第2話「我はフェンリル」
「触れるな」
低く、鋭い声が凪の耳に届いた。
森の奥、光の届きにくいその場所で――凪は足を止める。
目の前にいるのは、一匹の狼。
ただの狼ではない。
白銀の毛並みは本来の輝きを失い、ところどころ血で濡れている。呼吸は荒く、肩が上下していた。今にも崩れ落ちそうなほど弱っているのに、それでもその瞳だけは死んでいなかった。
鋭く、こちらを射抜くような眼光。
敵意と、誇り。
「……今、喋った?」
凪は弓を構えたまま、静かに問いかける。
驚きはある。だが声は揺れない。
狼はゆっくりと首をもたげた。
「貴様……なぜ我の言葉が分かる」
はっきりとした言葉だった。
錯覚ではない。
「さあ。俺にも分からない」
凪は肩をわずかにすくめる。
視線は逸らさない。距離も詰めない。
不用意に刺激しない位置を保ったまま、様子を見る。
「人間は信用せぬ」
「そう」
短く返す。
否定もしないし、肯定もしない。
「別に、信用してもらわなくていい」
淡々とした声音。
まるでそれが重要ではないと言うように。
「でも、そのままだと死ぬ」
事実だけを置く。
凪はポーチへ手を伸ばし、小さな瓶を取り出した。
ポーション。
初心者用の、回復アイテム。
「これ使う」
「触るなと言ったはずだ」
即座に返る拒絶。
牙がわずかに覗く。
「分かってる。でも見捨てる気はない」
凪は止まらない。
「理由は?」
狼の問い。
「ない」
即答。
少しだけ間を置いて、続ける。
「困ってるなら助ける。それだけ」
それ以上は言わない。
言い訳もしない。
狼はしばらく凪を睨み続けていた。
張り詰めた空気。
森が静まり返る。
やがて――
「……好きにしろ」
小さく、吐き捨てるように言った。
凪は一歩だけ距離を詰める。
無駄な動きはない。
傷口にポーションをかける。
じゅ、と微かな音。
血の流れが止まり、荒かった呼吸が少しだけ落ち着く。
「……完全には治らんか」
「応急処置だ。これ以上は無理」
凪は瓶をしまいながら答える。
「なぜだ」
「理由はない」
さっきと同じ答え。
だが、今度は少しだけ空気が違った。
狼は何も言わない。
ただ、凪を見ている。
その時――
『え、今のなに?』
『普通に会話してね?』
『狼しゃべってるんだが???』
『これイベント?』
『いやバグだろ』
視界の端に、コメントが流れ込んできた。
凪は軽く視線を動かす。
「……コメント、増えてるな」
いつの間にか流れが速くなっている。
何気なく、視聴者数に目を向ける。
そして――一瞬だけ、止まった。
「……100、超えてる?」
小さく、息が漏れる。
初めての配信で見る数字ではない。
さっきまでは、数人だったはずだ。
「……急に増えたな」
状況を整理するように呟く。
すぐに表情は元に戻る。
だが、ほんのわずかな驚きは残っていた。
「当然だ」
横から声。
「我はフェンリル。この程度で朽ちる存在ではない」
その名を聞いた瞬間、空気が少しだけ張り詰める。
「フェンリル」
凪は静かに繰り返す。
どこかで聞いたことがあるような名前。
だが、今は気にしない。
「動けるか」
「問題ない……とは言えぬがな」
フェンリルはゆっくりと立ち上がる。
足元がわずかに揺れる。
それでも、倒れはしない。
「……貴様、ついて来い」
「理由は」
「借りを返す。それに……貴様には興味がある」
短く、的確な答え。
凪は数秒だけ考え――頷いた。
「分かった」
『え、ついてくの!?』
『イベント始まったぞ』
『視聴者増えてて草』
『神回だろこれ』
森の奥へ進む。
一歩進むごとに、空気が変わっていく。
音が減る。
風が止む。
妙に、静かだった。
「……奥だな」
「通常の者は来ない場所だ」
「納得」
その時。
茂みが揺れた。
わずかな音。
だが、凪はすぐに反応する。
「来る」
弓を構える。
視線は一点に固定。
飛び出してきた魔物。
素早く、重い。
だが――
「……見える」
距離、速度、軌道。
一瞬で把握する。
矢を放つ。
ヒット。
だが、浅い。
「硬いな」
魔物の視線が凪へ向く。
一直線に突っ込んでくる。
「やっぱり来るか」
声は落ち着いたまま。
「弓は狙われやすい」
「分かってる」
凪は後退。
焦りはない。
足運びも正確。
その前に――
「我が引き受ける」
フェンリルが前に出る。
激突。
衝撃。
だが、その動きにわずかな鈍り。
傷が完全ではない。
「無理はするな」
凪は短く言いながら弦を引く。
深く、引き絞る。
視界がわずかに揺れる。
それでも、手は止まらない。
フェンリルが魔物の動きを制限する。
隙が生まれる。
「……今か」
「撃て、人間」
その声に合わせて――放つ。
一直線。
だが。
ほんのわずか、ズレる。
「外したか」
悔しさはある。
だが、声は静かだ。
「惜しい」
次の瞬間。
フェンリルが喉元へ食らいつく。
決着。
魔物は崩れ落ちた。
静寂が戻る。
凪はゆっくりと息を整える。
「あと少しだったな」
「あと一歩だ」
「次は当てる」
短く、断言する。
フェンリルは目を細めた。
「妙なやつだ」
凪は周囲を確認し、配信画面を見る。
コメントは止まらない。
『今の惜しすぎる』
『あれ当ててたらやばい』
『センスあるだろ』
『フォローしたわ』
凪は軽く息を吐く。
「……今日はこれで終わりにする」
『え、もう終わり!?』
『続き気になるんだが』
『明日もやれ!』
「また配信する」
それだけ告げる。
その時――
「……また来るのか、人間」
フェンリルの声。
凪は少しだけ考える。
そして。
「ああ」
短く、迷いなく答える。
フェンリルは何も言わない。
だが、その沈黙は拒絶ではなかった。
視界が白く染まる。
ログアウト。
配信は終了した。
――その直後。
【スレタイトル】
『喋る狼と会話してる配信者がいるんだが』
【書き込み】
「見たやついる?」
「普通に会話してた」
「テイマーなのにテイムしてない」
「いやあれNPCじゃない」
「意思あったぞ」
そして――
「……あれ、多分“普通じゃない個体”だ」
物語は、まだ始まったばかりだった。
第1話の時点で数人に見ていただけてとても嬉しいです!
この調子でどんどん更新できたらと思いますので是非!評価と感想お待ちしてます!




