第3話「冒険者の宿と異世界の夕食」
初めての依頼を無事に達成した柾木和雄は、冒険者ギルドの受付でフィーネから宿屋の場所を教えてもらっていた。
「おすすめは《銀の麦亭》という宿屋です。ここから歩いて五分ほどの場所にありますよ」
フィーネは簡単な地図を描きながら説明してくれた。
「一階が食堂になっていて、冒険者の方もよく利用されています。料理が美味しいので、わたしも時々食べに行くんです」
「へえ、それは楽しみですね。ちなみに、一泊いくらくらいですか?」
「確か、朝夕の食事付きで八十ゴルだったと思います」
「八十ゴルか。なるほど」
和雄は頭の中で所持金を計算した。
女神メシアからもらった銀貨十枚のうち、冒険者登録で二枚を使った。さらにパン代として三ゴルを支払い、今日の依頼と素材の買い取りで六十ゴルを稼いでいる。
つまり、現在の所持金は八百五十七ゴルだ。
「それなら、しばらくは大丈夫そうだな」
和雄が頷くと、フィーネは安心したように微笑んだ。
「ただし、装備の修理や消耗品にもお金がかかりますので、少し余裕を持っておいたほうがいいですよ」
「分かりました。ありがとうございます」
和雄はフィーネに礼を言い、冒険者ギルドを後にした。
夕方が近づいたジェノバの街は、昼間とは違った賑わいを見せていた。仕事を終えた職人たちが酒場へ向かい、露店では夕食用の食材を買い求める人々の姿が見られる。
和雄は石畳の道を歩きながら、街並みを興味深そうに眺めた。
「こうして見ると、本当に中世ヨーロッパみたいだな」
木骨造りの建物や石造りの商店が並び、窓辺には色とりどりの花が飾られている。
やがて、麦の穂を描いた看板が見えてきた。
「おっ、あれかな?」
看板には《銀の麦亭》と書かれていた。
二階建ての建物で、一階の窓からは温かな明かりが漏れている。入口の近くまで来ると、香ばしい肉料理の匂いが漂ってきた。
「これは期待できそうだ」
和雄は扉を開け、店内へ足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ!」
元気な女性の声が響いた。
店内には木製のテーブルが並び、何組かの客が食事を楽しんでいる。奥には大きな厨房があり、鍋をかき混ぜる音や食器の触れ合う音が聞こえてきた。
声をかけてきたのは、茶色の髪を後ろでまとめた女性だった。
「お食事ですか? それともご宿泊でしょうか?」
和雄は軽く頭を下げた。
「こんにちは。宿泊をお願いしたいんですが、部屋は空いていますか?」
「はい、空いていますよ。お一人様ですね?」
「はい。できれば、しばらく滞在したいと思っています」
女性は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。うちは朝夕二食付きで一泊八十ゴルです。長期滞在も歓迎していますよ」
「それなら、まずは三泊お願いします」
「三泊ですね。合計二百四十ゴルになります」
和雄はアイテムボックスから銀貨二枚と銅板四枚を取り出した。
女性は代金を受け取り、帳簿に名前を書き込んだ。
「お名前を伺ってもよろしいですか?」
「柾木和雄です。カズと呼んでください」
「カズさんですね。わたしはこの宿を手伝っているマリアです。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
マリアは壁に掛けられた鍵を一つ取り、和雄へ差し出した。
「お部屋は二階の三号室です。夕食はもう少ししたら始まりますので、それまではお部屋でゆっくりしてください」
「分かりました。ありがとうございます」
和雄は鍵を受け取り、階段を上がった。
二階の廊下にはいくつかの扉が並んでいる。三号室の鍵を開けると、そこには小さなベッドと机、椅子、衣装棚が置かれていた。
「おお、思っていたより綺麗だな」
部屋は決して広くないが、掃除が行き届いている。窓からは街の屋根が見え、夕日に照らされた石畳の道が美しく輝いていた。
