第四章 エジプト ‐1
第四章 エジプト
1
(前三〇年)
太陽は西からやって来た。けれどもサモス島の港は東方に開けていたので、やはり東から昇った。一月初旬、ついに船が地平線上に現れた。
真冬の冬の海をものともしなかった。ほんの二隻の船を従えて、オクタヴィアヌスは無事帰還した。
マルケルスは桟橋の先端で爪先立ちになっていた。すぐ後ろにはティベリウスもいた。オクタヴィアヌスがいよいよ下船すると、マルケルスは言葉を発する間さえ惜しんで突進した。わっしと叔父にしがみつき、岩場のヒトデのように離れなくなった。
「心配かけたな」
叔父は微笑みながら、マルケルスをさすった。少し足元がおぼつかなくなりながら、ティベリウスは継父を凝視していた。驚くべき速さの帰還だった。荒れる地中海へ船出してから二ヶ月と経っていない。そのあいだ、サモス島へはオクタヴィアヌスの消息を知らせる連絡船さえろくに来なかったのだが、それは行き来する時間さえ存在しなかったためだった。オクタヴィアヌスは本当に大急ぎで戻ってきたのだ。
それでもやはり大変危険な航海だったという。ブリンディジへの往路、オクタヴィアヌス一行は二度も難破した。二度目のときはオクタヴィアヌスの乗る船までが櫂をもぎ取られ、舵を木端微塵にされたという。無事に目的地にたどり着いたのは、ほんの数隻だった。
ティベリウスもマルケルスも背筋が凍りつく思いがした。それでも彼らの保護者は、なんとか無事に帰ってきてくれた。
その右腕もだ。ティベリウスの肩を抱いて屋敷に入りながら、アグリッパは申し訳なかったと詫びた。ブリンディジの暴動騒ぎは、自分の手には余る事態だったが、カエサルの器量のおかげで無事決着した、と話した。アグリッパによると、オクタヴィアヌスの接近を知るや、騒ぎを起こした軍団兵たちはたちまち鎮静化したという。首都に残ったほぼすべての元老院議員が、彼を出迎えた。そのまま凱旋式をはじめかねないほどの祝福の嵐だった。
ところが軍団兵たちの要求を調整するには、オクタヴィアヌスも骨を折った。報酬を工面するため、まず有り金すべてを支払った。それから本国内の土地を与え、足りなければギリシアの土地で交渉した。だがそれでも足りなかったので、ついにオクタヴィアヌスとアグリッパとマエケナスの三人は自分の所有物を競売にかけた。ブリンディジの広場には、彼らの家財が運び込まれた。
だが自宅の家具類まで売りに出す凱旋将軍を見て、さすがに気が引けたのだろう。だれ一人買おうとしなかった。オクタヴィアヌスとアグリッパの家財がその辺の市民と大差ないものばかりだったことが、さらに哀しさを煽った。結局軍団兵たちは、エジプトの戦利品を待つという条件を呑むことにしたのだった。
ティベリウスはあ然とした。最高司令官にそこまでやらせるのか。継父とアグリッパは、丸裸になったも同然だった。
そうして二十七日間をブリンディジで過ごしたあと、オクタヴィアヌスとアグリッパはすぐさま東方にとって返した。帰りはペロポネソス半島をまわらず、コリント湾を突っ切って地峡で船を捨て、ピレウスで別の船に乗り換えて戻ってきたという。
ともかく、ほっとした。子ども二人は、保護者に置き去りにされた心細さから解放された。未知の東方世界から突然だれかが攻めてくるかもしれないという恐怖感もぬぐわれた。
そして、新たな友も現れた。
「やっほーっ! ティベリウス、マルケルス、元気だった? 元気だった? 会いたかったよ。会いたかったよ。レントゥルスお兄さんの登場だよ~っ」
今年十七歳になるコルネリウス・レントゥルスが、五歳年下の後輩二人を抱きしめて喜んでいた。彼の首越しに、ティベリウスとマルケルスは複雑な視線を交わした。
ピソからの嘆きの手紙が、一緒に到着していた。当然のことだった。この一年を神々が無きものにしてくださりはしないか。ピソはそう書き出していた。なんでぼくが帰国し、君たち二人が未だ残り、挙句にレントゥルスまでが出陣なのか。世界の秩序はどうなってしまったのか――手紙は悲憤慨嘆であふれていた。
