第四章 ‐18
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王宮殿に戻ると、カエサリオンは弟たちの館を訪ねた。庭でボール遊びをしようと誘うと、双子と小さいプトレマイオスは歓声を上げた。その様子を見て、ティベリウスは彼らがなにも知らないことを知った。
嬉々として兄に飛びついた三人だが、ティベリウスに気づくと、ぴたりと固まった。恐る恐るという感じで振り返り、歓声を上げなかったただ一人の兄弟を見つめた。
アンテュルスは苦々しげにうなった。
「ぼくの大事な弟と妹が、なんでみじめな捕虜なんかと一緒に遊ばなきゃいけないんだ」
彼はティベリウスを見ずに言った。カエサリオンはやれやれとばかりに首を振った。
「アンテュルス、お前も少しは器の大きいところを見せるべきだぞ」
「ぼくはどっかだれかみたいに、おめでたい頭をしてないんでね」
「アンテュルス――」
「はいはい、国王命令なんだろ」
わざとティベリウスに体をぶつけながら、アンテュルスは外へ出た。
それでもボール遊びは盛り上がった。ティベリウスを加え、最初はぎこちなかった幼い三人も、しだいに笑顔をいっぱい咲かせた。兄アンテュルスが、あれ以上ティベリウスを貶さなかったためである。彼はいつもの陽気で優しい兄として振る舞った。ティベリウスのことだけは視界に入っていないかのように無視し続けたが、場の楽しい雰囲気を損なうことはしなかった。
ティベリウスがボールを投げると、小さいプトレマイオスが全身で受け止めた。彼はそのままひっくり返り、ころころと笑った。兄ヘリオスの助けで起き上がると、思いきり腕を振りかぶって仕返しに挑んできた。投げた瞬間、またしてもごろんと転がり、今度はアンテュルスが助けにいった。
あさっての方向に飛んだボールを、ティベリウスは指ではじいた。それをカエサリオンがひょいと頭で打ち上げた。セレネがそれを飛び跳ねて取る。着地する瞬間、衣服の裾がふわりと広がった。彼女はティベリウスを見た。
「セレネの足を見てたのね、ティベリウスのエッチ!」
「セレネは男を見る目がどうかしてる」
アンテュルスが近づいてきた。ティベリウスは石の上に腰かけ、ボールの跡がついた頬を支えて憮然としていた。アンテュルスは横に腰を下ろした。
「お前にはやらないからな」
「ぼくには婚約者がいる」
また言ってしまったが、アンテュルスは冷たく鼻を鳴らしただけだった。
「知ってるよ。マルクス・アグリッパの娘だろ。オクタヴィアヌスのやつは姪が四人もいるのに、一人もお前にくれてやらないんだな。あいつがお前をどう思ってるか、これだけでもわかるよな」
ティベリウスは頬杖を解いた。奥歯を噛みしめ、まばたきもせず正面を凝視した。カエサリオンと幼い兄弟たちが、変わらずきゃっきゃとボール遊びに興じている。
アンテュルスはため息をついた。
「まぁ、アントニアたちだって、お前にやりたくはないけど」
するとその顔が、突如ぱっと輝いた。あまりの変貌ぶりに、ティベリウスはそれが自分に向けられているとは信じられなかった。
しかし彼が考えていたのは、やはり愛する肉親のことだった。
「アントニアたちはどうしてるんだ?」
彼は尋ねてきた。
「二人とも、元気に育っているか? とっても可愛いらしくなっているんだろうな。ぼくの妹なんだから当然だよな」
実の兄弟であれ、異母兄弟であれ、そして半分は憎き仇の血が混じる妹であれ、アンテュルスの愛情は分け隔てなかった。ティベリウスは胸が苦しくなった。
「最後に見た時は元気だった。姉のほうは、父と叔父の戦争のことで心を痛めていた。妹のほうはまだなにも知らず、無邪気だった」
「会いたいなぁ」
アンテュルスは夢見るように目をきらめかせていた。
「もう五年も会ってないんだ。別れるとき、ぼくは最後の瞬間までアントニアたちの手を離さなかった。姉は優しい子で、まだ小さいのにぼくと父上のことをずっと気遣ってくれていた。妹はようやくぼくの肩をつかんで立ち上がれるようになったところで、歩く練習もそこそこに、背中で甘えて、寝ちゃってた。もう六歳かぁ。ぼくのことは、もう忘れちゃったんだろうなぁ…」
ティベリウスは思わず唇をきつく結んでいた。アンテュルスがはっと息を呑む音を出した。
「もちろん、お前みたいな薄情者と違って、アントニアはすぐぼくのことを思い出してくれるだろうけどな。もしまた会えたら――」
