第四章 ‐19
19
プトレマイオス王家の者だけの夕食会がはじまっていた。ティベリウスは奥の控えの間で、アポロドロスと一緒に食事をとっていた。料理を運んでは食器を下げていく召使いたちが、さかんに往来していた。
ときおり、夕食会の声が漏れ聞こえてきたが、ティベリウスもアポロドロスもなにも反応しなかった。ただ黙々と食物を口に運んだ。王家の夕食のおこぼれなので豪勢なものばかりだったが、ティベリウスはなに一つ味を感じなかった。
「心配いらない。ぼくはインドの王朝と手を組み、たくさん傭兵を雇って大軍勢を造り上げる。パルティアを滅ぼせば、すぐエジプトに戻って来られるよ。ほんの少しのあいだのお別れだ」
元気なカエサリオンの声が聞こえた。ティベリウスは口いっぱいにパンを詰め込んだ。耳まで塞がってくれやしないかと願った。
「この子さえ来なければ…」
通りすがりの侍女が、ティベリウスへ憎々しげにうなっていった。それより多くの召使いが、こっそり涙をぬぐっていた。ティベリウスはパンを飲み込むのに集中しようとした。アポロドロスが無言で水の入った杯を寄越してきた。
それでも夕食会からは、陽気な声しか漏れてこなかった。アントニウスの大声も聞こえてきたが、なにを言っているのかわからない。また盛大に酔っぱらっているのだろう。
一家の長としての気持ちは察せられた。しかし、子どもは酔いで気をまぎらわすことさえできないのだ。
今日が、家族全員で過ごす最後の日になる。
ティベリウスはごくごく水を飲んだ。そして激しくむせ返り、アポロドロスに背中を叩かれた。そのまま彼の腕の中へ逃げ込んでしまいたい誘惑に、必死で逆らった。他家に対する胸がつぶれるほどの感傷より、自分自身の心配をしようと努めた。
エチオピアへ行くなどとんでもなかった。ましてやインドへなど、冗談にもほどがあった。たとえ継父に会わせる顔がなかろうと、見捨てられて無視されようと、将来が不名誉で閉ざされようと、ティベリウスの故郷は一つだ。母とドルーススをもう一度目にするまで、あきらめることなんてできない。
逃げなければならなかった。なんとしても、明日になる前に。しかしどうやって?
アポロドロスがそばにいた。彼をやり過ごして逃亡するのは不可能に思われた。味方につけることは可能だろうか。これまでにもたくさん脱走した裏切り者と同様に、アポロドロスも喜んで寝返るだろうか。
ティベリウスは途方に暮れていった。
しばらくして、扉が大きく開けられた。
アントニウスが、男奴隷一人に抱きかかえられて入ってきた。足取りはふらふらというより動いておらず、奴隷は悪戦苦闘していた。アポロドロスが手助けに向かった。
「ははっ…はははははっ…」
うつろな笑い声が上がる。真っ赤な顔をして、彼は家族の名を大声で呼んだ。そしてむせだし、侍女の一人があわてて壺を手に駆け寄った。
派手に戻し終えたあと、アントニウスはまだなにかをまわらない舌でつぶやきながら、ぐったりと垂れ下がった。アポロドロスと奴隷は、ひとまず彼を長椅子に横たえた。腕を虚空にさまよわせ、アントニウスは水を要求した。侍女がまた走った。
「はははっ、はっ……ゆる…せよ…く……――」
やがて控えの間に響く音は、彼の大いびきだけになった。
ティベリウスは、食卓の横でじっと動かなかった。
さらに時間が過ぎた。侍女たちも動くのをやめ、部屋の隅に固まっていた。目に見えない大きな石にのしかかられ、全員で声も上げずに耐え忍んでいるようだった。するとロドンの顔が、扉から覗いてきた。
「王子様方がお部屋に引き取られる」
最後の夕食は終わった。侍女たちが次々控えの間から出ていった。
ティベリウスはだらりと壁にもたれた。母親に挨拶するヘリオスたちの声がかすかに聞こえた。カエサリオンの声だけがやけに明るかった。ティベリウスは目を閉じた。
アントニウスの奴隷が泣いていた。閑散となった控えの間で、主人のいびきに押しつぶされながら。そのすぐ横ではアポロドロスが、アントニウスの手首に指をあてがっていたが、くたくたな様子のティベリウスに気づいたのだろう。立ち上がり、食卓の側へ戻ろうとする。
そのとき、扉が開け放たれた。立っていたのは、豊かな金髪を垂らした女だった。
アポロドロスが静止した。
「陛下…」
女王は、すたすたと歩いてきた。なにも言わず、無表情のまま、アポロドロスの前まで来て止まった。長い睫毛を伏せ、微動だにしなかった。
