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ティベリウス・ネロの虜囚  作者: 東道安利
第四章 エジプト
30/57

第四章 ‐3

 


 3



 三日後、オクタヴィアヌス率いるローマ軍は、ついにサモス島を出発した。冬営期間は終わった。春を迎え、いよいよエジプトへの追撃行を再開したわけだが、最初の目的地はロードス島だった。もちろんティベリウスの件があったからではないが。

 アジアの名立たる都市を左手に、艦隊はエーゲ海を南下した。途中、医聖ヒッポクラテスの生誕地として名高いコス島に帰港した。こぢんまりとした美しい市で、『海から上るヴェヌス』の絵が一行を迎えた。実際に絵を鑑賞したユバは、初恋に心躍らせる少年のように頬を紅潮させていた。両手を組み重ね、うっとりと魅力を語った。ティベリウスは船室の隅で膝を抱え、黙って聞いていた。気分が乗らなかったので、下船しなかったのだ。

「どうしたんだい、ティベリウス? このあたりはあのトロイヤに近くて、伝説がいっぱいの場所じゃないか。なのになんだか元気がないね」

 ようやく気づいたユバが尋ねたが、ティベリウスは答えなかった。

 そんな鬱屈した日々が、もう数日続いた。

「ティベリウス!」

 早朝、マルケルスが船室に駆け込んできた。

「ロードス島が見えたよ!」

 ああ、うん、と気のない返事をして動かなかったティベリウスだが、マルケルスはしきりに甲板に出るようせかした。

「来て来て! とっても綺麗だから! すごいんだから!」

 マルケルスは力いっぱいティベリウスの腕を引いたが、ティベリウスはなかなか腰を上げなかった。しまいにはユバに半ば抱え上げられて外へ出た。

 真っ青な海が目に飛び込んできた。その向こうに、薔薇色に輝く都市が姿を現わしていた。朝日を満面に浴びた家々が、堂々たる港の背後に整然と並んでいる。あいだを挟む木々とともに、朝露をぎっしりためたまま編み上げられた花輪であるかのように、光をこぼしながら誇らしげに浮いている。

 ティベリウスの心は空っぽになった。悶々とした気持ちもなにもかも忘れてしまった。眼前に近づくロードス市に、完全に魂をさらわれていた。

「さすが世界一美しい都市と謳われるだけあるだろう?」

 以前に訪れたことのあるメッサラは微笑んでみせたが、子ども二人とユバは表情を浮かべることさえできなかった。

 港に投錨しても、感動は少しも覚めなかった。優麗な街並みと堅固に居並ぶロードス海軍の倉庫群が、一行を迎え入れた。

 まず目を離せなくしたのは、港に横倒しになっている巨大な銅像だった。その真ん前に立ち、ティベリウスとマルケルスは首を大きく上に、それから左右に動かしたが、まったく全貌を捉えきれなかった。この太陽神ヘリオスの像は、世界七不思議の一つに数えられている。全長は三十メートルを超す。いったいどうすればこんな巨大な銅像を、それも細部まで最高水準の技術を凝らして制作できるのだろう。

 銅像はおよそ二百六十年前に完成したが、その後地震で膝が折れ、倒れてしまった。ロードスの人々は、神託を受けて銅像を立て直さないことに決めたという。

 天を仰ぐヘリオスが今にも首をぐるりと回して話しかけてきそうで、ティベリウスもマルケルスも思わず身構えてしまった。目玉が二人の顔を、手のひらが背丈を軽く超えていた。ユバがその手首に抱きついてみたが、腕がまわりきらなかった。

 レントゥルスがしみじみとつぶやいた。

「こんな大きな手に捕まれたら、ぷちんとあっけなくひねりつぶされちゃうんだろうねぇ」

「怖いこと言わないで、レントゥルス!」

 マルケルスがたまらず叫んだ。レントゥルスは銅像の足元に目線を移した。

「膝から折れちゃってるから、踏みつぶされることはないだろうけど…」

 オクタヴィアヌスが島の貴族たちと挨拶を交わすあいだ、彼らは興奮しきりで巨大像のまわりを駆けまわっていた。軍団兵たちまでがそれに加わった。

 それからオクタヴィアヌスに連れられて市内に入ったが、ティベリウスの目は輝きを増すばかりだった。きちんと区画整備された町並みは、ただでさえ美しいのに、各所に飾られた芸術作品が次々心を奪っていく。たびたび立ち止まっては後ろのだれかにぶつかられるティベリウスを、ついにアグリッパが笑いながら手を引いて進んだ。

 オクタヴィアヌスはひと月ほど、このロードス島に滞在することに決めた。ロードス人は歓迎した。アントニウスを見限ることになんらためらいを見せなかった。

 ロードスは今日でも島全体が一つ自由都市である。歴史上さまざまな経緯があったが、おおむねローマとは友好関係を保ってきた。学問を志す世界の多くの青年がそうであるように、ローマの若者も好んでこの地を留学場所に選んだ。キケロしかり、神君カエサルしかり。

 そしてまた、この島の魅力の虜になる者が、一人――。





 ロードス島を訪れたローマ軍内では、島の景観や芸術作品以外にも、実に珍しいものを見ることができた。ここに来る以前には、ほとんどだれ一人見た覚えのない姿だった。はしゃぐティベリウスである。