和雄はベッドに腰を下ろし、大きく息を吐いた。
「ふう……今日は色々あったな」
女神メシアとの出会いから始まり、異世界への転移、ゴブリンとの戦闘、ジェノバへの到着、冒険者登録、そして初めての依頼達成。
一日で経験したとは思えないほど、多くの出来事があった。
「まあ、無事に宿まで確保できたんだから上出来か」
和雄は微笑みながら、アイテムボックスの中身を確認した。
残金は六百十七ゴル。三日分の宿泊費を支払っても、まだ十分な余裕がある。
「明日も依頼を受けて、少しずつ稼いでいこう」
そう考えていると、階下から夕食の準備ができたことを知らせる声が聞こえてきた。
和雄は部屋を出て、一階の食堂へ向かった。
食堂には先ほどより多くの客が集まっていた。冒険者らしい男女や商人、職人たちがテーブルを囲み、楽しそうに会話している。
和雄が空いている席に座ると、マリアが料理を運んできた。
「お待たせしました、カズさん。今日の夕食はこちらです」
木製の皿には厚切りのパンと肉の煮込み料理が盛られ、別の器には野菜のスープが入っていた。
「おお、美味しそうですね」
「ありがとうございます。うちの料理長が腕によりをかけて作っていますからね」
マリアは嬉しそうに笑った。
和雄はまずスープを一口飲んだ。
「……うん、美味しい」
野菜の甘みがしっかりと出ており、素朴ながらも優しい味わいだった。
続いて肉の煮込みを口に運ぶ。
柔らかく煮込まれた肉は、噛むほどに旨味が広がった。
「へえ、これもいいな」
和雄は感心しながら料理を味わった。
ただ、料理を得意とする彼には、少し気になる部分もあった。
「もう少し香辛料があれば、さらに美味しくなりそうだな」
思わず呟くと、近くを通りかかったマリアが足を止めた。
「香辛料ですか?」
「あっ、すみません。料理が好きなので、つい」
和雄が苦笑すると、マリアは興味深そうに尋ねた。
「カズさん、お料理ができるんですか?」
「ええ。日本にいた頃は、かなり料理をしていましたから」
「ニホン?」
マリアが不思議そうに首を傾げた。
和雄は一瞬言葉に詰まった。
この世界には日本という国が存在しないことを、すっかり忘れていたのだ。
「ああ、俺の故郷の名前です。かなり遠い場所なので、知らないと思います」
「そうなんですね。遠くから来られたんですか」
「はい。まあ、そんなところです」
マリアは納得したように頷いた。
「それなら、故郷のお料理も色々ご存じなんでしょうね」
「そうですね。機会があれば、作ってみたいです」
「ふふっ。そのときは、ぜひ食べさせてくださいね」
マリアは笑顔でそう言い、ほかの客のもとへ向かった。
和雄は再び料理へ目を向けた。
「……そういえば、この世界に醤油とか味噌ってあるのかな?」
日本料理を作るには欠かせない調味料だが、異世界で簡単に手に入るとは限らない。
「まあ、なければ似たようなものを探すしかないか」
和雄はそんなことを考えながら、夕食を最後まで美味しくいただいた。
食事を終える頃には、外はすっかり暗くなっていた。
和雄はマリアに礼を言い、二階の部屋へ戻った。
窓の外には街灯のような魔道具が淡い光を放ち、夜の街を照らしている。
「へえ、魔法のある世界って便利だな」
和雄はしばらく窓の外を眺めていたが、やがてベッドへ横になった。
柔らかな寝具に身体を預けると、一日の疲れがゆっくりと広がっていく。
「明日はどんな依頼があるかな……」
異世界での生活は、まだ始まったばかりだ。
知らない土地、知らない文化、そして未知の魔法や魔物。
不安がまったくないわけではない。それでも、和雄の胸には新しい世界への期待が満ちていた。
「まあ、焦らず楽しんでいこう」
そう呟いた和雄は、静かに目を閉じた。
窓の外では、ジェノバの街の夜が穏やかに更けていく。
こうして、柾木和雄の異世界での最初の一日が終わった。




