかりなことになっておりますわね。羨む役者も多いことでございましょう」

「え、ええ……」


 古風な斉胸襦裙《せいきょうじゅくん》を纏い、優雅に微笑んでいるのは謝《しゃ》貴妃華麟(かりん)だ。長公主を前に、ひとり座るような非礼はもちろん犯さず姿勢を正して立っている。わずかな揶揄《からか》いを含んだ口調も悪戯っぽい眼差しも、明婉を侮ってのものではない。


 事実、華麟は透けるような薄絹の袖で口元を隠して、この上なく楽しそうに笑っている。


「わたくしにとっても、演じるのは初めてのことです。長公主様との共演だなんて光栄ですわ」


 華麟もまた、今日の一幕の大事な役者なのだ。こよなく寵愛しているという男役の星晶《せいしょう》の顔を見るという口実で楽屋を訪れて、明婉たちと最後の打ち合わせをしたところだった。本番を控えてなお、固まり切った明婉を見かねて声をかけてくれた、ということかもしれない。


(優しい方、なのかしら)


 明婉にとっては、今回が後宮に長く滞在するのは初めての機会だった。兄の妃たちの人柄を知る、良い機会でもあったのかもしれない。華麟の気遣いに感謝しながら、明婉は首を傾げた。


「謝貴妃は、華劇《ファジュ》が好きだと聞いたけれど?」


 違う時代の絵画から抜け出したような華麟の出で立ちは、華劇《ファジュ》の演目にちなんだものなのだとか。華劇《ファジュ》も星晶もそんなに好きなら、自分で演じてみたいと考えたことはないのだろうか。


 明婉の素朴な疑問に、華麟は満面の笑みで応じてくれた。でも、花のような唇が紡いだ言葉は、輝くようなその笑顔ほどには優しくなかった。


「華劇《ファジュ》の唱《うた》も舞も大好きです。特に、わたくしの星晶が。あの子たちの鍛錬を知り、愛し、尊重するからこそ、権を振りかざして割り込む気にはなれませんわね」

「ご、ごめんなさい……」


 では、華麟はさぞ明婉のことを苦々しく思ったのだろう。今日のことも、そもそも最初に役者になりたい、だなんて言い出したことも。言葉によって打たれた思いで首を竦めると、華麟はまた軽やかな笑い声を響かせて明婉の弱気を吹き飛ばした。


「主として良いところが見せられるのは嬉しいことですわ。……前(・)は、星晶を見送ることしかできませんでしたから」


 眉を寄せて唇を尖らせる華麟が言う前(・)が何のことだか、明婉は知らない。昨年の《偽春《ぎしゅん》の変》では後宮も秘華園も大いに動揺したというから、その時に何かあったのだろうか、と想像するくらいだ。


 ただ──長公主だの貴妃だのと崇められても、彼女たちにできることは思いのほかに少ないのだ、ということは理解できる。


(良いところ……そう、できることがあるのは素敵なことよ)


 改めて自分に言い聞かせると、明婉の口元が自然とほころんだ。傍目にも緊張が和らいだのが見えたのだろうか、華麟が、今度こそ励ますような笑顔と言葉をくれる。


「わたくしは、途中までは観客ですもの。特等席で長公主様の熱演を拝見させていただきましょう」

「謝貴妃に満足してもらえたなら、わたくしも光栄です。……あの、頑張ります。燦珠のためにも……!」


 明婉と華麟が、間近に顔を突き合わせて頷き合った時──まさに、その燦珠の声が明るく響いた。


「お待たせしました、長公主様! お着替えと化粧の手伝いに参りました。始めてもよろしいでしょうか?」

「ええ、もちろん」


 意気揚々とした足取りで入室する燦珠の後ろには、衣装や化粧道具を携えた星晶と喜燕《きえん》が続く。この数日の練習と打ち合わせの間に、明婉も役者たちの顔と名前をだいぶ覚えた。


「わたくし、男装をするのは初めてなの。どきどきするわ」

「別人になれるようで楽しゅうございますよ。お姿を変えれば、役を演じるお心構えもできましょう」


 裙《スカート》の帯を解きながら呟く明婉に、優しく語り掛ける星晶の声は甘く、しかも卒がない。華麟が惚れこんで褒め称えるのも当然だった。


(本当に、わたくしではないみたい……!)


 そして、しばしの後に差し出された鏡を見て、明婉は胸を弾ませた。


 普段は結い上げて鳳冠《ほうかん》で飾る髪は、小さく纏めて文官が被る烏紗帽《うしゃぼう》に収めた。花蝶が舞う色鮮やかな襦裙《じゅくん》に代わって纏うのは、堂々とした円領《まるえり》の緋色の袍《ほう》。


 高官の公服《こうふく》に似ているけれど、胸に示される補子(記章)は、実際にはない龍の図柄だ。華劇《ファジュ》では、実在する意匠を憚って避けるものなのだとか。まあそれはもっともな配慮だとして。


 鏡に映る明婉は、科挙を突破した進士《しんし》さながらの装いだった。


 舞台の上では、自分ではないものになれる──そして、決してなれないものにも。一時とはいえ夢を叶えることも、できる。燦珠たちは、彼女にそう教えてくれたのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

2025年1月24日 角川文庫より1、2巻同時発売!

書籍版もよろしくお願いいたします✨

表紙
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。