急ぎしゃべるのを聞きながら、ティベリウスはうなだれていった。五年ものあいだ、愛する兄弟と離れている切なさを思っていた。自分なら耐えられないだろう。
「ぼくにはヘリオスがいた」まるでティベリウスの心を読んだかのように、アンテュルスは苦しげに話していた。「セレネがいた。プトレマイオスがいた。なにより父上がいた。だからぼくは、ずっとがんばってこられた」
彼ははしゃぐ兄弟たちに、じっと深い色の目を向けた。
「家族はぼくの宝だ。ぼくはずっとそばにいる」
厳かに、誓うような言葉だった。この先なにが起ころうと、魂のあるかぎり守り通すと。
ティベリウスは彼を見た。そして二人のやり取りに気づかず、お互いもみくしゃになって戯れている四人を見つめた。ここは別世界のようだ。ローマ軍が迫り来るなどきっと嘘なのだろう。どこにも破滅の影は見えない。のどかで、ごくありふれた兄弟の日常。
しかしこの光景は、今日一日かぎりで消えてしまうのだ。
「明日、彼はエチオピアへ発つそうだ」
ティベリウスは知らせた。アンテュルスはまばたきをし、それからティベリウスの目線を追った。
「ようやくか」
吐息をこぼす先には、十七歳の義兄がいた。
「こんなぎりぎりまで先延ばしにして、上手く逃げおおせられるんだろうな? オクタヴィアヌスはなにがなんでもあいつを殺しにかかるぞ」
そこでまた、アンテュルスは息を呑んだ。ぎょっとしたように、すぐティベリウスへ顔を戻す。
「まさか、お前――」
「君は一緒に行かないのか?」
ティベリウスは平淡に言葉をかぶせていた。アンテュルスはしばらく口をぱくぱく動かしていたが、やがて呑み込んだ。改めて厳しい表情を作り、きっぱりと宣言する。
「行かない。父上がここにおられるのに、行くわけがない」
ティベリウスはそれを受け止めた。決然とした顔をじっと見つめ、どこかに突き崩す場所はないかと探した。それから伏し目がちになって、もう一度カエサリオンに目をやった。
「彼を誤解していた」
ぼそりと言った。
「ああやって陽気に振る舞っているのも、全部まわりのためだったんだな。悲しませまいと、心配かけまいと、ずっと虚勢を張ってたんだな」
「どうだか」
しかしアンテュルスは吐息を大きくした。
「あいつは年がら年じゅうあの調子だぞ。なにも考えてやしないよ。本気で信じてるだけだ、自分が必ず勝つって。神君カエサルの息子がだれかに負けるわけがないって…」
がっくりと肩を落とす。
「幸せなんだか、不幸なんだか」
「本当に…君は行かないのか?」
か細いティベリウスの声が、震えはじめていた。アンテュルスは苛々とかぶりを振った。
「何度も言わせるなよ。もしお前がぼくならどうするんだ? 父親と兄弟を残して、一人で逃亡するか?」
ティベリウスの目がゆれた。
「実の父親のほうだぞ、当然」
青い瞳は、かつては兄だった十五歳を映していた。
「お前はティベリウス・クラウディウス・ネロだ」
アンテュルスはゆっくりと告げた。
「そしてぼくは、マルクス・アントニウスだ。もう覚悟はできてるんだ。だから父上がどのような結末を迎えられようと、ぼくは最期までお供をする。父上はぼくを戦場に出さないつもりみたいだけど、いざとなったら隙を見て、オクタヴィアヌスと刺し違えて――」
「そんなことはしないでくれ」上ずった声を上げ、ティベリウスはアンテュルスの腕をつかんでいた。「お願いだ。そんなことはしないで……」
「殺らなきゃ、殺られるんだ」
アンテュルスは荒々しくティベリウスの手をつかんだ。しかし退けることはせず、そのままそこに留め置くように握りしめた。
「お前は、自分にはなにも守れないと言った。ぼくにもその気持ちはわかる。そんなのは嫌だ。だからぼくは、父上と兄弟たちを守って勇敢に死ぬんだ」
「カエサルは、君にもヘリオスたちにもなにもしない、きっと…」
「甘ったれが」
何度も首を振るティベリウスを、アンテュルスは怒鳴りつけた。
「お前だってわかってるはずだ。カエサルはぼくに情けをかけるつもりなんてない」
ティベリウスはどんどん視界が暗くなっていくのを感じた。アンティオキアで、オクタヴィアヌスは使者に来たアンテュルスになにも与えなかった。姪たちの兄であるのに、引き止めようともしなかった。
――成人式を挙げたそうだな。おめでとう。
アリストクラテスの悲痛な目が訴えてきた。