「陛下――」
アポロドロスがなにか言いかける。すると、女王は両手で顔を覆った。崩れ落ちそうになりながら、それでも声も漏らさず、アポロドロスの胸に額を押しつけた。
音のない時間が流れた。ティベリウスが茫然と見つめる先には二人の人間しかいない。それ以外の存在は灰色に霞んで、死に絶える。
アポロドロスは長いあいだためらっていた。しかしやがて左腕をまわし、そっと女王の肩を抱いた。
帰る場所がないと言ったのは嘘だった。ティベリウスは、彼がシチリアに帰らなかった本当の理由を知った。
ティベリウスは走っていた。列柱廊の横を、灯火の明りを避けて、草花を踏み散らしながら駆けていた。だれも見ていなかった。女王も、アポロドロスも、召使いたちも、全員がティベリウスを忘れていた。この機会を逃せばエチオピア行きだ。そんな運命に身を任せるつもりはなかった。夜闇にまぎれ、庭を全速力で突っ切った。王宮殿は広いが、カエサリオンにさんざん連れまわされていたので、迷いはしなかった。
だがあのスフィンクスの門を突破する当てはなかった。見通しも不完全なまま走り出したのは愚かなことだとも思ったが、どうしようもない。いざとなったら、なんとか見張りをやっつけるか、壁をよじ登るか、一人で小舟を漕いで海へ出ようと思った。最悪の場合でも、脱出の隙を見つけるまで、宮殿内に身を隠すつもりでいた。とにかくエチオピアに連れていかれるのだけは御免だ。
背後が騒がしくなる気配がした。歯を食いしばり、ティベリウスは走り続けた。
「どこだ! どこだぁ!」
激高した大声が聞こえた。ティベリウスは肩をびくりと動かしたが、足は緩めなかった。
「探せえぇ! なんとしても捕まえるのだぁー!」
驚いたことに、ロドンの声のようだ。捕虜を追いかけるのは当然にしても、尋常ならない怒りぶりに感じられた。しかしそんなことを気にしている余裕はない。汗を飛ばしながら、ティベリウスはアーチをくぐり抜けた。
「そこかぁ!」
ロドンの声。だがそれよりもずっと近くから、猛然と足音が迫ってきた。ティベリウスは仰天した。いつのまに近づかれていたのか。
「ぼっちゃ……ぼっちゃ……」
足音はぐんぐん寄ってきた。もう息遣いさえ聞こえるほどだ。ティベリウスは半狂乱に陥った。背中に手が伸びてくる気配がした。階段を飛び下り、また駆け出そうとして、さらなる段差につまずいた。するとよろめいた体を横ざまに掬われた。
「ネロの坊ちゃま! 私です!」
鋭くささやかれ、はっと顔を上げた。頭に布を巻いた、見ず知らずのエジプト人がいた。しかしその声には、はっきりと聞き覚えがあった。
エジプト人はさっと顔をこすった。浅黒い肌の下から、青白い皮膚と、見慣れた油断ないまなざしが現れた。ティベリウスは叫んでいた。
「ケラドゥス!」
ケラドゥスはティベリウスをきつく抱きしめた。そのまま走っていた方向から横に逸れ、草木が生い茂る小道に身を隠した。
「坊ちゃま…今までよく辛抱なさいました。もう安心してください。このケラドゥスが、必ず――」
背中をさするのもそこそこに、ケラドゥスはティベリウスの手を引いてまた駆け出した。
「正面はすでに警戒態勢にあります。抜け道を使いましょう。その辺のことは、私も抜かりないので」
ティベリウスはしばらくぼんやりしていたが、しだいにこの思いがけない再会に感情が込み上げてきた。安堵と、喜びと、感激だ。
「カエサルが!」辺りはばからず、はずむ声で確かめていた。「カエサルがお前を遣わしたのか、ぼくのために?」
ケラドゥスは一瞬足を止め、半分振り返った。
「いえ、カエサルからは指示を頂戴していません…」
ティベリウスは表情を無くした。固い横顔で、ケラドゥスはまた足を進めた。
「私は坊ちゃまが連れられてくる前日に、ここへ戻ったばかりだったんです。たまげましたよ。こんなことがあっていいのか。もう仕事どころじゃありませんでした。カエサルには毎日知らせを送りましたが、まだ返事が届きません。ナイルの増水に邪魔されてでもいるのか…。ですが、もう限界です」
駆けながら、ケラドゥスは決然と目を光らせていた。感覚が無くなるほどの力で手を握ってきた。
「これ以上あなたを独りきりにしておくなど、できるもんですか。今すぐカエサルのもとへ帰しますとも。だからもう、苦しむことは――」
