第四章 ‐2
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二月の寒さも、サモス島では穏やかになる。しかしそれでも例年どおり、トーガの下に衣服を五枚も重ねて着ぶくれしているオクタヴィアヌスが見られた。なおも耐えがたいらしく、火鉢の前で、体を丸めてがたがた震えていた。悪いとは思いつつも、ローマでも見慣れたその姿に、ティベリウスはつい心をなごませた。継父がそばにいてくれる安心感に満たされた。
少しでも温めてあげようと、子ども二人は彼の両脇をぴたりと挟んで腰かけた。ティベリウスが『オデュッセイア』を朗読して聞かせていると、オデュッセウスと息子テレマコスが感動の再会を果たす前に、オクタヴィアヌスの静かな寝息が耳に入ってきた。慎重に覗くと、マルケルスも叔父のトーガにくるまって、幸せそうな寝顔を見せていた。ティベリウスは書物を置いた。そして継父の腕にそっと寄り添って、目を閉じた。
冬の海が少しずつ収まりはじめると、春を待ちきれない船がぽつぽつとサモス島を訪れるようになった。東方諸王侯からの使者だった。なにも待つことなく慌ただしい冬を過ごしたオクタヴィアヌスだが、鷹揚に客を迎えた。
アントニウスと女王からの手紙も届いていた。二人はオクタヴィアヌスに宛てて、別々に書いて寄越した。口の軽い書記官タルスがティベリウスに話してくれたところ、アントニウスの手紙は、オクタヴィアヌスとの思い出話で埋まっていたという。手と取り合って国事に励んだこと、一緒に賭け事や女遊びや冒険をしたこと、家族として過ごしたこと。
「『女遊び』のあたりが興味深いでしょ?」
にやにや笑うタルスに、ティベリウスは眉根を寄せて、そっぽを向いた。とにかく、アントニウスはオクタヴィアヌスの情に訴えるつもりらしい。なにを今さらとティベリウスは思う。これまではさんざん、阿呆だのひ弱だの男娼だの独裁者だのと罵ってきたのだ。そのうえ次の手紙では、この期に及んで一騎打ちを要求してきたという。どこの最高司令官が、敗北した敵将と一対一の決戦をするというのか。
「ご主人様は、アントニウスに返事を書くつもりもなさそうで」
タルスはそう言ったが、ティベリウスも、そんな手紙には返事をする必要などないと思った。
一方女王は、手紙だけでなく金品も届けてきたという。その中には王者を表す黄金の冠や杖もあり、オクタヴィアヌスの覇権下に入るという意思を明らかにしていた。
「栄光あるプトレマイオス王家を滅ぼすようなことは、どうかなさらないでいただきたい」
女王の使者は、オクタヴィアヌスにそう嘆願したという。
「世界に唯一遺された、アレクサンドロス大王の国なのですから」
「カエサルはそれにお答えになったのか?」
ティベリウスが訊くと、タルスは気安くうなずいた。
「ええ。直々にお返事をしたためておいででしたよ。なんとお書きになったのかは存じませんが」
オクタヴィアヌスは女王と交渉するようだ。彼はエジプトをどうするつもりなのだろう。女王の処遇は? そしてアントニウスは?
タルスはなにやら物欲しそうな顔をしていたが、ティベリウスは無視した。そのあと、どこか後ろめたい気持ちにとらわれた。これまでも色々な人から話を聞いて状況を理解しようと努めてきたのだが、オクタヴィアヌス専属の書記官から聞いてしまったためだろうか。盗み聞きでもしてしまったように感じた。
そこでティベリウスは、思いきって継父のところへ行った。どういうわけなのか、自分でも驚くほど勇気を振りしぼらなければならなかった。
「子どもが聞いてよい範囲でかまいません」
ともかく、ティベリウスは頼んだ。
「ぼくをカエサルのおそばに置いてくださいませんか? カエサルのお仕事を拝見させてくださいませんか? ぼくはカエサルから学びたいのです」
ティベリウスは一生懸命説明した。すでに王侯たちから使者が送られてきている。各地から嘆願者も来ている。自分はカエサルがどのように東方を治めるか、この目で見て、将来の役に立てたい。会見に同席させていただくのはおこがましいとわかっているが、隣の部屋から少し聞かせていただくだけでいい。元老院議員の子息が、若い頃から議場の外で議事に耳をそばだてるように、自分にも学びの機会を与えてほしい。
オクタヴィアヌスはにっこり笑った。継子の頭をなでて褒めてくれた。
