第四章 ‐17
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翌朝、カエサリオンは昨日までと変わりない笑顔で現れた。
「今日はお参りに行く」
そう言うや、ティベリウスに帽子をかぶせた。革製で、羽ばたけそうなほどつばが広い。ギリシア人はときどき帽子をかぶるが、これはマケドニア風なのだとカエサリオンは教えた。
「かぶられてる感じだな」
くすくす笑いながら、カエサリオンはティベリウスを馬車に引っ張り上げた。
黄金のスフィンクスの門を出て、馬車はゆっくりと大通りを目指した。ティベリウスはむくれていたが、横に来たロドンが教えた。さすがに国王陛下が外国人の子どもを隣に外出するわけにはいかないが、その帽子をかぶることで、市民はあなたをヘリオス王子と思うだろう、と。
確かに帽子はただの帽子ではなく、金細工と宝石で飾られていた。だったらヘリオス本人を連れていけばいいと、ティベリウスは指摘したが、今度はカエサリオンが言った。
「お参りするのはぼくとお前でなくちゃ」
なにか含みのある物言いだったが、ティベリウスが質問する前に、カエサリオンは世界に誇る王都アレクサンドリアを語りはじめていた。多数の護衛を引きつれ、馬車は大通りを西へ向かった。
『世界にあり、世界で作られるあらゆるものが、エジプトにある』と劇作家ヘロンダスは書いたが、カエサリオンは『アレクサンドリアにある』でもまったく事実を損なわないと言った。北の地中海からギリシア世界の産物が集まるばかりではない。南のマレオティス湖からは上エジプト、エチオピア、アラビア、さらには遥か西のインドの貴重な品々もやってくるという。
「昔はインドの神官たちもこの大通りを歩いていたらしいぞ。ぼくたちももうすぐ会うことができるかもな」
浮かれた様子で、カエサリオンは奇妙なことをしゃべっていた。
インドとエジプトのあいだには、古くから直接交易する経路が確立されていた。インドを出発した珍品は、長い船旅の末紅海に入る。ベレニケ港からアラビア砂漠を横切り、ナイルに乗る。そのままアレクサンドリアを目指す。するとマレオティス湖の港で、ナイルが届ける国内外のあらゆる産物と合流する。王家はそれらすべてに税金をかけたうえで、王都に招き入れるのである。
世界一豊かな国はこうして生まれる。南から東にかけて、地中海世界では未知の国々との貿易を、アレクサンドリアは独占していた。ナイルがもたらす恵みは、小麦だけではない。あふれかえる宝石、金銀、絹製品、香料、香辛料――地中海世界のどこを探しても、第一級の贅沢品がこれほど並ぶ場所はない。
カエサリオンによれば、王都各所にある王立工房が、集められた珍品を加工し、再び世界に送り出すという。金属細工に宝石細工、金銀食器、亜麻、そしてエジプトならではのパピルス紙など、高価であれ人々が喉から手が出るほど欲しがる品々を、最高品質で取引する都、それがアレクサンドリアなのである、と。
列柱廊沿いの店を、カエサリオンはしきりに指差した。王立工房で作られた品が並んでいるという。内二軒では、馬車から降りて物色した。ティベリウスのために胸飾りを買うあいだ、店の主人は床にひれ伏していた。
「変装して来るべきだったな」
カエサリオンはにやにやしながら馬車に戻ってきた。
胸飾りは、黄金のスカラベ――フンコロガシだった。ティベリウスは思わず思いきり顔をしかめたが、カエサリオンは笑いながら説明した。エジプトでこの虫は縁起物なのだと。集めた糞から卵が孵ることが、再生の象徴と見なされていると。彼の手で衣服の左胸に通されたそれを、ティベリウスは複雑な表情で見下ろした。アントニアなら喜びそうだった。
国王のお参りは、まずアレクサンドロス大王の墓からはじまった。歴代プトレマイオスも眠るその墓所に、カエサリオンは独りで入っていった。ティベリウスは馬車の中で待たされた。逃げることも考えたが、まわりの護衛が多すぎた。それに無事逃げおおせたところで、継父と再会する勇気がなかった。存在を黙殺されたのだ。お前のような恥さらしはもう帰ってくるなと言われたように感じていた。