そこでふいに、ケラドゥスはうめき声を上げた。よろめき、そばの木にもたれかかる。月明かりがその姿を照らす。
ティベリウスの目に、矢を生やしたケラドゥスの肩が映った。
「いたぞ! あそこだ!」
「不覚…」
ケラドゥスはうなり、腰の剣を抜いた。次に飛んできた矢を打ち払いながら、ティベリウスの背中を押す。
「坊ちゃま、走ってください! この突き当りを左に、それから右の茂みに。そこに壁の崩れたところが。急いで!」
ティベリウスは目を丸くして立ちつくしていた。
「早く!」
ケラドゥスは突き飛ばした。ティベリウスは動き出した。暗闇の中へ数歩――。
「うぐっ」
振り返るとケラドゥスが、今度は太腿に矢を受けて、片膝をついていた。その向こうで、無数の松明がゆらゆら踊る。
――ぼっちゃま…ぼっちゃま…
闇の中に、声がこだました。
――ごしゅじんさま……
ティベリウスはケラドゥスに飛びついていた。
「坊ちゃま、なにを――」
「逃げるのはお前だ、ケラドゥス!」
「なに、馬鹿なこと――」
「あいつらはぼくを殺さない!」大声で教え、彼を持ち上げようとする。「だがお前のことは殺す! お前が逃げなきゃだめだ!」
しかしすでに遅かった。武器を構えた大勢が二人を取り囲んだ。たいまつを掲げた男たちが、一斉に覆いかぶさってくる。ティベリウスは大声を上げた。しかし抵抗空しく、ケラドゥスから引き剥がされる。
「このドブ鼠めが!」
引き立てながら、ロドンはケラドゥスをさんざん罵倒した。自ら休みなく蹴りを入れた。
「野良犬の分際で、王宮殿に忍び込むとは! 禿鷹より卑劣な奴よ、人の獲物を横取りとは! お前のごとき蠅が、手柄の欠片でも得られると思ったか! 身の程を知れ、この蛆虫が!」
「やめろ! やめろ!」
二人の兵につかまれながら、ティベリウスは激しく暴れた。ケラドゥスはじっと動かなかった。
スフィンクスの門手前の広場に連れ出された。そこにはすでに女王その人が待っていた。控えの間で見せた姿など幻だったように、衛兵たちを従え、凛然と立つ。ロドンたちはたちまちその前にひれ伏した。
「お騒がせを、女王殿下。オクタヴィアヌスの薄汚い密偵にございました」
女王は捕らわれたケラドゥスを、それからティベリウスを見下ろした。
「この子を助けに来たのですか?」
ケラドゥスが答えなかったので、ロドンはもう一度蹴りを入れた。
「やめろ!」
もがくティベリウスは、彼からさらに引き離された。女王の傍らに控える、イラスとカルミオンとアポロドロスのそばへ連れられていく。
ロドンが吐き捨てた。
「この者も密偵の端くれです。しゃべりませんよ。今すぐ首をはねるべきです」
「やめろぉ!」
「わたくしの質問に答えなさい」
「卑劣な魔女が…」ケラドゥスは低くうなった。「呪われろ! この高貴な子どもが受けた仕打ちを知れば、カエサルはあんたを絶対に許さないだろう!」
「口を慎め!」ロドンが怒鳴る。「我々はこのお子を保護して差し上げたのだ。なに不自由なく、客人として丁重におもてなし申し上げていた」
「ふざけるな!」ケラドゥスはさらに大声で怒鳴り返した。「この子はクラウディウス・ネロだぞ! その魂をどれだけ踏みにじれば――」
「クラウディウス・ネロがどうした?」
調子はずれの声が割り込んできた。その場にいたほぼ全員が首を向けると、マルクス・アントニウスが、男奴隷の肩を借りながらよたよたやってくるところだった。彼はその男奴隷に話しかけた。
「おい、エロス、ついにあの石頭が化けて出たのかな?」
「言い残すことはありますか?」
女王クレオパトラだけが、彼を無視していた。ケラドゥスは首を垂れた。
「俺のことは好きにするがいい。だが、若きネロの前で殺すのだけは勘弁してくれ。これ以上、こちらの不甲斐なさのために傷つけたくない…」
「ケラドゥス!」
「簡単に殺してはなりません!」ロドンが金切り声を上げた。「こやつは長いあいだ我々諜報していたのです! 拷問して、全部吐かせないと!」
「おい、殺すと知らせて拷問じゃあ、ただの八つ当たりになるぞ」
アントニウスがうつろな笑いまじりに指摘した。
「あなたの言葉ですか」
女王は小さくため息をついた。それからアポロドロスの視線を受け、かすかにうなずく。
兵二人からティベリウスを引き継ぎ、アポロドロスはずんずん歩き出した。ティベリウスはじたばたした。
「ケラドゥス! ケラドゥス!」
