一人の男の決別
「俺だって.....」
辺りはまだ明るかったがこれ以上ここに居てもナンパする気は起きそうにもなかった。俺は自動販売機に預けていた体を家の方へと向けると俯きながらゆっくりと歩き始める。(これから走てはどう付き合っていけばいい?)たった一つのしかし大きく重い悩みに意識を預けていると鈍い衝撃が左半身から全身をかけた。誰かとぶつかったそう思った。
「すみません」
思考回路を閉ざして発せられた言葉の行方を追うと一人の女性に行き着く。女性は顔を上げると目を見開く。
「あっコーヒー...」
コーヒー?コーヒーがどうしたというのだろうか。一株の疑問を感じながら彼女の目線が向けられている胸元を見る。そこにはコーヒーに染まったジャケットがあった。
「すみません!」
慌てたようにそう言って立ち上がろうとした彼女は叶わず尻もちをつく。
「大丈夫ですか?」
どうやら捻挫をしているらしい。
「大丈夫です」
そう言ってまた立ち上がろうとしたが、バランスを崩し地面に手をついてしまう。
「掴まってください」
しゃがみ込み肩を貸す
「ありがとうございます」
「少し歩きますよ」
立ち上がりベンチに向かって歩き始める。そこはナンパの時によく利用するベンチであった。
「さっきはすみませんでした。俺が前を見ていなかったばかりにこんなことになってしまって...」
応急処置をしながら俺は彼女の顔を確認する。
「いえ、こちらこそすみませんでした。こんな事までしてもらって.....」
はっきりとした顔立ちの綺麗な横顔。どことなく母親に似ているように感じるのは気のせいであろうか。微風に髪が僅かに揺れ、辺りが甘い香りに包まれる。その香りは彼女の人柄の良さすら感じさせ会ったばかりでありながら昔からの知り合いのようなそんな安心感を覚える。
「あの.....私の顔に何かついてます?」
その言葉が俺を現実に引き釣り戻した。
「あっ、いえ、すみません」
同じ場所にいながら時差ボケの様な感覚に囚われていた俺には、既に手当の終わっている足から手を離しながらそう答えるのが精一杯であった。
何を考えているんだ。俺は。こんな年になってまで母親探しかよ。頭の中に浮かんでいる会ったばかりの女性の姿を揉み消そうと俺は自分を叱責する。あの頃から何にも変わってないんだな俺は。そう自分に問う。問いかける度に、打ち付けられるような胸の痛みを確かに感じながら孤独へと堕ちていく。あぁ座り込んでしまいたい。母親が死んだあの時のように。いくら探しても母親にはもう会えない。分かっているはずなのに、こんな所に居るはずはないと何度も自分に言い聞かせてきたのに俺は今日も母親の面影を探してしまうんだ。
自分に対する怒りと呆れそして孤独から救い出してくれたのは会ったばかりの一人の女性だった。
「大丈夫ですか?」
覗き込むようにしながら放たれたその言葉はその時、特別な意味を含んでいた。そんな表情で見ないで欲しい。思い出してしまうだろう?いや、思い出す事などなかった。一日たりとも忘れたことなどなかったのだから。あの日以来俺の目の前から姿を消し、もう二度と会うことのない筈のものが目の前にある。俺はこの日を最後に母親の姿を探すのをやめた。
やっぱり彼処の自動販売機にコーヒーはあるべきだな。彼処でコーヒーを買わないと出会わなかったかもしれないのだから。まぁそのお陰でジャケットは汚れてしまったけど。ジャケットを汚したとわかった時の彼女の顔は傑作だった。しかし、どうしてなのだろうか。彼女の言い放った「コーヒー」は僕を酷く郷愁の念に縛り付けていた。