気持ちが沈んでいった。のしかかる重みを払うように首を振ると、帽子のつばが馬車のあちこちにこすれた。実際、重いし邪魔だった。景色を見るために、首をもげるほど反らさなければならない。
祖先との魂の交流を終えた国王が戻ると、一行は再び移動をはじめた。馬車が西へ進むにつれ、列柱廊の向こう側では、街並みが質素になっていく。主にエジプト土着の民が暮らす、ラコティス地区である。それでも目指す壮麗な神殿は、この地区に立っていた。
セラピス神殿は、一昨日カエサリオンが「プトレマイオス王家の守り神」と呼んだ男神を祭る。今度はティベリウスも連れて、国王は境内を目指した。徒歩で百の階段を上り終えたあと、ティベリウスは帽子を少し持ち上げた。そうでもしないと、そびえたつオベリスクを視界に収めることができなかったからだ。ただまっすぐ伸びているだけなのに、このうえなく燦然と自己顕示する建造物だ。それから振り返る。地中海とマレオティス湖に挟まれた、アレクサンドリアの街並みを一望できた。
「実は夜景もすばらしい」
カエサリオンは誇らしげに教えた。
「通りに沿ってまっすぐランプが灯るんだ。幻想的だぞ。天と地の星座の、壮大な競演だ」
セラピス神は、王宮で見たのと同じ、整った穏和な容貌でたたずんでいた。よく似ているが、ユピテルよりも温厚そうで、ディオニッソスよりも節度がありそうに見えた。ローマではなじみがない神だ。
神像を前に香草を焚き、カエサリオンは熱心に祈りを捧げていた。なにを祈ってよいかわからないティベリウスは、きょろきょろと神殿内を見まわしはじめた。そこへロドンが近づいてきた。
「お珍しいですかな、坊ちゃま? それもごもっともで、こちらは、初代プトレマイオス・ソテル様がお創りになった神ですからな」
ティベリウスはあんぐり口を開けた。王が神を創った?
ユリウス・カエサルがそうであるが、ローマ人も元老院決議で人間を神にすることがある。しかし聞けば、このセラピス神は元々人間だったわけでもなく、プトレマイオス一世が創造したのだという。
ローマでもそうであるように、各地の神々はしばしばギリシアの神々と同一視される。エジプトの女神イシスも、ギリシアの女神デメテルと同一ないし、性質を同じくすると見なされている。
プトレマイオス一世は、この柔軟性を利用した。ここにギリシア人とエジプト人の共通性を見出し、両者が同じくする信仰の対象があれば、自身が創始する新しい王国をまとめる強い力になると考えたのである。しかしその対象は、どちらかに偏ってはいけなかった。ギリシア本土の奥地で生まれた男は、自身が統治国において余所者であることを知っていた。彼は自らの文化を押しつけるのではなく、ギリシアとエジプトの文化を融和させることを選んだ。
そのために求めたのが、新しい神だった。従来のギリシアでもエジプトでもない、両者の融合した、史上かつてない高みに昇るべき新しい王国。その国民が一丸となる象徴だ。
彼は構想を練った。姿形を決めた、両文化の一流の担い手から意見を求めながら、新しい神を、ギリシア人とエジプト人の融和の象徴に仕立て上げた。つまりセラピスはゼウス(ローマではユピテル)であり、オシリスであると広めたのである。その容貌は、ゼウスの髭を生やしたオシリスに近かった。
プトレマイオス一世は慎重な人だった。彼は余所者である自身を神と崇めよなどとは決して命じなかった。王を名乗ることさえ、次代に任せたほどだった。彼はじっくり時間をかけ、自身と、そしてアレクサンドロス大王を、このセラピス神に重ねさせていったのでる。
このようにセラピス神は、王の手で創造され、ギリシアとエジプトの最高神たちの神性を重ね着しながら、アレクサンドリアの守り神として尊ばれるようになった。そしてプトレマイオス王家の権威と神性を表わす象徴となった。
ティベリウスに見えてくるのは、これをすべて計算していたプトレマイオス一世の冷徹さだ。これは神のやることではなかった。多様な人間を統治せんと挑む、人間の仕業だ。そしてプトレマイオス一世とは、だれよりもそれを自覚していた人間に違いなかった。
ティベリウスは小さい震えを覚えていた。
――ローマはどうする?
