第5話「危機」
――強くなった。
その実感は、確かにあった。
牙獣鼠では相手にならない。
腐食狼すら、倒せた。
身体は軽い。
反応も速い。
思考も、明らかに研ぎ澄まされている。
だから。
少しだけ、判断が甘くなっていた。
洞窟の奥。
濃い匂いのする方へ、迷いなく進んでいく。
血の匂いが、さらに強くなる。
腐臭も、重い。
そして――
何かが違う。
今まで感じていた“魔物の気配”とは、明らかに質が違う。
重い。
濃い。
圧のようなものが、空間そのものに満ちている。
……だが、止まらない。
いや。
止まれない。
その時点で、もうおかしかった。
危機感知が、微かに反応している。
だが、それを“無視できる程度”だと判断してしまう。
強くなったから。
いける、と。
そう思ってしまう。
それが、間違いだった。
開けた空間に出る。
広い。
今までで一番。
中央に、何かがいた。
最初は、分からなかった。
岩のように見えた。
だが違う。
それは、ゆっくりと動いた。
巨大な身体。
硬質な外殻。
全身が黒く、ひび割れたような表面。
その隙間から、赤い光が漏れている。
目。
いくつもある。
――異形。
虫に近い。
だが、それだけじゃない。
“存在”が重い。
腐食狼とは比較にならない。
理解する。
これは。
勝てない。
その結論が、ようやく浮かぶ。
だが。
遅い。
すでに、視線が合っている。
異形が、ゆっくりと身体を起こす。
その動きだけで、空気が震える。
危機感知が、悲鳴のように反応する。
――逃げろ。
その思考が、ようやく明確になる。
遅すぎる。
異形が、前脚を振り上げた。
巨大な爪。
振り下ろされる。
避ける。
間一髪。
地面が砕ける。
衝撃が走る。
破片が飛び散る。
身体の一部が削られる。
――まずい。
次が来る。
考える暇はない。
逃げる。
身体を裂き、広げ、隙間へと流れる。
だが。
速い。
大きいのに。
動きが速い。
後ろから、気配が迫る。
振り返らない。
振り返った瞬間に終わる。
前へ。
とにかく前へ。
その時。
足元の岩が崩れた。
――しまった。
バランスが崩れる。
一瞬の遅れ。
それで十分だった。
衝撃。
背後から叩きつけられる。
身体が潰れる。
視界が揺れる。
意識が飛びかける。
痛い。
今までとは違う。
はっきりとした“ダメージ”を感じる。
削られている。
存在が。
このままでは――死ぬ。
その認識が、ようやく全身を支配する。
遅い。
判断が、遅すぎた。
異形が、再び爪を振り上げる。
終わる。
そう思った瞬間。
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【システム】
危機感知が発動
回避補正を適用
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身体が、勝手に動いた。
思考よりも速く。
横へ流れる。
ギリギリで、直撃を避ける。
だが。
完全には避けきれない。
端が削られる。
さらに小さくなる。
……まずい。
このままでは、削り切られる。
逃げるしかない。
戦う選択肢は、もうない。
それでも。
ほんの一瞬だけ。
考えてしまう。
――どうすれば勝てる?
その思考が、自分でも異常だと分かる。
だが。
すぐに切り捨てる。
今は違う。
生き残る。
それだけだ。
身体をさらに分散させる。
一部を切り離す。
囮。
異形の視線がそちらに向く。
その間に、反対方向へ流れる。
狭い隙間。
岩の裂け目。
そこに潜り込む。
入れる。
ギリギリ。
異形は入れない。
だが。
爪が伸びてくる。
削られる。
さらに削られる。
……耐えろ。
耐えろ。
動くな。
息を殺す。
気配を消す。
時間が過ぎる。
長い。
永遠のように。
やがて。
気配が、遠ざかる。
完全に。
……助かった。
その認識と同時に、力が抜ける。
身体が、明らかに小さくなっている。
削られた分だけ。
弱くなっている。
初めての感覚だった。
成長ではなく。
――減少。
その時、表示が浮かぶ。
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【システム】
HPが大幅に減少しています
HP :8 / 30
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……8。
ほとんど残っていない。
もう一撃受ければ、終わっていた。
……甘かった。
完全に。
強くなったと錯覚していた。
だが違う。
まだ、底辺だ。
上には、いくらでもいる。
今のは、その証明だ。
その認識が、深く刻まれる。
同時に。
別の感情が、わずかに湧き上がる。
――悔しい。
逃げた。
何もできなかった。
削られて、逃げるしかなかった。
その事実が、静かに残る。
だが。
それ以上に強いのは。
理解だった。
今は、無理だ。
なら。
どうする。
簡単だ。
強くなる。
食う。
奪う。
それしかない。
ゆっくりと、身体を整える。
再生するには、時間がかかる。
だが、動ける。
まだ終わっていない。
視線を、洞窟の別の方向へ向ける。
さっきの異形とは逆。
比較的、弱い匂い。
……まずは、そっちだ。
順番を間違えるな。
その思考が、はっきりと形になる。
さっきとは違う。
冷静だ。
判断できる。
そして、奥に残る。
あの異形の存在。
あれを。
いつか。
食う。
その考えが、静かに根を張る。
今は無理だ。
だが、いつか。
その時まで。
生き残る。
それだけを考え、俺はゆっくりと動き出した。