「あんたの言葉でもないよな、女王様よ?」ケラドゥスはげっそりと笑っていた。「テュルソスの件だけじゃない。ペルシオンの将軍セレウコスの妻子を、アントニウスに殺させたな。御気ままに、自らの裏切りの代償として」
女王は無表情で顎を上げた。
「服を脱がせなさい」
「やめろ! やめろぉ!」
ティベリウスはわめき、暴れまくった。しかしアポロドロスの断固たる腕に引きずられ、遠ざけられていく。
「嫌だ、嫌だっ――」
もう嫌だ。そばでだれかが死ぬのも。なにもできないのも。
鋭い音が夜闇を裂く。ケラドゥスの悲鳴が響きわたった。
「やめろおおおおっっ!」
二度目の鞭の音。ケラドゥスの悲鳴はさらに大きくなった。
「うわああああああああああっっっ!」
絶叫が、闇夜を貫いた。逆流する天雷だった。その場にいた全員が、空がゆれたと錯覚するほど激烈な。
アポロドロスの腕がかすかにゆるんだ。肉身が突き破られたように、茫然と目を見開いていた。その隙に、ティベリウスは彼の懐に飛び込んだ。ドゥーコの短剣を抜き放ち、彼の鼻先に突きつける。
「来るな」
刃を振りながら、下がる。
「どけ! どけ、どけ、どけ!」
ロドンを、彼の部下たちを退ける。地面にうずくまるケラドゥスの傍らに立つ。
ティベリウスの目がぐるりと辺りを睥睨した。円を描いて取り囲む兵たち。青ざめるロドン。ぽかんとしているアントニウス。引きつるイラスとカルミオン。最後に女王に向けて、ティベリウスは切っ先を突き出した。丸い目をして、彼女は動かずにいた。
「動けるか、ケラドゥス?」
女王をにらんだまま尋ねる。ケラドゥスはうめきながら上体を起こそうとしていた。
「坊ちゃ……なにを……」
「いかれたか、ちびネロ?」
アントニウスがわずかに固い笑みを浮かべた。
「今度は解放奴隷をかばうのか?」
「いいか、逃げるんだ」ティベリウスは無視して続けた。「このままじゃお前は犬死だし、ぼくの不名誉も増すだけだ。生き延びろ。カエサルのところへ戻って、任務はやり遂げたと報告しろ」
「なにを、馬鹿な……坊ちゃ……」
「ぼくのことを、カエサルはちゃんとご存じだ」ティベリウスはうっすらと笑った。「余計なことはせず、あとはカエサルに任せろ。ぼくも、それでかまわないから…」
「…ネロ……」
「さぁ、立て!」声を張り上げる。「早く行け!」
「目もいかれたか、ちびネロ」
アントニウスがせせら笑った。
「ここにはお前より大きくて強い、武装した男しかいないぞ、ええ?」
するとティベリウスは、短剣の先を自分の首に向けた。アントニウスは目玉をまわした。
「おいおい…」
「あなたの命に価値などありません。忘れたのですか?」
女王が口を開く。
「だったら早く殺せばいい」
ティベリウスの笑みはますます酷薄になった。
「そのほうがぼくには名誉だし、カエサルも心おきなくあなたとアントニウスを滅ぼすだろう。見るに堪えないほど辱めて、無残に」
それからまた肺に空気を送り込む。
「ケラドゥス!」
涙で顔をぬらし、ケラドゥスはなんとか立ち上がっていた。
「坊ちゃまっ…どうか……お許しを……!」
足を引きずって進む。だれも手出ししなかった。それでもスフィンクスの門は閉じられたままだったので、ケラドゥスは王宮港へ向かった。自らに短剣を突きつけたまま、ティベリウスはじっと女王をねめ上げていた。
水しぶきの音がかすかに聞こえた。
「もう良いでしょう」
女王が冷淡に言った。
「あの者は生き延びるでしょう。傷の痛みでおぼれ死ななけば。あなたは、拷問より残酷な道を強いたものですね」
短剣が小刻みに震え出した。
「その得物は見た覚えがあるぞ」
アントニウスが気楽そうに声をかけてきた。
「なんでお前がそれを持っているのか知らんが、持ち主の男はお前にそんな真似をさせるために託したんじゃなかろう」
ティベリウスは目を閉じた。唇を噛み、両腕をだらりと下げた。瞬間、何本もの手に押さえつけられ、地面に伏せった。
「愚かな子」
つぶやきが降ってきた。ティベリウスが土で汚れた顔を上げると、雨に打たれた銅像のような女王が見下ろしてきていた。
「愚かで、傲慢で、救いようもなく哀れな子。勇気を履き違えて陶酔しているわ。だれにも真剣に愛されていないのに」
指先から、ドゥーコの短剣が離れていく。
「あなたに言われたくはない」