「良い心がけだ、ティベリウス。私はうれしいよ。さすがにいつも聞かせるわけにはいかないし、お前にも負担だろうから、ときどきなら許そう」
ティベリウスの顔がぱっと華やいだ。オクタヴィアヌスはにこにことうなずいた。
「マルケルスと一緒においで」
こうしてティベリウスは、オクタヴィアヌスのそばで学ばせてもらうことになった。マルケルスと一緒に、会見が行われる隣の部屋に待機し、天幕越しに聞き耳を立てた。
聞いたところ東方諸王侯たちは、「世界に唯一遺された、アレクサンドロス大王の国」のために、尽力する気はさらさらなさそうだった。一般の嘆願者たちと同様に、これまでの女王とアントニウスの横暴を口を極めて非難し、ローマへの忠誠をひたすら誓った。そのほとんどが国を挙げてエジプトの軍備と贅沢三昧の暮らしに加わっていたはずなのだが。いつかメッサラが言っていたように、彼らはいつでも強い方の味方につくのだ。それが長きにわたり王に支配され、アレクサンドロス大王という偉大な人物を頂に見た、東方の掟なのだろう。
だがそれだけが、諸王侯がエジプトを見捨てた理由ではない。彼らのほとんどが女王クレオパトラに領地を勝手に奪われ、内心腹を立てていた。収入も減り、財宝も盗られ、どこの国も疲弊していた。
実際にアントニウスと女王の統治ぶりもひどかったようだと、ティベリウスは知らされていった。女王は愛人から国を分け与えられたが、その場所の統治には無関心だった。領有しているだけで満足だったのだろう。富を見せびらかして贅沢しながら、王らしい仕事はなにもしなかった。
「王にとって、贅沢は仕事なのだよ」
教師ネストルが教えた。
「庶民が想像もできないほど豪勢な暮らしをすることで、王は国民との差別化を図る。その姿に、国民は目を見張る。あこがれる。とうとう彼を神のように崇める。そうして王家の権威は安定化する」
「強さ」「贅沢」、これが東方王者の条件なのか。ティベリウスはむくれた顔で聞いていた。「優れた統治」は二の次なのか。アレクサンドロス大王はそうではなかったはずだ。
一方、「強さ」担当のアントニウスのほうは、それなりに統治の責任は感じていたらしい。東方に赴いた当初は、各地の治安維持、パルティアからの防衛、王位継承問題でもめる諸国の調停、市民のための巡回裁判と、やるべき仕事をこなしていた。
女王と会うようになってから、統治がしだいにほったらかしになっていったのは事実のようである。だがそれ以前から、アントニウスは気分屋だった。彼に悪意があったわけではない。むしろ気前の良い、善意の塊だった。彼を楽しませてくれた者には法外なほどの報酬を与え、無礼を働いた者は軽い罰で済ませるか、笑って許すかした。あるときなどはうっかり一年に二度税金を取りかけたことがあったが、過ちを指摘されると素直に謝罪した。
ティベリウスは思った。アントニウスに良識がなかったわけではない。彼は彼なりに統治に尽力したのだろう。しかし父ネロも言っていたように、彼は無分別だった。もっと言えば、迂闊だった。真剣さが一貫しないのだ。日々が楽しければ、統治上の問題など適当にさっさと処理して顧みないのだろう。
彼のそんな性格につけ入って持ち上げるだけ持ち上げた人々の罪も重いと思う。女王はその筆頭だ。だがそんな人々は、世界のどこにでも湧いて出るのだろう。
アントニウスはおべっか使いどもに堕落させられた。だが結局のところ、気まぐれな人々の流れの只中にあって、自分を保つのは自分しかいない。いついかなるときでも、真摯に、一貫して、曇りのない目で物事を見通す。統治者はそうでなければならない。
「叔父上は、アントニウスをどうするつもりなのかな?」
マルケルスがつぶやくように言った。むっつり考え込んでいたティベリウスは不意をつかれた。
「許さないよね、やっぱり…」
マルケルスはそれだけが気がかりでならないのだろう。悲しげな顔で、うつむいていた。
「カエサルに直接お伺いしてみたらどうだね?」
彼の教師が提案したが、マルケルスは首を振った。
「ぼくに口出しする資格はありません。でも、ユルスやアントニアの気持ちを思うと、辛くて……」
諸王侯の使者たちは、主君の王位を認めてくれるよう願った。同じ国から二人以上の使者が来ることもあり、王位継承でもめている証拠だった。彼らのほとんどに、オクタヴィアヌスは明確な承認を与えず、こう答えた。