『レントゥルスのことだ。船に乗れば空飛ぶカモメを見上げたまま海に転落し、しかもだれにも気づかれないだろう。地上を行軍すれば、ナイル川とユーフラテス川を勘違いして、エジプトではなくパルティアに独りで入るだろう。ぼくはどうしたらいいのか? とりあえずあいつの兜飾りを幸運の女神の神殿で清めたあと、緑と白の縞模様にして目印をつけてやった。かえって目立つ恐れがあることは重々承知だが、ほかの連中も金やら銀やら派手に飾っているので大丈夫だろう。このシマシマを見つけたら、首輪をはめてもいい、くれぐれも前線にしゃしゃり出たり、ふらふらどこかへ行ったりしないように、注意してやってくれ。ぼくからもあいつに、戦闘よりも君たちを守るほうに力を注ぐよう、言っておくから』
友人にそこまで心配されていることをどこまで自覚しているのか、レントゥルスは相変わらず、色々なことがどうでもよくなるようなふにゃっとした笑顔でいた。見ていると、まだ戦争が続いていることなど忘れてしまいそうだった。
ティベリウスもつられてふにゃっと笑った。そんなレントゥルスは、彼が一番心を許している友人だ。
「ピソが君を心配していた」
彼はティベリウスの耳にそっとささやいた。
こうしてようやく新しい年を迎えられる心地になった。本年度執政官にはオクタヴィアヌスが前年に引き続き就任し、同僚はリキニウス・クラッススとなった。
オクタヴィアヌスが帰還したその日は、久しぶりに温かい夕食を食べた心地がした。夕食後、彼は卓上に本国から持ち帰ったおみやげを山と積んだ。マルケルスが母や妹たちからの贈り物に埋もれていると、継父が突然ティベリウスを抱き寄せ、接吻した。しばらくなかったことなので、ティベリウスはびっくりした。
「リヴィアに会った」
継父はささやいた。
「ドルーススにも。二人ともブリンディジまで出てきたんだ。お前がいなくて、ドルーススはとても残念がっていた」
弟の名前を聞いた瞬間、鼻の奥がつんとした。継父はさらに強くティベリウスを抱き、頬を合わせた。
「それで、お前に申し訳なくなった。お前には長いあいだ寂しい思いばかりさせて、私だけ家族と会ってきたのだから。誕生日さえ一緒に過ごしてやれずに…。ドルーススは元気だったよ。背も伸びてた。お前の話をしきりに聞きたがってな。それで帰るときには、隙あらば私の船に乗り込もうとして、大変だったな」
ティベリウスは笑おうとした。けれども上手くいかず、結局継父のトーガに顔をうずめて隠した。その頭から背中を、オクタヴィアヌスの手が優しく撫でていた。
「お前には予想以上の苦労をかけたと思う。色々あったが、これまでお前はよくやってくれた。マルケルスもお前と一緒で心強かったし、私もあの子を安心して任せられた。お前だからだよ」
体の芯から熱が湧きあがる感覚がした。またたく間に全身にみなぎっていった。
「ティベリウス、もうしばらくのあいだ、がんばってくれるか? 私と、マルケルスのために」
トーガのなかで、ティベリウスは大きくうなずいた。オクタヴィアヌスが見ていてくれるなら、いくらでもがんばれる気がした。継父はもう一度、小さな頭に接吻を落とした。
「今年じゅうに、必ずお前を家族と再会させると約束する。でももう昨年ほど気を張りつめる必要はないよ。私も以前よりは時間を持てるはずだから、もっと頼ってくれていいんだ」
ティベリウスは覚悟を固めた。今年一年も、オクタヴィアヌスのあとをついて歩く。世界のあらゆるものを見て、学び続ける。辛いことからも目を背けたりしない。立派に国家を担う男になるために。
ティベリウスにも母たちから、新しいマントをはじめ、たくさんの贈り物が届いていたが、感傷的にならないように努めた。
それでもドルーススのつたない手紙には、思わず頬をゆるめてしまう。別れてから何度も手紙のやり取りはしていたが、ここしばらくは距離が離れ、海も荒れているせいで、届く回数が減っていた。新しい手紙で、ドルーススはまずいつまでも帰ってこない兄に文句を垂れていた。それから、家にある兄の石像と同じくらい自分の背丈が伸びたと自慢した。これはオクタヴィアヌスの話からするに誇張だが、それでも好き嫌いせずになんでも食べ、勉強もがんばり、母の言うことも聞いて『おりこうに』過ごしているという。これは本当であるらしい。