焼けつくような息を吐きながら、ティベリウスはうめいた。なぜこんな女に侮辱されなければならないのだろうと思った。拘束され、哀れまれ、評価を下されなければならないのかと思った。この女にそんな権限はなかった。世界のなに者にもなかったが、特にこの女には絶対になかった。
「インドでもお元気で」
この取り澄ました捨て台詞で、限界を超えた。哀れみも同情も葬った。どこか我が身を重ねていた、その共感さえもかなぐり捨てた。さらさらと衣服の裾が横をかすめていく。ティベリウスの目がぎらぎらと光を放つ。
「愛されていない? あなたにわかるのか、人の愛が?」
背中がぴたりと静止した。その気配を感じた。口からはせきを切ったように言葉があふれ出る。
「注がれた愛を、うぬぼれることにしか使わなかったあなたに。望んだものと違うからと、愛を裏切り呼ばわりしたあなたに。復讐心から戦争した挙句、家族を皆巻き添えにして破滅間近のあなたに。愛を誤るばかりのあなたに! あなたという人は、愛しい人の心を本当の意味で理解したことなんてなかった。そうじゃないのか?」
それはいばらの鞭だった。情け容赦ない滅多打ち。師がそう評した武器を振るい、ぐいと首を曲げる。
「愛を裏切ったのはあなただ。あなたを愛した人たちは、ずっとこんな運命からあなたを守ろうとしていたに違いないのに!」
叩きつける。えぐる。要求する。
「認めたらどうだ。愛しい人の心を、ことごとく読み違えたこと。彼らのほうがあなたよりずっと賢明だったこと。愛を履き違え続けたこと。考えてみるがいい! 今のあなたを見て、きっと一番胸を痛めているのはだれだ? あなたのことを、愛しい人たちはいったい今どんな顔で見ているんだ?」
女王の背中は、微動だにしなかった。
とたんに黒い影が覆いかぶさった。影はティベリウスを押さえつける存在を次々退け、首をわしづかみにした。そのまま持ち上げ、運びさらい、スフィンクスの門に叩きつける。
ティベリウスの両眼は、凄絶な形相をしたアントニウスを映して見開かれていた。
「黙って聞いていれば達者にしゃべりやがるな、小僧」
肉の盛り上がった腕を突き立てて言う。
「だが生意気を言い過ぎたな。クレオパトラを罵倒して良い男など、この世にいないんだよ。俺を除いて」
「…八つ当たりするな」
足先で地面をこすりながら、ティベリウスはかろうじて呼吸していた。
「あなたに…弁護する資格が…あるとでも? …あなたと女王は…同類だ。二人とも…神君カエサルがいかに…正しかったか、身をもって…示しているじゃないかっ…」
首の肉に、さらに五指が食い込む。
「このまま絞め殺されたいようだな。ネロのために遠慮していたが、もういい加減我慢の限界だ」
「こっちの台詞だ!」ぎゅっと目をつむり、出せるかぎりの声を上げる。「殺すなら殺せ! 父と一緒に、永遠に女王の虜でいるあなたを嘲笑ってやる!」
「馬鹿なやつだ」アントニウスは吐き捨てた。「お前こそ、虜であるまま親父の面を拝みにいく気が? お前の親父は、無念の極みのなかで死んでいったんだぞ」
青い目が、また見開かれた。アントニウスはうっすらせせら笑っていた。
「なんのことだかわからないか? そうだよな。お前はなにも知らず、なにも疑わず、今日までクラウディウス・ネロを名乗って生きてきた。高らかに、親父の遺志を踏みにじりながら」
「なん――」
「虜なのは、この状況のことじゃないぞ。むしろお前は、今が肉体的に自由なんだ。もっと早く、ここに来ているはずだったんだからな」
ティベリウスが動かないのは、門に押しつけられているからだけではなかった。アントニウスは首をかしげ、つくづくと眺めてきた。
「知っているよな? お前の親父は、ペルージアで俺の家族に味方した。そして俺の弟が降服したあとも、最後まで徹底抗戦した。あのオクタヴィアヌス相手に」
ペルージアの乱。それが起こった根源である男の口から話を聞く日が来るなど、ティベリウスは考えてもみなかった。
「負かされて、命からがらギリシアまで逃げてきたあいつに、俺は会ったぞ。あいつは言った。『オクタヴィアヌスを許さん。たとえ君に頭を下げる羽目になろうと、あの若僧が好きにするローマなど認めるわけにはいかん』――傍らでは、みすぼらしい姿のリヴィアとお前が、身を寄せ合って眠っていた」
ティベリウスはまばたきもできなかった。
「それがあいつの意志だ、ティベリウス・ネロ。あの誇り高く、一本気な男が貫こうとした信念だ。ユリウス・カエサルをしぶしぶ認めたあいつだが、後継者にふさわしいのは、オクタヴィアヌスではなくこの俺だと示したんだ」
