7.長公主、秘華園に入る
あり余った菓子を役者たちへの差し入れにする許可を得た明婉は、秘華園に向かうことにした。数日前までは知らない場所だった後宮において、もっとも馴染みができたのが役者たちの園だというのは不思議なことだ。
渾天宮を辞して、轎子に乗り込もうとした明婉に、梅馨が小さく呟いた。
「梨燦珠にはまだ嫌疑がかかっております。会えますかどうか……」
「ええ。でも、お菓子を渡してもらうことはできるでしょうから」
揖礼する梅馨は、だから明婉自ら出向かずとも良いのではないか、と言いたげだった。
同じ年なのに梅馨はとても冷静でしっかりしていて、今回の件に限らず明婉をよく支えてくれている。だから、進言を退けることに一抹の後ろめたさを感じてしまう。
どうも、この侍女は燦珠のことを、というか秘華園や役者のことをあまり好きではないような気がする。父の考えに倣っているのか、あるいは、明婉が遊び呆けているように見えているなら申し訳ないことだ。
(貴女のお兄様にとっても大事なことだものね、分かっているわ)
梅馨の兄の花志耀も、興徳王府を出て延康の都に入っている。旅費に替えられそうな宝飾は密かに渡したけれど、皇父と長公主の一行よりは苦労の多い旅路だったであろうことは、世間知らずの明婉にも想像がつく。
会試に臨んで、自らの答案を提出できない──明婉のそれに取って換えられてしまう──のも悔しいだろう。兄妹の献身には十分報いるつもりはあるけれど、それでも次の科挙は二年後だ。
(でも、彼女たちの芸も、すさまじい鍛錬の賜物でしょう? 科挙の勉強に劣らないくらいの……)
心中で呟く言い訳は、口に出すことはできなかった。
秘華園への肩入れも、科挙への興味も、轎子の担い手の宦官たちに聞かれてはならないことだから。いつ何時、父や兄の耳に入ってしまうとも限らない。
「お兄様の御言葉を伝えてあげたいの。彼女たちも、不安でしょうから」
だから明婉は、当たり障りのないことを口にして轎子に収まった。梅馨がどんな表情をしたかは、視界を覆う紗によって見えない。
心の裡を語って安心してもらうのは、後宮での宿として与えられた殿舎に戻ってから、になってしまうだろう。
* * *
秘華園に着いて燦珠の居場所を尋ねると、意外にも練習場にいる、と言われた。
「練習……しても、良いものなの? 咎められたりはしない……?」
素直に喜ぶには、今の燦珠の置かれた状況は危ういもののはずだ。不安に駆られた明婉が問いを重ねると、対応した年配の役者──確か隼瓊と呼ばれていた、磨き上げた玉のような男装の麗人だ──は、にこやかに応じた。
「ほかの殿舎の役者に囲まれておりますし、逃げ隠れも、証拠の隠滅もできませぬゆえ。かえって疑われる余地もございませんでしょう」
「そう、なの……?」
いったいどういうことなのだろう、と首を傾げながら。明婉は燦珠がいるという練習場に案内された。
先日、《探秘花》の練習を見せてもらった、かなり大きめの大庁だ。
長公主の来訪に、いっせいに拝跪した役者たちの人数も確かに多く、この間に見おぼえた顔も幾つかいる。目眩がしそうな色気の藍芳絶に、対照的に涼しげな美貌の秦星晶。それに──
(……どうして?)
公主役を演じていた、若い花旦の姿を認めて、明婉は狼狽えた。
「燦珠。あの、そこの者は……銀花殿の役者ではないの……? つまり、ええと、董貴妃の……」
咄嗟に事情を問える相手は、この場には燦珠しかいなかった。か細く震える声での切れ切れな問いかけは、情けなくなるほど頼りなくて支離滅裂だっただろう。でも、燦珠は顔を上げて、輝くような笑顔を見せてくれた。
「はい。黎姸玉──《探秘花》で公主役を演じる子です!」
「……なぜ、一緒にいるの。何が起きたか、お兄様から伺ったわ……?」
燦珠の声は、いつも通りはきはきとして明瞭で、耳に心地良いし聞き取りやすい。けれど、何を言っているのかは分からなくて、明婉の混乱は深まるばかりだった。彼女が何を言おうとしたのか、そんなに分かりづらかっただろうか。
(貴女の翠牡丹を盗んだのは、その者かもしれないでしょう……?)