 午前は、ネストルの授業のあいだじゅうそわそわしていた。終わるや、マルケルスやお供の奴隷を待つのももどかしく、玄関の前で飛び跳ねていた。ついに外へ飛び出すや、目をらんらんと輝かせ、踊るように街路を進んだ。ついついあちこち寄り道を重ねた末に体育場に着くのだが、もう運動するどころではなかった。そこは、長い歴史のあいだロードスに集まった奉献物でいっぱいだったのだ。

 ティベリウスは我を忘れて魅入った。マルケルスやユバも同様に夢中になった。絵画もすばらしいが、特に感動したのは彫刻作品だった。港にある巨大像に代表されるように、ロードス彫師の技術はずば抜けていた。衣服のひだの流れ具合は、目をくぎ付けにする迫力。表情は、生身の人間が生命の輝く一瞬に見せるそれだった。躍動する身体表現と相まって、圧倒する感情が伝わってくる。

 今にも断末魔の叫びが聞こえてきそうな苦悶の表情を見せる像を前に、マルケルスは涙目でティベリウスの後ろへ隠れた。ユバもまた、悲嘆の底で人生を終えようとしている青年の像を見て涙を流し、そうかと思えば、隣の慈しみあふれる女神像の微笑みにたちまちなぐさめられていた。

 ティベリウスがとくに興奮したのは、群像作品だった。大好きな神話の一場面が、眼前に大迫力で広がった。鑑賞者はなす術もなく呑み込まれ、姿の見えない登場人物として、展開する伝説のなかに立ちつくす。そんな体感に全身が打たれた。

 市の奉献物は、何ヶ月かかっても鑑賞しきれないほど数多い。それでもティベリウスは貪欲に探険した。ユバの腕をじれったがって引きまわし、芸術作品のあいだを練り歩いた。見知らぬロードス人に作品について質問を浴びせたり、市の案内を求めたりした。ある時などは、体育場からの帰り道に行方知れずになり、ちょっとした騒ぎになった。しかし夕刻にはとても満足した顔で、滞在先の屋敷に帰ってきた。ロードス市内はきちんと区画整備されているので、ティベリウスなら迷うはずがなかった。

 継父は叱らなかった。彼もまた非常に珍妙なものを見る目で、継子のはしゃぎぶりを面白がっていた。

「ティベリウスも子どもだったんだな。今ようやく思い出した」

 代わりにメッサラが注意した。

「気持ちはわかるが、まわりに心配をかけないように。自分なら大丈夫だとか、思い上がらないように。度を越さないよう、自制しなければならないぞ」

「ぼくはここに留学したい」

 つぼみを開いたような顔で、ティベリウスは希望を伝えた。

「いやはや!」

 アグリッパは大仰に頭を抱えてみせた。

「坊ちゃんに留学されたら、私の名将育成計画は頓挫ですか! ええい、このアグリッパ、ロードスに負けてなるものですか!」

 マルケルスが、こちらも珍しく、アグリッパと意見を同じくした。

「ティベリウスが留学しちゃったら、ぼくは置いてけぼり?」

 レントゥルスは、さっそくローマの友人たちに手紙を書き送った。

「せっかくロードスにいるんだから、ぼくももっと勉強しなくちゃ。だってぼくには、今のティベリウスをピソたちに信じてもらえるような文章が書けそうにないんだもの」

「ティベリウス、ちょっと落ち着いて!」と、ユバにまで言われたときにはさすがに傷ついたが、それでもティベリウスは元気溌剌だった。好きなものに囲まれて暮らす喜びで満たされていた。





 ティベリウスがロードスに魅せられているあいだも、オクタヴィアヌスの仕事は続いていた。相変わらず東方世界をにらみ、ローマによる秩序回復に取り組んでいた。

 エジプトの王都アレクサンドリアは、地中海を挟んでほぼ真南の位置にあったが、今すぐ艦隊を率いて下る考えはなさそうだった。それでもロードスの名高い港湾設備を借り、いつでも出撃できる用意は整えていたが。

 アントニウスからまた手紙が届いていた。今度はメッサラが、少しティベリウスの頭を冷やそうと考えたのか、教えてくれた。

「エジプトで不都合ならば、アテネで引退生活を送りたいそうだ」

 それを口にしただけで、メッサラは疲れてしまった様子だった。

「なぜ引退が前提にあるのですか?」

 刺すようなティベリウスの指摘に、メッサラは力なくうなずいた。

「つまり、このままそっとしておいてくれと言いたいのだろう。無論、そんなことができるはずがない。彼は大軍を率いて祖国と戦った。その事実の重みを、まったく認識していないようだな」

 ティベリウスはいつものむっつりとした顔つきに戻っていた。このままエジプトでなに事もなかったように引退生活などもってのほかだが、アテネでなどなおさらだと思った。

「カエサルはまたお返事を送らなかったのですか?」

「あ、ああ、そうだ」

 目をしばたたいてから、メッサラは肯定した。

「それでまた二言目には、『一騎打ちをしよう』と書いてあった。あきれてものも言えないな」

 それについては、ティベリウスももうなにも言わなかった。

「女王からは手紙や使者は来ていないのですか?」

「来ているよ。厚顔なら彼女も負けてはいない。エジプトの統治権を認めてほしいと願っていた」

 それもこれまでと同じだった。ティベリウスは前執政官を見つめた。

「カエサルはエジプトをどうするおつもりなのでしょう?」

「わからない」

 メッサラは無表情で言った。

「胸のなかで温めているところだろう」

「ティベリウス!」

 そこへマルケルスが興奮気味に飛び込んできた。

「庭に来て! ヘロデだよ! あのヘロデ大王が来たよ!」

 一瞬きょとんとしてから、ティベリウスは飛び上がった。メッサラもまた驚いた顔になった。

「突然だな。まったく聞いてなかった」

 ティベリウスはマルケルスと並んで、ばたばたと庭へ走り出た。列柱廊に出ると、庭の中央に立つオクタヴィアヌスが目に飛び込んできた。彼の前に男が一人ひざまずき、なに事かを語っているところだった。