「違う」
アントニウスの腕をつかみ、ティベリウスは首を動かそうとした。
「父は、あなたのことなんて認めていなかった。だから、カエサルとは対立していたけれども、カエサルをよく知ったあとは――」
「あいつはそう簡単に信念を曲げる男か?」
悠然と、アントニウスは言葉をかぶせてきた。
「オクタヴィアヌスの独裁は変わったか? かわいそうにな。あいつがとうとう振り上げた拳を下ろしたのは、オクタヴィアヌスを認めたからじゃなかった」
アントニウスのもう一方の手が、小さな頭の側部に触れた。
「お前のためだよ、ティベリウス」
瞳が、碧海の底へ突き飛ばされた。
「まずリヴィアを奪われた」
彼は間髪入れずに続けた。
「あの年でようやくめとった、可愛くてしかたがない妻。 さっそく嫡男を生んでくれた、感謝しきれない妻。十六の若さで、戦火の中を赤ん坊連れで従い、夫を支え続けたかけがえのない妻。 それをまぁ、あの若僧は遠慮会釈もなく奪っていた。美貌と、そして勝者の権利を振るって」
「馬鹿なことを言うな!」
喉も裂けんばかりに、怒鳴る。
「あなたは侮辱している! カエサルも、母も、父ネロも!」
「どうして馬鹿だと言えるんだ、おい? お前の母親は、どこから見ても申し分ない妻だっただろう。ネロが手放したい理由なんて一つもなかった」
ティベリウスは頑なな腕に指を食い込ませた。首を振り続けた。
「父は…父は……」
「そして、今度はお前だ」
アントニウスは容赦しなかった。
「婚礼の場で、公然とかっさらっていったそうだな。ネロにも不意打ちだっただろう。まさかあの暴君に、大事な大事な嫡男まで略奪されるとは――」
「違う! 違う!」
ティベリウスは悶えた。体をひねり、足をばたつかせた。これ以上聞いてはいけないと、魂が叫んでいた。
「カエサルはぼくのために引き取ってくれた! 幼かったぼくが、母上がいなくて寂しがるから!」
「そういう子ども心を利用したんだよな? そもそもあいつは、リヴィアの心をつかむためにお前を利用することからはじめた男だ」
「ちが――」
「まさに一石二鳥だ」びくともしない腕を突き立て、アントニウスは声を張り上げた。「お前を利用することで、あいつはリヴィアを手に入れた。そして、ネロのあれ以上の反逆も阻止したんだ」
ぎょろ目のすさんだ顔を、かぶりつかんばかりに近づける。
「お前は人質だったんだよ、ティベリウス」
体の力がさっと抜けていった。全身の血液が滝になって流れ落ちるように。
底光りする目の上で、アントニウスの眉が痛ましげに寄った。
「ギリシアで俺に頭を下げた時、あいつは泣いていたぞ。お前と同じ、自尊心の塊みたいな男が。なぁ、どうしてお前は、今まで親父の愛を無視してきた? 当然の感情に、なんで目をつむってきたんだ?」
耳元に、残酷な吐息がささやかれる。
「わかるよな? それはお前が虜囚の身だからだ。魂も、肉体も、あの男に捕らわれていたんだ。あのときから、ずっと」
「違う!」
声だけは、まだ死んでいなかった。両眼は、アントニウスを見ることさえできずにいた。
「ぼくは人質じゃない! 捕らわれてなんかいない! ぼくは望んだときにいつでも、父上に会いに行けた!」
「当たり前だ。実際に監禁するほど、オクタヴィアヌスが馬鹿なわけないだろうが。あいつはもっとずっと巧妙で、悪辣だよ。支配することを選んだんだ、お前の魂を。そして結果的に、肉体まで束縛することができたんだ」
「嘘だ!」
「ネロはついにお前を取り戻せないまま、死んだ。できるかぎりあがいたんだろうが、結局無理だった。どんなにか、悔しかっただろうな…」
シンバルが、頭を割らんばかりに反響した。デキムス、デキムス、デキムス――。ガリウス、ガリウス、ガリウス――。
「そしてあいつは、ああいう性格の男だ。誇り高すぎて、不器用すぎて、オクタヴィアヌスのように気安い笑顔の一つさえ作れない。それでお前には、なにも伝えられなかったんじゃないか?」
「父は…最期に会ってくれた」
必死に言った。痺れた体は、ただ小刻みに震え続けるばかりだ。
「父はあなたを非難した。カエサルのことはなにも言わなかった」
「なにも言わなかった!」アントニウスは大声でくり返した。「言えるわけないだろうが、こんな酷な話。あいつはもうまもなく死ぬが、お前はこれからも生きねばならんのだ。なんでわからんのか。なにも言わずに死ぬことが、あいつにできたせめてもの愛情だった」