ところでオシリスは、ギリシアのディオニッソス神とも同一視されている。ということは、自身をディオニッソスの化身と公言して豪快に振る舞うアントニウスは、オシリスということになり、クレオパトラ=イシスの夫ということになり、とどのつまりはセラピスということになり、ゼウス=ユピテルということになってしまうではないか。今度はめまいを覚えるティベリウスだった。しかしプトレマイオス一世の宗教政策が立派に通るなら、この冗談みたいな連鎖もやり方次第で十分通用するのだ。理屈以上に人々をまとめ上げる力となるのだ。アレクサンドリアがそれを体現していた。
「ちゃんとお祈りしたが、ティベリウス?」
カエサリオンの笑顔が訊いてきた。なにを祈ればよいのかはわからなかったが、このセラピスの向こう側にある精神を、ティベリウスは思った。
――ローマは、このセラピスが抱くのより広い世界を治めなければならないんだ…。
「今度は聖牛アピスに詣でるぞ」
現王プトレマイオスの一声で、一行は場所を移した。セラピス神殿には地下道があった。ごつごつした狭い道を、ティベリウスはよたよたと進んだ。一定の間隔を置いて、上の穴から鋭い日光が貫いてきた。
「まるで洞窟探険みたいだろ?」
カエサリオンが振り返る。彼に手を引かれているので、かえって歩きづらかった。
奥に聖なる牛の銅像があった。エジプトでは、オシリスと同一視されるほど高位の神だという。ティベリウスには不思議でならなかった。
「どうしてエジプト人は、動物や虫を崇めるんだ?」
帰り道、カエサリオンに尋ねていた。同じく多神教のローマ人であるが、このようなことは考えられなかった。変身することこそあれ、神々は基本的に人間の姿で祀られる。
聖牛アピスだけではない。この神殿の壁面には、様々な獣が描かれている。とりわけ多いのが、スフィンクスのような半人半獣の姿だ。たとえばハヤブサの頭と人間の体を持つ生き物は、ホルス神であるらしい。そういえば、メンデスでは山羊と女人が交わる儀式が行われると語られていた。どうしてこのようなことになるのか。
カエサリオンはうれしそうに応じてきた。彼は気にしていなかったかもしれないが、ティベリウスが初めてまともに質問してきたからだろう。
「動物は人間を助けてくれる。たとえば牛は、食料にもなるし、農作物を耕すのにも役立つ。ハヤブサは、せっかく育てた農作物を食べてしまうハトを、食べてくれる。外ではトキがイナゴを、家の中では猫が鼠を退治してくれる。蛇だって、王を守る重要な役を務めているんだ。意味がわかるだろ?」
つないだ手を振りながら、彼は片目を閉じてみせた。
「スカラベだって、動物の糞を片づけてくれるし、なにより懸命に生きた末に、土の中からまた命が生まれてくる姿が、人を勇気づけてくれる。自分たちもまた死後の世界で再生し、この世と同じように暮らしていけるんだって」
ティベリウスは胸元の虫を見つめた。百の階段を下りながら、考えた。ローマ人は、虫や動物に敬意を払うことなどなかった。自分たちより高位の命などないと考えているからだ。馬などは愛するが、崇めはしない。主人が奴隷を崇めないのと同じだ。
しかしエジプトでは、人間以外の生き物の地位が高い。もちろん、スカラベを見るやその場にひれ伏すというような極端な話ではない。ただエジプト人は、生きとし生けるものすべてに一定の敬意をもって接しているように思われた。ときには人間の傲慢を捨て去り、素直に感謝の気持ちを表しているようだった。この世に無用な命などないと知っているように。
ティベリウスの目には面妖に映る壁面も、エジプト人の心の表れであるのかもしれなかった。自分たちの生はほかの命に支えられている。それを忘れず、ともに永遠に生きていきたい。そういう願いだ。
ティベリウスはエジプトを異様な国だと思っていた。砂漠に霞む未知の国。毒薬と魔術がはびこる不気味な国。無理矢理連れてこられたことで、その警戒心は増していた。ローマに戦争を仕掛け、自分をこんな目に遭わせた国に、憎しみさえ沸いた。しかし今は、完全にその対象を見失った。