「見学はここからだ」

 子ども二人の肩に手を置き、メッサラは指示した。二人は柱の蔭から覗いたが、語られている言葉は、ギリシア語だったこともあり、よく聞き取れなかった。それでもその風貌は十分に見て取れた。

 ひざまずく男は、一見すると王のようではなかった。まとうは質素なトゥニカとマントのみ。頭上に王冠がないどころか、目立った装飾品一つ身に着けていない。念入りに整えた頭髪と、豊かにたくわえた髭だけが、王らしい貫録を見せていた。

 だがこの男こそ、統治不能とまで言われたユダヤに君臨する、大王ヘロデだった。

 ヘロデは、女王クレオパトラを別とすれば、現東方世界で最も名の知られた王である。アクティウムの決着以来、王自らがオクタヴィアヌスを訪ねてきたのは初めてのことだった。ほかの王は、アントニウスの味方をしていたこともあり、まずは使者を出してオクタヴィアヌスの腹を窺ってきた。

 ヘロデもまた、アントニウスの味方だった。それどころか親しい友人であることを世界じゅうに知られていた。その彼が今、オクタヴィアヌスの前にひざまずいている。同盟を求めているのは明らかだった。

 マルケルスも興奮する理由は、ヘロデとローマとの密接な関係もさることながら、世界に轟く彼の武勇である。東方諸国には王位を巡る内乱が常に吹き荒れてきたが、ユダヤもまた例外ではなかった。それどころかほかのどの国よりも熾烈で残虐な争いが続いた。ヘロデはそのような戦を勝ち抜き、実力で王位を手にした男なのである。

 しかし自らの武勇のみを誇るのでは、東方世界で生き残ることはできない。アクティウムの海戦決着とともに、ヘロデは新しい後援者から愛顧を得なければならなくなった。

 ヘロデが弁解を終えると、今度はオクタヴィアヌスが語り出した。通訳がそれをギリシア語に訳した。即興で長くしゃべれるほど、継父はギリシア語が流暢ではないからである。言葉がつむがれるにつれ、ヘロデの頭が上がっていくのをティベリウスは見た。神妙な顔つきに輝きが宿っていく。

 オクタヴィアヌスは、これまでと変わらず、ヘロデの王位を認めたのである。その旨の勅令を出すことを約束したあと、自らの手で、その同盟者の頭に王冠をかぶせた。

 こうして、ヘロデは再び王に戻った。新しい後援者に勧められるがまま、おもむろに立ち上がった。その瞬間、ティベリウスは戦慄した。

 ヘロデの上背は、オクタヴィアヌスよりずっと高かった。手足も長く、もう四十は過ぎているはずなのに、まったく衰えの見えない屈強な体をしている。さすが無数の屍の上に王座を据えた『大王』と言うべきか。

 なによりぞっとしたのは、その両眼である。喜びに満ちながら、少しも笑っていない。底なしに暗く、それでいて斬首刀のように鋭い光が、三日月型に歪んでオクタヴィアヌスを見つめている。

 カエサルが危ないと思った。まわりにはアグリッパや軍団兵たちがいたが、守らなければと焦った。メッサラが止める間もなく庭に飛び出していた。

 遅かった。しかしヘロデにはオクタヴィアヌスを傷つける理由などなにもなかったのである。

 オクタヴィアヌスとヘロデは固い握手を交わした。長年の友人同士であるかのように、肩を叩き合った。オクタヴィアヌスもまた、ヘロデと同じようなにこやかな表情をしていた。

 拍子抜けして立ちつくすティベリウスを、メッサラが後ろに押しやった。そして同じくにこやかに、ヘロデへ再会の挨拶をしに近づいていった。

 会見は、和気あいあいとした雰囲気に変わった。メッサラをはじめ多くのローマ人と握手を交わしながら、ヘロデはとても満足している様子だった。ティベリウスはマルケルスと顔を見合わせ、どちらからともなくため息をもらした。

 ところがそこへ、ヘロデの同行者の一人が乱入してきた。オクタヴィアヌスめがけて突進してくるや足元にひれ伏し、油断していたティベリウスの肝を冷やした。

「カエサル・オクタヴィアヌス様、お助けください! わたくしはもはやアントニウスのところへ戻りたくありません!」

 それから男は早口でしゃべりまくったが、オクタヴィアヌスはヘロデに説明を求めた。ヘロデは感覚を失くしたような顔で、アントニウスが自分の離反を防ぐために遣わした者だと教えた。名はアレクサス。アントニウスのギリシア人の友のなかで、最も勢力を得た男であるらしかった。

 メッサラが、軽蔑の色も露わに言った。

「あなたの噂は聞いている。アントニウスの友人でありながら、女王の手先となり、あの男の心をオクタヴィアから翻す手助けをしたそうだな」

 これを聞いたマルケルスは目を剥いた。

 アレクサスは激しく首を振った。メッサラの非難を否定し、オクタヴィアヌスの慈悲を請うた。弁護者であるはずのヘロデは、もうなにも言わなかった。衣服の裾にすがりつくアレクサスを見向きもせず、虚空を見つめて微動だにしなかった。