痙攣する頬をつかみ、アントニウスはぐいと自分の顔を見させた。
「あいつはたった独りで死んだんだ。奪われたお前とリヴィアを想いながら。その無念が、どうしてわからん?」
漆黒の双眸に、少しもゆらぎはなかった。
「そうでなければ、あいつは今ごろ執政官を務め上げていた。そして、俺に味方するためとっくにこのエジプトへ来ていたはずなんだ、お前を連れて。それが当然の成り行きで、あいつの信念にかなったことだった。そうだろ?」
「違う…」なんとかゆらぎを見いだそうと、青い双眸は踏ん張っていた。「本当にあなたを支持するなら、父はぼくを連れていくことができた。ぼくは父の嫡男だ。父が命じれば、いつだって――」
「だから何度でも言う! ネロにはできなかった。お前を愛していたからできなかった!」
叩きつけられた言葉は、すがりつく魂をねじ伏せた。愛が、最後の一滴の力まで奪っていく。
「認めろ、ティベリウス・ネロ。父の愛を、絶望を。継父に捕らわれたお前は、ずっとそれを無視してきた。実父の孤独を、少しでも思いやったことがあったか?」
アントニウスは顔を離した。腕を伸ばし、突き放すように。
「お前は裏切り者だ」
震えが止まった。目を見開いたまま、ティベリウスはもう微動だにしなくなった。
それは、もうずっと前から聞こえていた言葉だった。
アントニウスは少しだけ語気をやわらげた。
「気持ちはわかる。俺にだって、素敵な継父がいた。あの人を処刑したキケロを、許してはやらなかった。慕うべき、良い男も世の中にはいるもんだ。だがお前の継父は、決して良い男なんかじゃない。けれどもお前にとって不幸なことに、あいつは自分を良い男に見せかけることにかけては、世界一の才能の持ち主だった」
声が、ずいぶん遠くで聞こえる気がした。
「あるとき、あいつと俺は、レピドゥスを加えて三人でローマを支配したことがあった。そのとき、先代カエサル暗殺者とその賛同者をなん人か始末することになったが、なんとまぁ、オクタヴィアヌスの仕事の速さよ。俺とレピドゥスがあんぐり口を開けている横で、あいつは次から次へと名簿に名前を書き込んでいった。死刑、死刑、こいつも死刑、とな。俺もレピドゥスもあわてて抑えたんだぞ。なにしろその名簿には、『暴君殺しには褒美を出すべきである』と馬鹿正直に心の内を吐き出しただけの、名門貴族まで含まれていた」
ティベリウスの頭が、ゆっくりと前に下がっていった。
「俺はキケロさえ殺せれば満足だったのだが、オクタヴィアヌスはいともあっさり賛成してくれたよ。俺と渡り合う立場になるまで自分を支援してくれた男を、なんのためらいもなく見捨てたんだ。なぜならはじめからこうするつもりだったからだ。『父』とまで呼んで取り入っておきながら、あいつは先代の暗殺を大歓迎したキケロを、許しておく気などなかった。まったく恐れ入るよ。だがこれはあいつの本性を表わす、ほんの一例だぞ」
うすら笑いつつ、アントニウスは顔を覗いてくる。
「あの愛想の良い笑顔の下で、だれよりも仮借ないのがオクタヴィアヌスだ。冷酷で残忍で、偽善の天才。お前だって、本当はわかってるんじゃないのか?」
ティベリウスの睫毛が動いた。鼻先がひくりとした。唇が言葉を発する寸前のようにわなないた。
アントニウスの手が、もう一度顔を上向かせた。
「なぁ、教えてくれ。マルケルスが来てからも、あいつはお前を愛する演技を続けていたか? 前ほど、上手に?」
ぐらりとゆれる、青い瞳。
「お前をマルクス・アグリッパの娘と結婚させると決めたのはなぜだ? 自分の姪を与えて、家族にするのではなく」
白眼に、赤い線がまた一筋。
「あいつは、息子同然のお前を一度でも息子と呼んだか? お前は、一度でもあいつを父と呼ぶことが許されたか?」
脳裏に浮かぶのは、青空を背にしたくしゃくしゃの笑顔。
「お前はもう用済みだ」
無情の言葉に、その光景は粉々に砕かれた。
「人質としても、マルケルスのついでとしても。だからあいつは、お前を無視した。好都合なんだよ、むしろ。お前みたいなのがいたら、いずれマルケルスが翳っちまうかもしれないからな。自分の血を引くただ一人の、本命の息子が」
もう破片しかない。どこにも見えない。
「ちが、う…」両眼に涙があふれた。「カエサルは…そんな人じゃない……」