それからいつものように妹のアントニアに対する『よいあにうえ』自慢がはじまるのだが、このときの手紙には、一つ変わった話題が見られた。
『さいきん、へんなヤツが家のまわりをうろうろしています。そいつがよく、あにうえのモノマネをしてくれます。キンパツで、タレ目で、ぜんぜんあにうえと似てないのに、とってもそっくりです。ぼくはとっても笑います。いちばんおもしろいのが、首をかしげてしかめ面で歩くけど、実はヴィプサーニアがかわいいのでごきげんなあにうえ、です』
ティベリウスは顔を上げた。こんなことをするやつは――ティベリウスの知り合いで、ドルーススは知らなくて、まったくふざけたことをしそうな男は――一人しか思いつかなかった。
たぶんルキリウスは、ティベリウスに頼まれたとおり、ユルスを見守っていたのだろう。それをついにドルーススに見つけられたらしい。もしかしたら、兄に会いたくて泣いていたドルーススをなぐさめてくれたのかもしれない。
ティベリウスはドルーススへ返事を書いてから、その『へんなヤツ』宛の手紙も一緒にくくって送ってもらった。ルキリウスの家に手紙を送る方法を知らなかったからだ。
『弟の面倒も見てくれているようで、感謝する。覚えておくからな、色々と。とにかくこちらのほうは元気でやっている。マルケルスも。お前がいつだか話していたエーゲ海のイルカを、一緒に見た。エジプトのことは今年じゅうに決着する見通しなので、それから帰る。ユルスのことを、引き続きよろしく頼む』
ところでアントニウスと女王は、オクタヴィアヌスの旅立ちと帰還を同時に知ったらしい。彼らは追撃者が留守にしていたなどとは思いもしなかった。オクタヴィアヌスも知られないように急いで片づけてきたのだ。おかげで、東方のどこにも少しの動揺も起こらなかった。
オクタヴィアヌスが地中海を忙しく往復するあいだ、エジプトではなにが起こっていたのか。
女王は、とんでもない一大計画に着手していた。金銀財宝を満載した艦隊を地中海に浮かべ、エジプトとアジアを分ける地峡に陸揚げし、砂漠を牽引して紅海に入るというのだ。そうして外海をインドまで逃亡するつもりでいた。彼女は本気だったようだが、結局アラビアのナバテア人にになにもかも台無しにされた。彼らはアントニウスを通じて女王に領土を奪われたことを恨みに思っていたのだ。艦隊は焼き払われ、女王は国家丸ごとと言うべき大逃亡をあきらめざるをえなかった。そこへ追い打ちをかけるように、アクティウムの陸軍司令官カニディウスが、着の身着のまま一兵も従えず戻ってきた。これで遅ればせながらギリシアに置き去りにした陸軍の喪失も知らされ、女王は絶望を感じたことだろう。だが金をばらまいて可能なかぎり兵を集める傍ら、今度は恐るべき実験をはじめた。
王立研究所ムセイオンを擁するエジプトは、医学においても世界最先端を行く。とくに薬に関しては、世界のどこよりも広く深く知りつくしている。それはギリシア人研究者の功績もさることながら、プトレマイオス王朝がはじまるはるか昔、ファラオの時代から行われてきた研究の積み重ねに寄るところも大きい。世界じゅうのありとあらゆる薬草をそろえ、調合し、いかなる効能も自在に発揮させる。世界から魔術と称されるほど、その研究は他の追随を許さない。エジプト王家は、その神秘の成果をすべて握っているのだ。
薬を知ることは、つまり毒を知ることである。女王は自国の研究成果を試すことにした。死刑囚を連れて来させ、一人一人に異なる毒薬を飲ませ、どのように死んでいくか、目の前で確かめているという。
この話を、ティベリウスたちは密偵に赴いていた解放奴隷から聞いた。
「なんてひどいの」
怒りで身震いを抑えこむように、マルケルスはうめいた。
「死刑囚っていったって、毒実験をしたい女王が勝手に決めた人たちじゃないの? なん人も苦しんで死んでいくのを平気で見てるなんて、女王はやっぱり悪い魔女だ」
「実験の結果、即効性の毒は苦痛で死に方がひどく、柔な毒は時間がかかるってことを発見したらしいですぜ」