 ついにオクタヴィアヌスの命により、アレクサスは縄をうたれて引きずられていった。するとヘロデはまるでなに事もなかったかのように笑顔に戻り、またオクタヴィアヌスに話しかけた。悲痛に助けを求める声が、遠ざかっていった。オクタヴィアヌスもまた笑顔で応え、ヘロデを屋敷の中へ招き入れた。

 結局ヘロデは、王位とローマ同盟国としての国家存続を約束され、嬉々として帰っていった。なんの処罰も科されず、それどころか今後の動向次第では、さらなる領土を与えられる可能性も示されたらしい。というのもヘロデの治める領土も、女王クレオパトラによって一部奪われていたのである。

「まさかユダヤを通らず、船でエジプトへ出撃されるなど考えておりますまいな? 私が国を挙げての盛大なもてなしを用意して待ちかねておりますので、必ずお立ち寄りくだされ」

 ヘロデは何度もそう願って、オクタヴィアヌスがうなずくまで手を離さなかったという。

 その日、学校設立準備に飛びまわっていたテオドルスが、久しぶりに戻ってきた。ティベリウスはすぐさまその傍らに陣取った。

「ヘロデ王が来たそうだな?」

 教師は耳が早かった。

「あの人のことだ。上手くカエサルの好意を得たのだろう」

「はい」ティベリウスはうなずいた。「アントニウスのとの友情を隠し立てしなかったことが、かえってカエサルに良い印象を与えたそうです」

「隠しようのないことだからな」

 テオドルスは自室の寝台の上に落ち着いた。彼の故郷ガダラは、シリアとユダヤの境界にある都市だった。両国の紛糾を間近で見ながら少年時代を過ごしたのだ。

 ティベリウスは椅子に腰かけた。

「ヘロデはアントニウスの後援で王位を勝ち得ました。アントニウスを裏切ることにためらいはなかったのでしょうか?」

「義理人情からくるためらいなら、東方の王侯連中ほど無縁な者はおらんぞ。馬鹿げたことだ。王位のためなら、親兄弟ですら殺して普通の連中だ。彼らにしてみれば、自分の王位と王国が無事なら、それで良いのだ」

「……」

 それでもヘロデは、少なくとも親兄弟のことは愛していたようだ。このごろは自国で、家族を記念する施設を数多く建設しているという。偉大な父アンティパトロスを毒殺で失い、兄弟のパエサロスとヨセフスも内乱のなかで失った。そんなヘロデの無念を思うと、他人のティベリウスでさえ胸が痛い。

 だがテオドルスの言うとおり、自国の後援者がアントニウスであろうとオクタヴィアヌスであろうと、ヘロデにとって変わりはない。自分を友にしてくれるならば。

「カエサルとアントニウスが戦争をすることになったとき、ヘロデはアクティウムに来ませんでした。アラビアのナバテア人が暴れて、その鎮圧に当たっていたそうです。ヘロデは、女王クレオパトラの陰謀で参戦を妨害されたと話したそうです。女王はヘロデに戦争で活躍してほしくないので、わざと遠ざけたのだと」

「どうだか」テオドルスは鼻を鳴らしてみせた。「結果がどちらに転んでもいいように、自ら進んでナバテア人と砂遊びに行ったとしても不思議ではない。それどころか、元老院が女王を『国家の敵』と宣言した時点で、アントニウスの形勢不利を悟っていたかもしれん。そのくらい抜かりない男だよ、彼は」

「でも、ヘロデも物資援助はしていました」

「体面上な」

 教師はそっけなく言った。

 少し考えてから、ティベリウスはまた口を開いた。

「ヘロデが女王を嫌っていたのは事実のようです。強欲な女王は、ユダヤの土地も欲しがっていました。実際、アントニウスが目を離した隙に強奪した地域もありました。でもヘロデは、アントニウスが彼女の後ろにいるので、文句が言えなかった。だからきっと、女王が敗北して喜んでいるに違いありません」

 それからいささか語気を強めて続けた。

「ぼくは本当に呆れているんです、女王に。彼女はあまりに強欲で、アントニウスを利用し、ローマや東方諸国の土地を我がものにしてきました。でもアントニウスは、ユダヤだけは決して女王に贈りませんでした。アントニウスでさえもわかってたんです。ユダヤがとても統治の難しい国だって」

 ユダヤは、互いに政略結婚をくり返してきたアレクサンドロス大王の後裔国とは、明らかに違う。支配者に異国人を迎えたことは、一度たりともなかった。

 唯一の神しか認めないかの国において、イシス神の化身を称する人が王にでもなれば、いったいどういう事態になるだろう。

「ローマ人のアントニウスにわかったことが、どうしてずっと東方世界で生きてきた女王にわからないのでしょう?」

「君にはなにがわかると言うのかね?」

 テオドルスは皮肉っぽく訊いてきた。

「それは……上手く説明できなくて、恥ずかしいのですが…ユダヤの歴史とヘロデの人生について学んだとき、そう感じました。ユダヤの人々は、どんな王にも満足しません。ダビデ家の子孫でないからハスモン家の王に反抗し、ハスモン家の王でないからヘロデ家の人々に反抗します。彼らはいったいなにが欲しいのでしょう?」