眉を顰めて黙り込んだ明婉の心の声を聞き取ったかのように、役者たちは跪いたまま、無言で目を見交わした。
言葉によらず通じ合っているらしいその様は、彼女たちは親しい仲間なのだと伝えてくる。明婉は、身分ゆえに尊重されるだけの部外者でしかないのだと、突き付けられるようで、胸が苦しい。
明婉が思わず俯こうとした時──燦珠が、ずいと彼女のほうへ膝を進めた。
「──長公主様。今もまだ、役者になりたいと思ってくださっていますか?」
「え……?」
明婉には分からないやり取りの結果、役者たちは何らかの結論に達したようだった。燦珠の言葉に、ほかの娘たちもなぜか期待を込めた眼差しで明婉を見上げている気がする。
「私たち、董貴妃様にお見せする芝居を考えていたところなんです。《探秘花》を、絶対に上演したいですから」
「え、ええ。そうでしょうね……?」
当たり前のことだ。だからこそ、明婉も燦珠たちに兄の言葉を伝えようとしたのだ。
皇帝は、秘華園に悪意を持っていない、練習の成果を披露する機会を取り上げたりしない、と。でも、この大庁に満ちる熱気は、不安の中で沙汰を待つ者たちが発するものではないような。
「だから、姸玉は違います。公主の役をもらっているのに、悪いことに関わるはずがないんです」
「あ──」
目をきらきらと輝かせて、燦珠は先ほどの明婉の問いにようやく答えてくれた。早計に疑って狼狽えたのが恥ずかしくなるほどの、眩しい確信に満ちた眼差しだった。それほどに真っ直ぐに信じられる理由は、役者ではない明婉には計り知れないけれど──
「それでも、我が主には罪があるのかもしれません。それなら、正さなくては同輩にも楊太監にも顔向けできません」
凛と訴える声は、不思議と明婉の心に染み入った。件の姸玉なる花旦の声だ。
(唱の上手い役者なのでしょうね。わたくしにも分かるくらい……)
それだけの唱を披露できないのは、確かに耐え難い苦痛だろう。腑に落ちた瞬間に、明婉の唇から自然と言葉が零れ落ちていた。
「……わたくしに、何かできるのかしら。聞いてくれたのは、そういうことよね?」
「幾つか筋を考えたんですが、無理があったり強引だったりして、なかなか決まらなくて。もしも長公主様が役を引き受けてくださるなら──」
燦珠が言い切る前に、梅馨と明婉、ふたりの声が重なった。
「無礼な。この御方をどなたと──」
「やりたいわ。やらせてちょうだい」
あるいは、燦珠を遮る梅馨を遮って、明婉が言い切った。膝をついて燦珠に目を合わせ、その手を取りながら、眉を顰めた侍女に懸命に訴える。
「お兄様のご負担を減らすことにもなる、でしょう? 董貴妃が、自ら罪を打ち明けてくれるようにする……そんなことができる、のね?」
言葉の後半は、燦珠に向けたものだ。悪事の自白が得られるなら、兄としても願ってもないことに違いない。いったいどうすれば良いのか、さっぱり見当がつかないけれど。でも、明婉と幾つも違わない娘は、首を大きく上下させてしっかりと頷いた。
「はい!」
「わたくし、貴女たちのように舞ったり唄ったりできないのよ……?」
「でも、長公主様にしかできない役なんです」
あまりの即答ぶりは、むしろ明婉の不安を搔き立てた。念を押すように打ち明けると、またも輝くような笑みで返される。とても眩しくて綺羅綺羅しい──明婉の不安を消し去るような、晴れやかな笑顔。
「大丈夫。しっかりお教えしますし、演じるのは楽しいものですから。どうか、信じてくださいませ……!」
その眩しさに魅了されたのだろうか。演じてみたい、という欲求の火が、明婉の胸に確かに熾った。