その解放奴隷ケラドゥスは教えた。その様子を想像したのだろう。マルケルスはティベリウスの腕に指を食い込ませた。
ティベリウスも嫌悪感を隠せなかった。戯れに残酷な方法で人命を奪う者の気が知れなかった。そんなに人の死が見たいなら、自ら武装して戦場の最前線に立てばいいのだ。苦い顔で、ケラドゥスに尋ねた。
「なんのために女王はそんな実験をする?」
「さぁ」ケラドゥスは肩をすくめた。「いざってときの自殺用ですかね。一国の王様は、いつでもそのテの備えをしておくもんだって聞いてます。なんでも女王は、アスプとかいう蛇の毒が一番苦痛なく死ねて、しかも効果が早いって気づいて、満足したそうですぜ。穏やかに、まるで眠るように綺麗にあの世に逝けるんだとか」
ケラドゥスも、その目で毒実験の現場を見たわけではないらしい。
「もしくはアントニウスを殺すためなのかも。あの人を差し出せば、カエサルが許してくれるって考えて」
「最低だ!」
マルケルスは叫んだ。
「さんざん利用するだけ利用して、祖国と戦争までさせておいて、負けたとたんに捨てる! いったいだれのために、アントニウスがこんなになったと思ってるの! 非道にもほどがあるよ!」
「まぁまぁ、まだそうと決まったわけじゃないから」
レントゥルスがなだめに入った。
「きっと王宮殿には、蛇がうねうねいっぱい暮らしてるんだろうねぇ。見るのが楽しみなような、ちょっと怖いような…」
そう震えてみせる彼の傍らで、ティベリウスはじっと考え込んでいた。大逃亡計画や兵集めなど、ほかの情報も考慮すれば、女王はまだ全然あきらめていないように見えた。自殺は選択肢の一つだろうが、それでも生き残るために、これからもあらゆる手を尽くすだろう。だからもしかしたら――。
ティベリウスはすぐさま継父のもとへ行った。女王が毒を送りつけてくるかもしれないので、どうか気をつけてほしいと頼んだ。今や刺客による暗殺こそ形勢逆転の唯一の策と考えてもおかしくはない。オクタヴィアヌスは笑いながら、継子を安心させた。私はいつでも信用できる者しかそばに置いていないから、心配無用だと話した。それから、このことはマルケルスには黙っているようにと言い、ティベリウスもうなずいた。だから一人で来たのだ。
女王が色々と策をめぐらす一方、アントニウスのほうは、相変わらず無気力な引きこもり状態を続けていた。それでも女王の熱意に引っ張り出されたのか、昨年末には王宮に戻ってきたという。そしてなにをしたかといえば、アクティウムの直前まで行っていた日ごとの宴会を、さらに破滅的にした。残る友人たちと『死をともにする会』なるものを結成し、連日乱痴気騒ぎをくり広げているという。
ティベリウスは呆れ果てた。要するに、死ぬまで一緒に飲み明かす会なのだ。アントニウスはもはやすべてをあきらめている様子だった。それならそれで良いにしても、だからといってオクタヴィアヌスがやってくるまで享楽にふけりまくり、友人ともども現実逃避を続ける気なのか。それがローマ将軍のあるべき姿なのか。
「だから負けたのに、彼はなに一つ変わっていない」
メッサラは頭を抱えて嘆いていた。
自暴自棄にしか思えないが、そんなアントニウスを元気づけたかったのだろう。女王は嘆くどころか、その乱痴気騒ぎに積極的に加わっているようだ。そのうえで、今年十七歳を迎える長男カエサリオン、そしてアントニウスの長男アンテュルスを成人させ、市民にお披露目したという。
真冬の海を必死で往復したオクタヴィアヌスのことを知ったのは、そんなときだった。
そのような情報が入っていたので、オクタヴィアヌスは今年の追撃行を急いではいなかった。それよりも、アントニウスと女王が失脚して後の東方世界に秩序を回復する仕事を優先するつもりのようだ。
もう昨年ほど気を張りつめる必要はない。オクタヴィアヌスはティベリウスにそう言った。大きな戦争は終わって、あとは上手く幕引きをするだけということだ。昨年アグリッパが言ったように、もうそれほど血が流れずに済むのだろうか。
ティベリウスもそうなることを願った。