「王政の国なら、どこだってそうだ。やれ庶出の長男だの、嫡出の次男だの、反抗する理由はいくらでも見つけられる。自分は良い思いをしたい。連中が考えているのはそれだけだ」

「でも…それにしてもユダヤの人たちは特別強情に見えます。メッサラが話していました。ある老人は、ヘロデの命を保証するとの投降要求に耳を貸さず、子ども孫も皆手にかけてから自殺したそうです。ずっと昔から、彼らは勝ち目がなくとも死ぬまで戦う人たちでした。王が殺しまくっても、いなくなることはありませんでした。王が無能だったわけではありません。それなのに、どうしてそこまでって思います」

「彼らは唯一の神のみを信じる。『不純』を認めない気持ちは、ほかのどの民族よりも強いだろう。自分たちを選んでくださった絶対の存在に背くことになるのだから。そしてその信仰心を刺激することは、陰謀家にはたやすいことだ」

 そこでひと息ついてから、テオドルスは腕組みをして続けた。

「アレクサンドロス大王の東方遠征により、ギリシア系マケドニア人が世界を席巻した。だがユダヤだけはあくまでユダヤのままあり続けたのだ。彼らはだれもなにもしなくとも自分たちで血生臭い争いをくり返すが、その際周囲を巻き込むことも知っている。だが彼らが他国人に頼るのは、自分たちが望むユダヤ人を王位に就けたいからで、ひとたび介入してきた頼れる他国人が少しでもユダヤを踏みにじるようなことをすれば、たちまち彼らは死ぬまで抵抗するのだ。その執念ときたら、ローマが都市一つ潰しただけで大人しくなったギリシア人を圧倒するぞ」

 テオドルスは貫くように教え子を見つめた。

「これからもヘロデ王は困難な統治を強いられるだろう。そしてローマも、この厄介な民をどう扱うか、覇権を握るかぎり悩まされるだろう。君の継父が抱える問題が、また一つ増えたな」

 不思議なことに、ティベリウスはこの言葉を自分への挑戦のように受け取った。応戦しなければと奮い立った。

「ローマはこれからもヘロデを支えます。大ポンペイウスがはじめ、神君カエサルが認め、カエサルとアントニウスと元老院が宣言したことです。ユダヤが安定する最も有望な道は、ヘロデが統治者になることだと。ローマはユダヤから憎まれるでしょう。それでもローマはこれまでどおり、覇者の責任を果たします。まわりを害しないかぎり、ユダヤのあるがままの姿を認めながら」

 それから、願うようにつけ足した。

「唯一の神しか信じないユダヤの人々の気持ちを、ぼくは一生わからないかもしれない。でも毎年何千人と内乱の犠牲になるような状態が、良いことであるはずがありません。大事な人を失って悲しいのは、皆同じです。だれだって戦争は嫌いです。ぼくはその気持ちを信じます」





 春麗らかな日差しは、たとえ故郷から遠く離れていても、なんとはなしに心を弾ませてくれる。そんな浮かれた気持ちを発散させるため、ティベリウスは遠足に行くことになった。行先はロードス島第二の都市、リンドス。アテナ神殿と、断崖からの景観で有名なところだという。美しい田舎の風景を眺めながら、往復四日の行程だった。

 もちろんマルケルスが一緒だった。言うまでもなく、ユバもたちまち荷造りをした。しかしオクタヴィアヌスはロードス市に残ることになった。体調への配慮もあるが、ヘロデのような客がいつ訪ねてくるかわからないからである。

 代わりに、なんとアグリッパが同行することになった。いつも軍営から離れない彼に、オクタヴィアヌスが短い休暇を与えたらしい。ティベリウスはうれしい反面、少しだけ不安を感じた。アグリッパがついているだけで、オクタヴィアヌスの身の安全は保障されると、信じているところがあった。身勝手ながら、そばを離れてほしくないと思っていることに気づいた。

 それでも、たった四日だ。馬にまたがり、ロードス市を出発してから、ティベリウスは目をきらめかせて景色を楽しんだ。緑あふれるのどかな田舎は、二年前に家族と過ごしたルクルス邸での思い出をよみがえらせる。この辺りは、ローマの富裕層が大挙して別荘を建てたあのカンパーニア地方より、さらに静穏だ。

「こんなところに住めたらなぁ…」

 ティベリウスはますますロードスが好きになった。都市部も田舎も、すべてが完璧に見えた。

 このようにどんどんロードスに魅せられていくティベリウスに、マルケルスは危機感を覚えたらしい。彼は十年後、ティベリウスに置き去りにされる自分を想像していた。オスティアの港から意気揚々と手を振って出航していくティベリウスを思い描いた。それならばマルケルスも留学すればいいのだが、彼自身は叔父オクタヴィアヌスを助けて国益に尽くす未来を固めていた。ティベリウスにはずっとそばにいてほしかった。

 とても真剣な面持ちで、マルケルスはティベリウスに話しかけた。自分にも叔父にもティベリウスが必要なのだからと訴えた。家族みんながティベリウスがいなくて寂しがると嘆いた。ロードスをけなさなかったが、ローマの良いところをたくさん挙げた。