「春には、シリアのアンティオキアに滞在する予定だ。そこであらためて、ローマの意向を告げよう」
そのあいだに、オクタヴィアヌスはだれが当該の国の王にふさわしいか、調査したのだった。
ある日、ティベリウスがテオドルスと一緒に柱廊を歩いていると、中庭から騒々しい声が聞こえてきた。
「ローマはアレクサンドロスの国をすべて滅ぼす気か!」
そう叫ぶ男が一人、衛兵に押さえつけられていた。
「神々への侮辱だ! 傲慢だ! 西の蛮民ローマ人に、我らの王たる資格なし!」
「黙らんか!」
鈍い音がして、男が殴りつけられたのだとわかった。だが彼はなおもわめき続けた。
「ローマは…あの暴君オクタヴィアヌスは、エジプトを滅ぼすだけでは満足せず、王族を一人残らず殺す気だ! 女王クレオパトラと幼い子どもたち! そんなことが許されるとでも思っているのか! 呪われよ、ガイウス・オクタヴィアヌス!」
「黙れと言っている!」
暴れる男は衛兵たちに引きずられ、どこかへ消えていった。騒ぎのあいだ、ティベリウスはなぜか柱の蔭に、テオドルスの手で押し込まれていた。
「あいつは暗殺者ですか? エジプトから、カエサルを襲いに!」
憤慨し、ティベリウスは中庭を覗こうとした。その頭を、テオドルスは無言で押さえつけていた。
「先生! 離してください!」
「くだらぬ野次馬根性のために、君は敵に姿をさらすつもりか」
テオドルスはそれだけ言った。
ティベリウスはぐいっと顎を上げて教師をにらみつけたが、言葉は発しなかった。騒ぎが収まると、テオドロスはティベリウスの手首を取って、ずんずんと勉強部屋まで歩いた。
「お坊ちゃまはご機嫌斜めのようだな」
扉を閉めると、テオドルスはそっけなく言った。ティベリウスはむくれ顔で机の前に座った。
「女王のずうずうしさに腹が立っているだけです」
「それだけか?」
テオドルスは鼻を鳴らした。
「今朝はハブラコニアから使者が来ていただろう。学びという名目の盗み聞きをしに行かないのか?」
「盗み聞きではありません!」
「給料さえ払ってくれれば、私は君が授業に来なくともかまわんのだがね」
「代わりの時間を作っていただいてでも、ぼくは先生の授業を受けます」
ティベリウスが強情に言うと、教師はやれやれとため息をついた。
「わざわざ蛭に食いつかれに来た我よ、おのが愚蒙を恥じるがいい」
「マルケルスが伏せっているんです」
ティベリウスは苛々と教えた。
「きっとカエサルが無事に戻って、たまっていた疲れが吹き出したんでしょう。そんなにひどくはないけど、少し熱があって、ぐったりしています。しばらくはゆっくり休養しなきゃならないんです」
「それが不機嫌の原因か」
投げつけるように、テオドルスは指摘した。
「友人が一緒でなければ、カエサルの仕事を見学できないことが」
どきっと胸が鳴って、ティベリウスは言葉を失った。
テオドルスは教卓に腕を乗せた。
「カエサルにそう言われたのかね?」
「…言われては、いません……」
「だったら、君の無駄で無用な遠慮だ。さっさと継父の蔭に隠れて、象の耳になるがいい」
「で、でも…」教師の畳みかけに、ティベリウスは否認することを忘れていた。「そんな暇があったら…マルケルスの看病をするように言われそうで……」
「だったらなぜ看病に行かない?」
さらに迫られ、うめく。
「…たいした熱じゃないし…ユバやネストル先生もついているし……」
盛大にため息をつくと、テオドルスはそれ以上なにも言わなくなった。ティベリウスは長いあいだうめき続けていた。
「ぼくは利己主義者ですか? 薄情で、臆病な男ですか?」
「自信がないのか? 自分のやることに」
「…いいえ」
この淡々とした問いで、ティベリウスは少し持ち直した。
「ぼくはマルケルスと一緒にいることが嫌なのではありません」
「わざわざそう言うということは、そろそろ腹に据えかねているようだが、まぁ、置いておこう。しかし君は、少しの熱程度の友人のために、自分の時間を無駄にするつもりもない」
ティベリウスは険しい眼差しでねめ上げたが、教師は平然と見返してきただけだった。
「ぼくは早く、貢献する男になりたい」
「だが、肝心のその貢献したい人物は、いつも君の隣に自分の甥を置こうとする。いや、間違えたな。君の上にだ」
「ぼくはそれでもかまわない!」
大声を上げてから、ティベリウスは机の上に伏せった。