「そうやって一生捕らわれていろよ」
アントニウスはそっけなく言った。
「親父はあの世で無念に悶え続けるだろうがな」
「ちが……う……」
雫が一粒こぼれ、頬を流れていった。顎からアントニウスの指に落ち、断末魔の悲鳴を上げて消えていく。
――それは違う! 絶対に違う! そんなことあってはならない! 父上が、ぼくのためにそんな目を見ているはずがない――
「なぁ…」
かけられたアントニウスの声は、残忍なほど、悪意の欠片も感じないものだった。
「親父は、本当に病で死んだのか?」
ティベリウスの体が、どくんと跳ね上がる。あたかも最後の鼓動を打つ心臓のように。
アントニウスはじっと顔をしかめていた。
「ずっと不思議に思っていた。あいつは昔から、俺に負けず劣らず健康な体の持ち主だった。それが突然だ…。信じられないな、今も」
かしげた顔が、問いかける。それは思いもかけなかった。世界が崩れ去るほどの恐怖は、さらに衝撃の度を増した。
「親父は…自殺だったんじゃないのか?」
「違う!」
「お前は、親父の遺体を見たか?」
「見た! 見た! どこにも不自然なところなんてなかった!」
「食を絶ったんだよ、アッティクスのように! お前は、親父がどんな病に侵されていたかちゃんと知らされたか?」
「うるさい! 黙れ! 勝手な想像をするな!」
「親父は絶望していた! オクタヴィアヌスがいよいよ俺に戦を挑み、ローマを我がものにせんとしていることに! 俺に加勢もできず、自分はなにもできないことに! なぜならお前が人質にされていたから!」
「違う!」
「執政官になりたかった! 古き良きローマを取り戻したかった! でもすべて夢だと思い知らされた! あの騎士風情の若僧が、なにもかもを台無しにした!」
「違う! そうじゃない!」
「こんな世の中に、生きていたくなどなかった! なぜならあいつは独りぼっちだ。妻も子どもたちも、愛する家族を根こそぎオクタヴィアヌスに奪われていた!」
「違う! 違う! 違う! ちがう、ちが、う………」
「だから自殺することにした! お前にも、だれにも心を打ち明けずに。そうしてあいつは、最後の誇りだけは守り抜いたんだ!」
しゃくる声で、ティベリウスはうめいていた。うめきながら、アントニウスの黒い両眼に父ネロの姿を見ていた。最後の日に見た、あの青白い皺ばかりの顔。気高く、なに者をも拒絶するような顔。
「あいつの孤独が、お前にわかるのか? あいつの絶望が、悲嘆が、愛が……!」
首から指が、ようやく外された。
ティベリウスはずるずると崩れた。肩を震わせ、声もなく、滂沱の涙で顔をぬらしていた。
「お前は虜だ」
アントニウスは冷厳と告げた。
「裏切りの、哀れな虜囚。これを認めないかぎり、お前は永遠に捕らわれのままだ。死ぬまで、あいつの手の中で踊り続ける。まったくこんなかわいそうなやつを、俺は見たことがないぞ…」
辺りにいた全員が、時が止まったように立ちつくしていた。女王でさえ、茫然自失の体で固まっていた。
アントニウスは踵を返した。
「ネロは俺をぶん殴るだろうな。でも俺は、お前を救い出そうとしてやったんだって、言い訳してやるさ」
元の部屋に戻されたあとも、ティベリウスは泣き続けた。たった独り、灯火も燃えない暗闇のなかで声を上げた。
どんなに声を張り上げても、だれの返事も来ない闇。その静かな底で、泣いた。泣いて、泣いて、果てなく泣いた。
どんなに泣いても、父ネロは現れなかった。アントニウスの言葉を、否定も肯定もしてくれない。まぶたの裏で、あの厳しい面差しのままたたずんでいるのみ。どうしたら償えるのかさえ教えてくれない。
暗闇に泣き続けた。声が枯れても叫び続けた。ティベリウス・ネロが崩れ去り、誇りがそぎ落とされ、魂が剝き出しにされても泣いた。泣きながら答えを探した。これを見つけないかぎり、泣き止むことはできない。それでも問いそのものは、やっと見つけていたのだ。
どうしてこんなに苦しいんだろう。身も心も引き裂かれる思いをして泣いているんだろう。独りきり、考えて、悶えて、傷ついて、また考えなければならないのだろう。
けれども、答えは一つだ。ずっとずっと探し求めていたそれは、暗闇のなかにあった。独りでかき分けた先に、どっしり根を張っていた。
あまりにも明白だったのに、長いあいだ見つけることができなかった。答えは、たった一つだ。
彼は、継父を愛していた。