 真面目な丸い目で、身振り手振り、熱心に言い聞かせる様子が面白くて、ティベリウスは笑ってしまった。するとマルケルスは、神君カエサルが海賊にさらわれた話をはじめた。

 二十四歳の若かりし日、神君カエサルはロードス島へ留学しに旅立った。ところがその道中、海賊に捕らえられてしまったのである。

 海賊は、のちに国家ローマの頂に立つ男に、二十タラントンの身代金をつけた。かなりの高額だが、それを知った神君カエサルは嘲笑し、自ら身代金を五十タラントンにつり上げた。「いったいだれを捕らえたのか、お前たちはまるでわかっていない」そう言って。

 それからの三十八日間、従者たちがあちこちで金を工面するあいだ、神君カエサルは虜囚生活を強いられたが、まるで満喫しているように見えた。自分が眠りたいときに海賊が騒いでいると、人をやって黙るように命じた。海賊と一緒に遊興し、連中の体育訓練にさえ参加した。ときには詩や演説原稿を書き上げて連中に読み聞かせ、ぽかんとして理解を示さない彼らを「無学な野蛮人ども」と罵った。

 しかしどれだけ我が物顔でふんぞり返った人質であろうと、海賊たちは彼に危害を加えなかった。その地方の海賊は、当時世界で最も残忍非道と恐れられていたのだが、大金に目がくらんだのだろう。傲慢な人質は「今に全員縛り首にしてやるぞ」とまで発言したが、連中はこれも冗談だと聞き流して、面白がっていた。

 友人一人と奴隷二人だけをそばに置いて、神君カエサルは人質暮らしを無事乗り切った。まるで王者のように過ごしたあと、身代金が届いたので、解放された。

 都市ミレトスに渡った元人質は、たちまち船を屈強な男たちでいっぱいにした。そして海賊の根城へ引き返し、瞬く間に一網打尽にしたのである。大金を手にして油断していた彼らは、ろくに抵抗もできなかった。神君カエサルは、身代金どころかこれまで大勢から略奪された豪華な品々までも取り返したあと、宣言どおり、海賊全員を処刑した。

 しかし、マルケルスが伝えたいのは、神君カエサルの大胆不敵な武勇伝ではない。

「一人で留学したら、なにが起こるかわからないよ。神君カエサルみたいに海賊に捕まっちゃったらどうするの?」

「馬鹿だな。海賊がのさばってたのは昔の話じゃないか。大ポンペイウスが全部やっつけたよ」

「きっとまだいるよ」マルケルスは大真面目だった。「叔父上の艦隊が怖いから、隠れてるだけだよ」

「じゃあ、ぼくがやっつけながら行く」

「ティベリウスってば!」

 がんばるマルケルスに、アグリッパが参戦した。両腕を広げて青空を仰いだ。

「坊ちゃんが海賊にさらわれてしまったら、私はどうしたらよいのですか? 身代金の重みで救出船を沈める自信はありますが、もしものことがあったら……なんで代わりに人質にならなかったのかと、娘が私を蹴っ飛ばすでしょう」

 ヴィプサーニアがそんなおてんばに育つ予定だとは知らなかった。ティベリウスは思わず吹き出した。

「さすがに捕まりたくはないけど、ぼくは神君カエサルがうらやましい。ロードスに留学しながら、ときどき東方各地へ乗り出して、ローマの敵と戦ってまわったって聞いた。ぼくもそんなふうに自由に生きてみたい」

「いやいや、危ないよ、ティベリウス」

 今度はユバが言った。

「ビティニア王国に出かけた時、神君カエサルの身に起こったことを知らないのかい? ニコメデス王に気に入られて、そのう…添い寝をさせられたって」

 それはロードス留学より六年ほど前の出来事だが、海賊事件以上に話題を呼んだ。当時、東方で初めての軍団生活を体験していた少年カエサルは、同盟国ビティニアのニコメデス王のところへ、使者に出された。そこですっかり王に気に入られた彼は、豪華絢爛な宮殿生活を満喫したらしい。そして満喫しすぎたあまり王の寵童たちと一緒になって酌をしてまわったことが、ユバの言うような不名誉な噂を招くことになった。

 それから何十年も経って後も、同性愛疑惑はささやかれ続けた。「女」「ニコメデスの愛人」「ビティニアの女王」――政敵たちはことあることに侮辱した。凱旋式では、軍団兵たちまでもが陽気にからかった。キケロに至っては元老院議場で、ニコメデスの娘を弁護するカエサルにこう言った。「お願いだ。もうやめてくれ。王が君になにをしたか、それから君が王になにをしてやったのか、だれでも知っているのだから」

 肉体美を愛でるギリシアには、古くから同性愛が当たり前にある。とくに美しい少年への愛は、最高神ゼウス(ユピテル)がガニメデスさらった神話にも遡る。

 だがローマにたくさん残っている銅像を見るかぎり、ティベリウスには神君カエサルが、かつて可憐な乙女のような美少年であったとは、申し訳ないが想像できない。だから同性愛疑惑も嘘なのだろうと思うが、ユバはキケロに影響を受けているのだろう。子どもの手前言葉を選びながら、本気で心配していた。

「うっかりあのヘロデ王とかの宮殿に入って、あやしい目をつけられたら一大事だよ。純潔の危機なんだよ」

 だがティベリウスは大笑いした。馬の上で転がるように、ない、ない、と手を振りながら揺れた。自分が可憐な美少年でないことには自信があった。それにしても、なんであのヘロデなのか。