「マルケルスはカエサルの甥だ。それに、マルケルスはいい子だ。がんばり屋で、思いやりがあって、責任感もある。ぼくが役に立ちたいのはカエサルだけじゃないんだ。マルケルスのために、アグリッパのために、家族や祖先や国家ローマのために――」
「そう自分に言い訳しながら、君はこれまでまわりの人間から学ぶという方法をとってきた。それで満を持していよいよ本願に近づいてみたら、案の定な展開が待っていたというわけだ」
ぎゅっと目を閉じて暗闇のなか、ティベリウスは言葉を継げずにいた。ぎりぎりと歯を食いしばって、動けなかった。
「まぁ、悪い方法ではない。君は今のその二段構え戦法を続けるといい。君には執拗さという、生まれつきの忌まわしい気質があるのだからな」
静かにそう話すと、テオドルスはさっさと教卓に筆記具を並べる音を立てた。もう授業に入るつもりのようだ。いく分心が落ち着いてから、ティベリウスはわずかに顔を上げた。テオドルスはなにを話していたのか忘れてしまったような素知らぬ顔で、書物に目を走らせていた。
だが忘れてはいなかった。ティベリウスが姿勢を正すと、テオドルスはややおどけたような驚き顔で、教え子を見た。
「おっと、三段構え戦法だったな。話だけ聞いて自分ではなにも学びもせず、考えもしない愚か者に成り下がってはおらんだろうな? 君はカエサルがどのように東方を治めるか知りたいと申し出たそうだが、よもや東方の歴史も知らず、そのようなことを言っているのではあるまいな?」
「勉強しました」
ティベリウスは言った。別の理由で、またむくれ顔になった。
「東方世界はなにをやっていたのでしょうか。アレクサンドロス大王は史上最大の王国を築き上げたのに、彼の死後、王国は二度と元に戻りませんでした。後継者を名乗る将軍たちが争って、王国は分裂。以後ずっと、かつては一つだった国同士で領土の奪い合い、政略結婚のくり返し、陰謀と裏切りの連鎖……そうしてどの国も衰えていきました」
「ずいぶん偉くなったものだな、他国の歴史を批判するとは」
冷たくそう言われ、ティベリウスはさすがに自分を恥じた。だが実のところそのように見えてならなかったのだ。
東方世界を築き上げた男は、わずか三十三歳でこの世を去った(三二三年)。彼の将軍たちは、大王の弟と幼い息子を王位に据えたが、やがてそれぞれ王を名乗り、後継者の座をめぐって戦った。熾烈な争いのなか、幼い王と家族は十三年後には皆殺しにされ、大王の血統は断絶した。
エジプトでは、将軍プトレマイオスが、現在のクレオパトラ七世に至る王朝の始祖となった。マケドニアではアンティゴノス朝、シリアにはセレウコス朝が創始された。
以後、この三王国はときに争い、ときに同盟しながら、東方世界の核であり続けた。しかし争いがくり返されたためか、三国ともしだいに領土を失い、小国が次々独立するのを妨げられなくなった。
「セレウコス朝の王は、ほとんどが暗殺で命を落としています。でなければ戦死しています」
ティベリウスは強い口調で言った。二十五人ほどいた王の大部分が自然死ではなかった。
「外の敵と戦って死ぬならまだしも、だいたい内にいる敵の手にかかります。部下に殺され、妻や兄弟に殺され、実の息子に殺された王もいます。王自身も、父母や兄弟を殺して王位につくのです。陰謀ばかりです。これが王国というものなのですか?」
「王国嫌いのローマ人らしい言い草だな。確かにシリアは平穏に生きるに適さない場所であることは認める。私もセレウコス朝の支配下の都市で生まれたからな。だが、あの辺りはそもそも統治が困難な場所なのだ。地理上、重要このうえない場所に位置しているから、権力者ならばだれでも欲しがって当然だ。北をアジアに、南はエジプトとアラビアに、西はパルティアに挟まれ、さらに内部には世界一強情なユダヤを抱えている。それら全部の野心と思惑が結集する場所なのだ。王族も陰謀に振りまわされずにはおられぬのだろうな」
「でも、それでは人々は安心して暮らせません。戦争の悲惨がくり返される国で生き続けなればならないのですか」
ティベリウスは去年の戦争を思った。大切な人を失った。失うかもしれない恐怖に耐えながら過ごした。あんな思いを子孫に至るまで味わいながら生きろというのか。
「言っておくが、ここ百五十年ばかりはローマもその陰謀に参戦しているのだからな」
ハンニバルと手を組んだセレウコス朝を撃破して以来、ローマは地中海世界覇者への道を歩き出したのだ。