エジプトはローマとは違っている。それは確かだ。しかしそれがたとえ異様であるとしても、それはあくまでローマ人の、いや、おのれ自身の基準と照らしてなのだ。この意味で、おそらく世界に存在するあらゆる国も民族も異様だ。そしてそのこと自体は、なんら異様なことではないのだ。
彼らは彼らだ。すっと彼らとして生きてきた。異なることを憎むのは、愚かなことだと思った。
辛いのは、その異なるなにかに攻め来られ、呑み込まれまいと、たった一人で抗わなければいけないことだ。自分を見失いかけている魂にはなおのこと。
カエサリオンと二人、また馬車に乗り込んだ。大通りを横切り、北へ向かった。カエサリオンはひっきりなしにしゃべり続けていた。話題は、聖牛アピスの祭典のことだった。
彼は良い男だった。強引で、多少無神経だが、それは王として育てられたゆえでもあろう。それでも気さくで、偉ぶったところがない、純粋な心の持ち主だった。ローマ人の捕虜を、憎みも軽蔑もしなかった。友人として親切に接し、戒めもなしに各所を連れて歩いては、色々なことを教えた。賓客待遇と言うほかなかった。
興味深い話ばかりだった。けれども、それがしばしば苦痛に感じられてしまうのはなぜなのだろう。たとえばドゥーコの話を聞いたときなどは、こんな気持ちにならなかった。
カエサリオンの輝く目が、息苦しかった。彼の言いたいことはわかっていた。
――ぼくのものだ。
――この国が好きになるように。ローマのことなんか忘れて、ぼくといつまでも楽しく暮らしたいと思うように。
彼と同じように一方的に話す少年を、ティベリウスは一人知っていた。とにかくうるさい奴で、こちらの意向など気にも留めず、たわ言ばかり並べていた。
けれどもルキリウスは、ティベリウスになにも求めていなかった。
国王のお参り行の最後は、彼の父に捧げる神殿だった。神君カエサルの黄金像が、堂々たる立ち姿で迎えた。そしてその傍らには、アントニウスの黄金像もあった。
女王は神君カエサルを裏切り者と考えているようだが、そのことだけが、神殿が未完成である理由ではなさそうだった。これは、神君カエサルだけでなくアントニウスをも祭る神殿だ。彼こそがカエサルの権力を継ぐ男であると知らしめる意図だろう。アントニウスがパルティアかアクティウムで勝利していたら、今ごろ完成していたかもしれない。けれどもその人は、女王の虜となって以来、かつての上官に迫るような業績をなに一つ上げることなく、破滅の時を迎えようとしている。
「ローマに父上の墓はないんだろう?」
父の像の前に片膝をつきながら、カエサリオンは言った。
「ここが父上の眠る場所なんだ」
うながされるまま、ティベリウスも同じようにした。しかしなにを祈ってよいのか、またわからなかった。
「父上、どうか僕を見守っていてください。ぼくは必ず、父上のような偉大な王になってみせます」
そのようにつぶやきながら、カエサリオンは頭を垂れていた。
ギリシア人もローマ人も、神に奇跡は求めない。最善を尽くす我に力を貸したまえと願うだけだ。けれども神君カエサルは、カエサリオンの父親だ。二人の願いが相いれない場合は、息子のほうに力を貸すだろう。それでもかまわないと、ティベリウスは思った。彼にもだれにも死んでほしくない。願うならば、これだ。
けれどもそれこそ、奇跡を求めることにほかならないのだろうか。
「すごく満ち足りた気分だ」
王宮への帰り道、カエサリオンは機嫌良く知らせた。
「偉大なご先祖様の力を全身に浴びたみたいな。ぼくにかなう者なんていないみたいな」
「武勇を祈ったのか?」
ティベリウスは独り言のように低い声で尋ねた。カエサリオンは、自ら軍勢を率いてローマ軍に立ち向かうと宣言していた。
彼は勢いよく振り向いてきた。
「違うよ。旅の無事を祈ったんだ。それからしばしのお別れを告げた」
ティベリウスはその顔をまじまじと見返した。カエサリオンの笑みには翳りもなかった。
「ぼくは明日、エチオピアへ旅立つ。そして大王のようにインドを目指す。もちろん、お前も一緒に行くんだよ、ティベリウス」