 けれどもマルケルスはますます必死になった。

「留学なんてしちゃだめ。ずっとローマにいて!」

「坊ちゃん、まずはこの未来の義父に、見渡すかぎりの孫、孫、孫を見せてくだされ!」

 アグリッパまでもが乗っかった。

 そんな会話を代わしながら、リンドスへの道をとことこ進んだ。春の心地良い風に吹かれる、楽しい遠乗りだった。馬の足元で、小さな桃色の花が揺れていた。

 あとで、ティベリウスはマルケルスにちゃんと話した。自分が留学するのは、成すべきすべてのことが終わったあとだと。今の自分の第一目標は、マルケルスと同じ――国益に尽くし、カエサル・オクタヴィアヌスの力になることなのだから、と。





 遠足中も珍しくはしゃいでいたティベリウスだが、都市リンドスの断崖に立った時、心のすべてを失くした。眼前に広がるは、これまでにも何度となく目にした地中海のはずだった。けれどもティベリウスは、こんなにも青い青を見たことがなかった。

 心が洗われるのではない。生まれたままのまっさらな姿に戻り、なにも考えられなくなる。吸い込まれるように見入ったまま、時が止まる。ただ一途に深い、圧倒的な青。全身を打たれ、呼吸を忘れ、魂のすべてで受け止めた。雲一つない空の青と造り上げる、天地の迫力。それに白肌の断崖と、砂色の神殿、さらに島の海岸線が添えられ、この青の世界は、生命が眺める最高の景色を見せていた。

 アグリッパはリンドスの人々と語らっていたが、ティベリウスはずっと断崖から離れなかった。ユバもまた神殿を徘徊しながら、同じように夢見心地の様子でいた。

 マルケルスは先祖である『ローマの剣』の像を見つけ、お参りしていた。彼の勇猛な先祖の高名は、このロードスまで轟いていた。また、かの人自身がギリシア文化を大変愛した人でもあった。

 魂の交流を終えると、今度はティベリウスが、もう夕暮れ時なのに、昼間から少しも動かず海を眺めているのに気づいた。

「ぼくはここに住みたい」

 マルケルスに強く手を引かれながら、ティベリウスはうわ言のようにつぶやいていた。

 どうしてカエサルは来なかったのだろう。この絶景を見せてさしあげられたら――。

 翌日にはリンドスを去らなければならなかった。どうにも離れ難かったが、このとき眺めた景色は二度と忘れないだろう。いつかテオドルスが話していた、一生の宝を一つ見つけた気がした。





 もしも最後にあのような一団を目撃しなければ、この遠足は非の打ちどころのないすばらしいものになっていただろう。

 ロードス市壁の前まで帰ってきたときだった。市門から十字架を抱えた一団がぞろぞろ外へ出てきた。一目で磔刑用のそれだとわかり、ティベリウスとマルケルスは同時に顔を引きつらせた。

「聞いているか、ギリシア人ども!」

 罪人らしき男が、縄を打たれて引きずられていた。首を反り、処刑執行人や見物人たちにわめき散らしていた。

「自由が踏みにじられる瞬間だ! お前たちもこうなるのだ、独裁者に逆らえば! あの冷酷非道の暴君オクタヴィアヌスは、世界じゅうすべての人間を奴隷にしたのだ! お前たちと同じく、我々ローマ人もあの男の奴隷だ!」

「黙れ!」

 執行人が鞭を入れると、罪人は悲鳴を上げてのけぞった。目を背けたい光景だったが、ティベリウスは固まっていた。罪人はローマ人だ。しかもオクタヴィアヌス絡みで死刑に処されようとしていた。

「体よくアントニウスを葬って、ご満悦かオクタヴィアヌス? なにもかも思いどおり、世界は我がものか?」

 罪人はなおも叫んだ。

「ローマは死んだ! ブルートゥスが自害した瞬間、見る影もなく腐りきった死体に成り果てたのだ! 私を殺すか、オクタヴィアヌス? 私を殺しても、自由を求める人間の魂は永遠に滅びぬ! いつの日か必ず、我らが正義の意志が、貴様に最も恥ずべき無残な死をもたらすであろう! 共和政ローマ、万歳ーー!」

「黙らんかぁ!」

 執行人たちは鞭を振るいまくった。血しぶきが飛び散り、男は地面に突っ伏した。そのまま土埃を上げて引きずられながら、なおも滅多打ちにされていた。

 マルケルスがすすり泣いていた。青ざめた顔のユバが、彼を自分の馬に引き乗せ、胸の中に埋めた。マルケルスは両耳を押さえて震えていた。

 ティベリウスはまったく動けずにいたが、いつのまにか、アグリッパに馬の手綱を引かれて市壁をくぐっていた。アグリッパはいつになく固い顔をしていた。

「共和政ローマ、万歳…!」

 その叫びだけが、静まり返るロードス市に長いあいだこだましていた。

 そのまま、一行は屋敷に戻った。すると日蔭で寝そべっていたオクタヴィアヌスが、ひょいと飛び起きた。

「おかえり」

 彼はにっこりした。

「どんな遠足だった? 楽しんできたか?」

 ティベリウスとマルケルスとユバは、落ち着かない視線を交わした。アグリッパが言った。

「すばらしかった。とくにリンドスの崖からの眺めは。君にも見せてあげたかった」

「そうか」

 オクタヴィアヌスは満足げにうなずいた。体調良好な様子で、簡易寝台の上にあぐらをかいた。

「子どもたちも楽しかったか?」

 そこでようやく、三人のあいだに漂う異様な雰囲気に気づいたようだ。彼は目をぱちくりさせた。

「どうした? なにかあったのか?」

 しばらくためらっていたが、やがてマルケルスがか細い声で教えた。市壁の外で、処刑されに行くローマ人を見た、と。

「ああ、あれか」

 オクタヴィアヌスは目尻を下げた。

「驚かせたな。あの男はトゥルリウスといって、今日アントニウスが寄越してきたんだ。曰く、神君カエサル殺害にかかわった国賊の一人らしい。つまり、この者を差し出すので、女王と自分には情けをかけろということだな。ともかく、殺害犯がまだ生き延びていたとは意外だった。彼にもまた、ほかの卑劣な父親殺しらと同じ運命をたどってもらったというわけだ」