「参戦ではありません。巻き込まれたんです。東方が争いばかりしているから、ローマが介入せざるを得なかったのです」
「やっていることは同じだろう。ギリシア人の自由独立を掲げ、マケドニアを滅亡に追い込んだ。その後は内紛でじわじわ弱体化するシリアを喜んで見守り、挙句こちらも滅亡させた」
ポンペイウスがセレウコス朝シリアを滅亡に追い込んだのは、およそ三十年前のことだった(前六四)。ティベリウスは教師をにらみ据えた。
「大ポンペイウスは、地中海の海賊を討伐しました」
「そもそもローマがシリアやあちこちに多額の賠償金を科したから、海賊が増えたのだろう。金持ちになったローマ人が奴隷をいくらでも買ってくれるから、奴らも人さらいに熱心になったのだろう」
「東方諸国が、贅沢な暮らしと領土争いにばかり熱心で、統治という当然の義務を果たさなかったからです。大ポンペイウスは、東方世界に平和をもたらしました」
「一時的にな。その後はローマが東方を自分たちの戦争に引っ張り出す時代がやってきた。ポンペイウス対ユリウス・カエサル、ブルートゥスとカッシウス対アントニウスと若カエサル、そしてアントニウス対若カエサル。まったくいい迷惑だな」
ティベリウスは唇を噛んだ。だがテオドルスはいつもこうだ。教え子が意見を言えば、必ずそれと別の意見で仕掛けてくる。退くわけにはいかなかった。おこがましかろうと、それは子どもの特権だ。
「アントニウスと女王が滅茶苦茶にしたけれど、カエサルがこれから東方の秩序を回復してくださいます」
「どうやって? 先程も言ったように、これほど多くの民族を統治するのは、困難を極めるぞ。君に言わせれば、アレクサンドロス大王以来、東方の王のだれ一人として成し得なかった平穏な統治ができるというのか」
「ローマは東方の国々とは違います。ローマは法の国です。王一人の意思で動く王国ではありません。富や権力が一人の人間に集中したり、だれかの思惑一つで侵略戦争をしたりしません。陰謀を野放しにもしません。ローマは世界の皆が守る法律を作ります。すべて元老院と相談して、しっかり法律に基づいて行動するんです」
するとテオドルスの高笑いが轟いた。当惑と不快の目を向けたティベリウスだが、教師はさも愉快そうに腹を押さえていた。
「君は本気で言っているのか?」
彼は知りたがった。
「自分の思惑一つで戦争をはじめたのはだれだった? 神君ユリウス・カエサルその人ではないか? 彼ほど豪快に国法を犯した者が、かつてローマにいたか?」
ティベリウスは言葉を失った。ガリア遠征と、ルビコン渡河、その他諸々。終身独裁官は元老院が与えた地位だが、だれひとり表立って逆らえなかった。そして、暗殺――。
「君はセレウコス王家の悲劇に腹を立てる。東方諸国の騒乱を軽蔑する。だがローマがそうならないとどうして言えるのか? 今やローマは共和政ではない。神君カエサルが、それを破壊した。そして君の継父は、今や名実ともに、養父のただ一人の後継者となった。彼は何歳で執政官になったのだったか? そして今年、何度目の執政官を務めているのだったか? 果たしてそれは、従来ローマの法律で許されていることだったか?」
体が震えはじめた。
「先生は、ローマが王国になるとおっしゃっているのですか? カエサルが、王になると…」
「王という言葉が適切かどうか。だが、ただ一人の絶対権力者という点で同じだろう。カエサルと、東方諸国の王は」
ティベリウスは微笑むオクタヴィアヌスの姿を思い浮かべた。今年でアレクサンドロス大王が死した年齢と同じ、三十三歳だ。軍事的才能に乏しい彼は、大王とは似ても似つかないに違いない。しかし彼は今、大王のそれをしのぐ広大な支配域を手中にしようとしている。
「世界はカエサルのものではありません」
ティベリウスは思わず言っていた。
「国家ローマと、そこに暮らす人々皆のものです。カエサル一人のものだなんて――」
そこで、言葉が途切れた。ひどく重いものにのしかかられたように感じた。胸が詰まって息ができない。
テオドルスは先を続けた。
「君が継父の仕事を見物するなら、確かにこれ以上の見せ物はないだろう。さて彼はどのように東方を統治するか。そしてどのように元老院と市民に向かい合うか。世界をどうするか。養父と同じ目に遭わずにやり遂げられようか」
震えが悪化した。無意識に、すがるような目で教師を見つめていたが、彼は情けをかけなかった。