――あの無辜の少年たち…カエサリオンとアンテュルスを殺すつもりだ。
「ぼくだって、そんなのは願い下げだ」
強い口調で、アンテュルスが言っていた。残酷な意思に、必死で立ち向かうように。
「あいつに屈するのだけは嫌だ。亡き母上に顔向けできないじゃないか」
「死なないでくれ」
ぎゅっと指に力を込め、ティベリウスはすがっていた。
「勝手を言ってるのはわかってる。でも死なないでくれ。ぼくはもう、そんなことには耐えられそうにない…」
それを見つめ、アンテュルスはぎこちなくせせら笑う。
「ずいぶん弱っちまったな、ティベリウス・ネロ。なんでぼくが、お前なんかのために自分を曲げなきゃいけないんだよ?」
「助かる道は、きっとまだある。ぼくを連れて、カエサルのところへ行けば――」
「馬鹿野郎!」
アンテュルスはティベリウスを振りはらった。
「お前はぼくに父上を裏切れって言うのか? 嫡男のぼくにまで、父上を見捨てろって言うのか?」
立ち上がった。見下ろすその両眼に、憎しみが再び燃えたぎる。
「やっぱりお前は最低だ! 自分がカエサリオンに連れていかれたくないから、ぼくを利用しようとしてるんだ」
「違う、そんな――」
「お前なんかどこへでも行っちまえよ!」
アンテュルスは腕を振りまわした。
「エチオピアでもどこへでも! そこでだれにも知られず、独りぼっちで野垂れ死ねばいい!」
「アンテュルス!」
カエサリオンの鋭い声が入ってきた。二人は同時にはっとなった。年下の三人が、今にも泣き出しそうな顔をして身をすくませていた。
アンテュルスはだらりと腕を下ろした。弟たちに笑顔を振りまく気力もなく、げっそりした顔をぐいと背けた。ティベリウスはじっとうなだれていた。
「お兄様…」セレネがカエサリオンの背中にくっついていた。「エチオピアがどうしたの? お兄様たちが、どこかへ行っちゃうの?」
「大丈夫だよ、セレネ」カエサリオンは力強く妹の頭を撫でた。「なにも心配いらない。今日の夕食の席で話すから。久しぶりに、家族みんながそろって食事だぞ」
ティベリウスは立ち上がった。とぼとぼと歩き、その場から離れていった。護衛兵が色めき立って追いかけてきたが、別に逃げ出すつもりはなかった。ただ、余所者はいなくなるべきだと思った。かけがえのない兄弟の時間を邪魔する存在でしかないから。
捕虜として利用されるくらいなら、死にたかった。けれどもアンテュルスのためなら、そうなっても良いと思った。それくらいしかできることを思いつかない。継父には歓迎されなくとも、ティベリウスは大声でアンテュルスを恩人と呼び、ローマ陣営に帰っていく。殺させはしない。
けれどもアンテュルスにしてみれば、それは死ぬほどの屈辱以外のなんでもないのだ。
気持ちが伝わらなかったことを知った。どうしてなのだろうと思った。わかってくれない、オクタヴィアヌスもアンテュルスも。自分はそんなに言葉の選択が下手なのだろうか。それともどうでも良い存在だから、聞く耳を持たれないのだろうか。
二人だけじゃない。果たしてこれまでかかわりのなかで、気持ちが伝わった人なんていたのだろうか。
「なぁ」
後ろから、ぼんやりした声が聞こえてきた。振り返ると、アンテュルスが力無く立ちつくしていた。うっすら艶めく黒い目で、尋ねてきた。
「ユルスはどうしてる?」
「がんばってる」ティベリウスは低い声で応じた。「今はアントニアやマルケッラたちだけでなく、ぼくの弟のドルーススのことも面倒見てくれている。なんだか、あえて憎まれ役を引き受けているようなのが、見ていて辛い」
地面をにらんで、アンテュルスはつぶやいた。
「だからこっちに来いって言ったのに、かわいそうなやつ…」
ティベリウスはなにも言えなかった。彼をまともに見ることさえできなかった。だがアンテュルスは目線を上げてきた。
「あいつは、ぼくになにか言ってなかったか? もうしばらく、手紙をもらってないんだ…」
「……君が――」
――うらやましいと言っていた。
しかしティベリウスは先を言えなかった。ユルスもまた、それを望んでいないと思った。
けれども兄は、まるですべてを察したように長い吐息をついた。そしてまた、ゆっくりと大きく息を吸い込んだ。
ティベリウスが生涯最後に見たアンテュルスは、両腕を広げてにっこり微笑んでいた。
「あいつに伝わるかな? 今も昔も、ぼくには家族がすべてだって」