 語るオクタヴィアヌスは、大変陽気に見えた。子ども二人が受けた衝撃になど、まったく気づいていない。むしろ、神君カエサル殺害犯が当然の罰を受けるのだから、同じようにうれしく思って当然と疑っていない様子だ。

 おめでとうございます、とユバがかすれ声で言った。

 オクタヴィアヌスは大きくうなずいた。帰還した家族をいそいそと見まわした。

「さぁ、四人とも、風呂にでも入って長旅の疲れを癒しておいで。それから夕食の席で、素敵な土産話をたくさん聞かせてもらおう」

 最後に歩き去るティベリウスを、オクタヴィアヌスは呼び止めた。

「ますますロードスに恋したか?」

 無邪気そうな顔を見返し、ティベリウスは引きつった笑みを浮かべてうなずいた。継父は笑い返した。

「そうか。そんなお前には残念な知らせだが、我々は明後日、ロードスを出発する。思い出を大切にしまって、準備をしておきなさい」





 市場で、ドルーススへの誕生日の贈り物を買った。それが夢のようなロードスでした最後のことだった。

 オクタヴィアヌス率いるローマ軍は、シリアのアンティオキアに向けて出発することになった。ついに東方大陸へ足を踏み入れるのだ。ただし全軍ではなく、艦隊のおよそ半分をコルネリウス・ガルスの指揮下、ロードスに残していくことにした。時が来れば、オクタヴィアヌスは陸から、ガルスは海から、エジプトへ迫る作戦のようだ。

 最高司令官は、今後も甥と継子を同行させることに決めていた。甥の強い希望を受け入れた形になるが、彼自身もまた、将来を期待する甥に、早くから学んでほしいことがまだたくさんあったのだろう。厳重に守り、体調に配慮しながらそばにおくことにした。

 ヘリオスの巨像の前まで、テオドルスが見送りに来た。彼の新設学校は、すでにロードスじゅうで話題の的となり、多くの学生が押し寄せているそうだ。

「お別れだな、今度こそ」

 教師は、相変わらずそっけない口調で言った。

「君の大活躍を祈る。国益に尽くし、元老院の重鎮となり、歴史に名を刻む名将となり、ローマに無双不可欠の人材となって、ここに留学する暇を無くしてくれたまえ。毎日欠かさず祈っているぞ、君が戻ってこないことを」

「…大変お世話になりました」

 ティベリウスは淡々と礼を述べた。それから強張った無表情のまま、さっと踵を返した。

 ため息が聞こえた。それから肩を強くつかまれ、振り向かされた。

 きつくしかめた教師の顔を、ティベリウスは直視できなかった。

「ローマへ帰れ」

 断固として、テオドルスは言った。

「これより先に行くな。行く必要などない。もう十分世界は見た。まだこれからいくらでも見る機会はある。帰って、休め。あとはそれからだ」

「ぼくは帰りません」

 同じくらい断固として、ティベリウスは言った。先生はなにを言っているのだろうと思った。またいつものように自分を挑発して、奮い立たせているのかと考えた。

 だがテオドルスの顔に、いつものあの皮肉に満ちた色はなかった。節くれだった指が、ティベリウスの薄い肩に食い込んでいた。

「去年、従軍する君は意気揚々としていた。あらゆることから学ぼうと、貪欲なまでに能動的だった。だが今の君はなんだ? 行きたくもないのに、保護者と友人への意地から、彼方の世界までつき合う気か?」

「行きたくないなどと、言った覚えはありません」

 叩きつけるように言った。

「ぼくは行きたい。カエサルについて来たおかげで、このすばらしいロードスも見ることができた。ぼくはもっとがんばりたい。これからもマルケルスを助けて、カエサルからたくさんのことを学びたい」

「君自身を助けるのはだれだ?」

 テオドルスもまたきつい調子で問いかけた。

「真の学びには時間がかかるのだ。日々積み重ねる努力のほかに、心身の健康も必要なのだ。今の君は良きにしろ悪しきにしろ数多くの刺激を受け過ぎて、疲れきっている。単調な日常に戻り、おのれとじっくり向き合う時間を持たねばならない」

「ぼくは疲れきってなどいません。ロードスで心が癒されたし、自分の調子を保って暮らしています。ぼくは元気です」

「…これだから君というやつは……」

 失望したように、テオドルスは天を仰いだ。

「まあ、言っても無駄だということはわかっていたがな…」

「さようなら、先生」

 うなだれて、ティベリウスはつぶやいた。二度も別れなければならないのなら、再会などしなければよかったとさえ思った。

 そんな教え子の頬をつかみ、教師は無理矢理上向かせた。

「以前、君は戦争を嫌う人々の気持ちを信じると言った。だがその前に、おのれ自身が信念のために奉仕せねばならない。だから君は、世界になに事かを為せる大人になるまで、生き延びるのだぞ」





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