「すでに君は悩まされているが、その根本はわかっているか? 彼は自分の甥を厚遇している。幼い身を、自分にとって最重要だった戦争に従軍させ、こんな遠くの地まで同行させた。帰国後は、一人娘と結婚させるつもりだろう。もうだれもが気づいている。甥こそがカエサルの後継者だ。つまり、そのことの意味は? 王国と同じ、世襲だよ」
ティベリウスは顔面をまともに強打されたように感じた。難しい顔のテオドルスは、そこでふと教え子から視線を逸らした。
「君も巻き込まれないように注意することだな。君は幸いカエサルの血は引いていないが、どこかの王朝のように、欲にまみれた陰謀とか、王亡き後の一族皆殺しなどにまでつき合いたくないだろう」
「縁起でもないことをおっしゃらないでください!」
吐き出すように怒鳴ってから、ティベリウスは頭を抱えた。髪の毛をむしるようにつかんでいた。
「先生はどうしたらよいとお考えですか? カエサルはどうしたら、殺されませんか?」
「ずいぶん要求水準が下がったような言い方だな。そんなことがわかれば、私は今ごろ君の教師などやっておらず、世界じゅうの権力者から引っ張りだこだろう。だが君も言った。ローマは法の国だと。カエサルはローマ人だ。どこかの女王に惑わされた飲んだくれと違って、そのことを忘れなければ、彼は養父が遺した世界を、だれもが成し得なかった形で継いでゆけるかもしれん」
ティベリウスはテオドルスを凝視していた。教師は静かに吐息をもらし、それから遠く深い色の目で窓の外を見やった。ゆっくりと、つぶやくように言った。
「大事なのは基盤だ。王政、共和政、どのような政体を採るにしろ。これを盤石にするには、時間がかかる。彼はそれに恵まれるだろうか。しかしそうでければ、カエサルの成したこと、今後成すこと、すべて無に帰すだろう」
「叔父上…」
授業を終えて部屋まで戻ってくると、マルケルスの声が漏れてきた。ティベリウスは足を止めた。扉が開いていて、寝台に横たわるマルケルスと、その傍らに座って、こちらに背を向けているオクタヴィアヌスが見えた。
「ごめんなさい…」
「どうして謝る?」
オクタヴィアヌスは甥の額に接吻した。
「体調が優れないときは、ゆっくり休む。当たり前のことだ。だれかに気兼ねする必要などない」
なぐさめられても、マルケルスはまだ悲しげな顔をしていた。自分自身に不満を抱いているようだ。
「ぼくは叔父上を困らせてばっかり…」
「そんなことはない」
オクタヴィアヌスの手が、ねぎらうように甥の頭を撫でていた。
「お前は十分すぎるほどがんばっている。困らせているのは私のほうだ。母親から離して、辛い思いばかりさせて」
「でも…ティベリウスは元気なのに……」
「ティベリウスは信じられないくらい丈夫だからな」
オクタヴィアヌスは笑いまじりに言った。苦笑のようにも聞こえた。確かにティベリウスは、従軍以来、一度も自分の調子を乱したことがなかった。去年七月の襲撃直後を別とすればだが。そして、そのような自分を見せたつもりもなかった。
「私もときどきうらやましくなる。病気知らずのあの子には、なかなかお前や私の気持ちはわからないだろうな。だがティベリウスにはティベリウスの、お前にはお前の恵まれたところがある」
オクタヴィアヌスは甥をそっと抱き込んだ。
「だからティベリウスと比べて落ち込むことなどないんだ。お前は自分の体を過信せず、大事にしておくれ。お前に万一のことがあったら、私は姉上に顔向けできない。悪い夫を与えたうえに息子を守れなければ、世界一残酷な弟になってしまうよ、愛しいマルケルス」
これぞ盗み聞きだ。盗み見だ。そう思ったティベリウスは、二人に気づかれる前に立ち去ろうとした。どこへ行くあてもなかったが、逃げるように踵を返した。
「…あの、叔父上……」
それを追いかけるように、マルケルスの声が届いた。
「ん?」
「その…悪い夫のことなのですが…、叔父上のところへ、アントニウスから手紙が来ていると聞きました。叔父上は、これからアントニウスをどうされるおつもりなのですか?」
壁の横で、ティベリウスは思わず静止した。突然の質問に驚いているのか、オクタヴィアヌスの応答は聞こえてこなかった。
「ごめんなさい。出過ぎたことを訊いて」
マルケルスはすぐに謝った。
「でも…どうしても気がかりで……」
「アントニウスがかわいそうか?」
叔父の声は優しかった。
「…いいえ。そんなふうには思いません。だって彼は、まだ自分がやったことを反省していないんだもの。未だに女王にくっついて、だらしない無駄遣いをして、叔父上やローマ市民のみんなに迷惑かけて…。だからぼくは、叔父上が彼にどのような決断を下されようと、しかたがないことだと思っています」
マルケルスは怒ったように話したが、しだいに声色が湿っぽくなっていった。うめき声も漏れてきた。
「正直、アントニウスがどうなるのが良いのか、わからないんです。家族のために生きていてほしいという気持ちもあるし、見苦しい姿をさらしてほしくないという気持ちもあります」
「マルケルス」
制止するように、オクタヴィアヌスの声が入った。
「お前が彼のために思い詰める必要はない。アントニウスをどうするか、それは彼自身が決めることだ。我々がエジプトに行くまで、彼には十分時間が与えられている。これ以上、お前たちやローマ人に恥ずかしい思いをさせなければ、私としても彼の決断を尊重したいと思っている」
虚空を見つめ、ティベリウスは考え込んだ。
叔父の胸に顔をうずめているのか、くぐもった声でマルケルスは言った。
「ぼくをエジプトへ連れていってください、叔父上。ローマ人のアントニウスがほんの少しでも残っているのか、この目で確かめたい」
翌日の午後は、アグリッパの指導の下、剣の稽古に夢中になった。冬営期間なので、軍事で忙しいアグリッパも、いつもより時間に余裕があった。ティベリウスはアグリッパとレントゥルスに、交代で相手を務めてもらった。
「レントゥルス、手を抜くな!」
ティベリウスは木剣を突き出して言った。レントゥルスは困ったように眉尻を下げた。
「だって、当てたら痛いでしょ。ティベリウスがかわいそうだよ~」
「ぼくは大丈夫だから! 油断してると、五歳も年下のぼくに一本取られるぞ」
「それでもいいよ」
「良くない!」
ティベリウスは飛び跳ねた。
ピソも認めないではなかったが、レントゥルスはそこそこ腕が立つ。ただ生来気が優しく、のんびり屋で、おまけにぼんやりしがちなので、あまり実力を発揮することがない。
「このまま戦場に立つ気?」
ティベリウスは説教をはじめた。
「ぼやっとしてたら命を失うぞ! ピソから戦場の恐ろしさを聞かなかったのか?」
「聞いた。怖い。戦争なんかなくなればいいのに。みんな仲良く暮らせればいいのに」
「レントゥルスってば!」
それはそのとおりなのだが、国家防衛のためには、そんなことを言っていてもはじまらないと思った。しかしレントゥルスは穏和に微笑んだ。
「ぼくは将来、雄弁家として名をあげようと思うんだ。キケロみたいに、武器でなく、言葉でローマを守りたいなって」
ティベリウスは沈黙した。確かにレントゥルスは性格的に戦場に向かないのかもしれない。しかしだからといって計算し尽くされた巧妙な話術を駆使したり、あるいは舌鋒鋭く他者を告発したりする彼というのも想像できなかった。
友の心中を知ってか知らずか、レントゥルスはふにゃっと笑みを大きくした。
「ぼくはできれば戦いたくないし、友だちのだれにも戦争になんか行ってほしくないよ」
「それでも、ぼくは行くからな!」
「じゃあ、ぼくも行くよ」
「もうっ! だったら真面目に稽古つけて!」
「わかったよ」
アグリッパはそんなやり取りをする少年二人を、微笑ましげに見守っていた。それでも結局レントゥルスから一本も取れず、地団太踏むばかりのティベリウスを、肩を叩いてなだめた。元々十一歳で剣術を習うのは早すぎるのだから、と。
「ぼくは十七歳までに、レントゥルスなんか相手にならないくらい強くなってやる」
日が暮れると、三人はそろって湯船につかり、汗を流した。そのころには、ティベリウスの悔しい気持ちもだいぶ静まっていた。そのあとは一人で自室に向かった。これから夕食を挟んで、読書の時間だ。明日のテオドルスの授業のために、予習もするつもりでいた。
「ティベリウス」
呼ばれて振り返った瞬間、背筋が凍るような嫌な予感を覚えた。オクタヴィアヌスが、あの感情の見えない冷淡な目をして立っていた。
「はい…?」
「ちょっと来なさい」
言われるまま、ティベリウスは継父と柱廊の階段に腰かけた。継父はティベリウスに横顔を向けたまま、灰色の醒めた瞳だけを向けてきた。
「今日もテオドルスの授業を受けたそうだな」
継父は口を開いた。
「いつまで彼のもとにいる気だ? もう彼はお前の教師ではないはずだが」
ティベリウスはぎょっとした。
「で、でも…テオドルス先生はずっとぼくに勉強を――」
「だが契約は一昨年で切れたはずだぞ。それなのにあの人は、勝手にお前のところに押しかけてきて、金のために授業をしているのだろう?」
「ち――」
違います、と否定したかったが、だれよりそれを否定しなかったのは、テオドルス本人だった。継父は首を振った。
「今のお前の教師はネストルだ」
彼は断言した。
「どうして彼のところへ行かない? 私が与える教師では不満か?」
「そんな――」
言葉が出て来ず、ティベリウスは激しく首を振るしかなかった。実際、ネストルに不満はなかった。彼は素晴らしい教師だと思うし、尊敬もできた。
だがティベリウスのなかでは、あくまでネストルはマルケルスの教師なのだ。
「ならばもう、テオドルスのもとへ通うのはやめなさい」
オクタヴィアヌスは無情に言いつけた。
「彼がお前に良い影響を与えているとは思えない。優れた学識の持ち主であることは認めるが、私には彼が陰険で、皮肉屋で、お前に偏った考えを吹き込んでいるように思える。幼いお前には不要なほど難解なことを教えているようにも見える。第一、彼はお前を愛するそぶりも見せないじゃないか。どうしてお前がまだ彼のもとへ行くのか、私には理解できない。ネストルをないがしろにして」
聞きながら、ティベリウスは自分でも驚く衝動にかられていた。授業を受けることを非難されたのは、衝撃だった。継父の不信を聞いたときは、これまでテオドルスから熱心に学んできた、自分自身を否定されたように感じた。そして今この瞬間は、腹の底から湧き上がる憤激を必死で抑え込んでいた。継父にわめき散らしたいと思った。
いったいオクタヴィアヌスに、自分の教育を縛る権利があるのか。学びの内容に口出しする権利があるのか。子どもとして学ぶ基礎的なことは、きっちりこなしている自信があった。それ以上はだれからなにを学ぼうと、他者にとやかく言われることではない。
なるほど確かに、オクタヴィアヌスは後見人だ。成人するまでは、家父長だ。子どもを立派に育てるために監督する義務があるし、教育内容を決める権利もある。
だが、テオドルスを家庭教師に決めたのは、父ネロだった。その契約が切れたのは本当だが、今テオドルスはプロレウスから授業料を受け取ってここへ来ている。ネロ家の財産も、今はオクタヴィアヌスの管理下なのだから、彼の考えではプロレウスは家父長代理の意思に反して金を使ったことになるのだろう。だが、あくまで支払われているのはネロ家の財産であって、カエサル家の財産ではない。文句を言われる筋合いはない。
オクタヴィアヌスになにがわかると言うのか。自分とテオドルスが過ごした時間の、なにを理解できるというのか。
継父はなにもわかっていない。去年、故郷ローマへ船出した彼に置き去りにされ、子どもたちがどれほど辛い思いをしたか。毎日不安に苛まれた。起きていることも、眠ることも恐ろしかった。耐えきれずに、マルケルスは高熱を出して倒れた。もしあの時テオドルスが来てくれなければ、自分もどうなっていたかわからない。
以前からなんとなく感じられた。どうしてオクタヴィアヌスはこれほどテオドルスを嫌うのだろう。彼の教師アポロドロスと学派が対立しているからか。そんな個人的反感から、継子に出入り禁止を命じているのか。それとも学派の違う家庭教師を用意した、父ネロに対する反感なのか。
怒りは、しだいに重苦しい悲しみに変わっていった。そんなティベリウスの沈黙を、オクタヴィアヌスは従順ととったようだ。
「ネストルの授業に戻るように。わかったな?」
そう言って、さっさと立ち上がったのである。ティベリウスははっとあわてて継父のトーガをつかんだ。びっくりしたらしいオクタヴィアヌスは、顔をしかめて継子を見下ろした。
「カエサル…」
うつむき、うめきながら懇願した。悲しくて悔しくて、どうしようもなかった。
「テオドルス先生は、まもなくロードス島へ行かれます。どうかそれまで、あとほんのわずかのあいだです、先生のところへ通わせてください。そのあとはすぐ、ネストル先生の授業に戻ります」
継父は長々とため息をついた。そしてトーガからティベリウスの手を払いのけると、苛立たしげに首を振りながら、列柱廊の奥へ去っていった。




