第四章 ‐4
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四月の海はすっかり穏やかで、オクタヴィアヌスの艦隊は滑るように進んだ。左手にアジアを望みながら、地中海の東端へ入り込んでいった。
ティベリウスは長い時間、ゆっくり過ぎゆくアジアを眺めて過ごした。ロードス島が見えなくなってからずっとこの調子だった。
キュノドス川まで来た。ここを遡れば、キリキア属州の州都タルソスである。ユバは産卵に向かうヤツメウナギのように激しい川登りをはじめそうだった。タルソスもまた、学問と文化の都として知られているのである。マルケルスの教師ネストルの故郷でもあったので、ご高名はかねがねといったところだ。
残念ながらいつものごとく、オクタヴィアヌスは寄り道をしないつもりだった。それでもタルソスから訪ねてきたアテノドロスという学者には会った。
アテノドロスは、現在タルソスではびこっている悪徳について知らせた。なんでもポエトスという無頼漢の一味が、善良な市民から搾取して好き放題しているという。ポエトスに市の財布を握らせたのは、アントニウスだった。ポエトスはあれこれ調子の良い言葉を並べて、たちまち彼のご機嫌を取り結んでしまった。以来だれもポエトスに逆らえない状況だという。
オクタヴィアヌスは、アテノドロスに市を統括する権限を与えた。公式の勅令で、ローマが認める指導者だと知らしめたのだ。その武器を携え、アテノドロスは老齢ながら意気軒昂に、ポエトス一味との戦いに向かっていった。
ティベリウスは、キュノドス川の先に消えていく一行を無言で見送った。
ぽんっと背中を叩かれた。
「また一つ、カエサルは統治者としての仕事をなされたね」
見上げると、メッサラがいた。微笑んでいたが、目の色はやけに注意深かった。
「ところでこの辺りは、君のお父上にもご縁がある場所だったね」
ティベリウスはこくりとうなずき、またアジアの山並みに目線を戻した。
タルソスには父ネロも訪れていた。トゥッリアとの結婚を求めて、その父であるキリキア総督キケロと面会した。その数年後には、そのキケロらポンペイウス派を破った神君カエサルの幕僚の一人として、戻った。
自分は今、父が見た景色を見ているのだろう。
キュノドス川が遠ざかった。
四月のドルーススの誕生日、ティベリウスはアンティオキアを初めて目にした。ローマ艦隊は、イッソス湾という行き止まりを見たあと、航路を南に変え、オロンテス川を遡った。シルピオス山から階段状に、都市アンティオキアは広がっていた。長くセレウコス朝の王都であり、今はローマのシリア属州の州都である。規模はローマ、アレクサンドリアに次いで、世界第三位となる。ここには世界のあらゆる文化が結集している。ギリシア、ペルシア、アラビア、エジプト、エチオピア、インド、バクトリア、そしてその向こうにある未知の世界の文化。そしてそれらの産物が一堂に会す。ローマにとっては、大国パルティアやなにかと不安定な東方諸国ににらみをきかせる、最重要の前線基地だ。
長く軍事拠点であり続けたため、頑強な兵舎が完備されていた。ローマ軍一行はそこへ向かった。
メッサラ以外のローマ人全員がそうだったが、ティベリウスはあちこち忙しく首を動かしながら、大通りを進んだ。とても幅広く、整備が行き届いた道だった。脇に避けた人々は、人種さまざま。市門から突き当たりの兵舎まで密集して、ローマ軍を見物していた。
ついついロードスと比較してしまうティベリウスがいた。同じようにきちんと区画整備されているが、やはりアンティオキアのほうが一つ一つの規模が大きい。それなのにロードスでは感じなかった圧迫感を覚えてしまうのは、人口が格段に多いからか。活気はありそうだが、ごみごみとした印象もぬぐえなかった。セレウコス朝の王が治めていた頃は宮殿もあったのだし、豪華に飾られていたに違いない。だが芸術面より、実用面を重視されてきたのは確かなようだ。大軍隊が行進して少しも不都合のない大通りは、普段は世界じゅうの人間でごった返すのだろうが、どこか殺風景だった。
ロードスのように心を潤す芸術があれば、きっと世界に名立たる通りになるのに。ティベリウスはぼんやり思った。
オクタヴィアヌスは、この地で本格的に東方秩序の再建に取り組むことに決めていた。来月いっぱいは滞在する予定のようだ。
その日、ティベリウスとマルケルスは地元の子どもたちと一緒にボール遊びをしていた。アンティオキアに来て一週間が過ぎ、生活が落ち着いてきたところだった。兵舎の裏手で、二人は覚えたてのギリシア語をためしながら、幼いシリア人たちと体を動かした。
しばらくして、裏門からユバが戻ってきた。彼もまた、市の有名な図書館に出かけて、地元の学者と親交を深めてきたのだ。ティベリウスたちは、そろそろ今日の交流を終える時間だと知った。
子どもたちの住む地区は、正門を出てすぐだった。奴隷たちが家まで送り届けると言ったが、ティベリウスとマルケルスも正門まで行って見送ることにした。
七人の子どもが一斉に駆け出した。正門までの競走だ。わぁわぁ陽気な声を上げながら、七人が兵舎の角を曲がった。たまたま反対側を歩いてきた軍団兵が、びっくりして飛びのいた。そのすぐあとに、わたわたと後を追いかける奴隷たちが続き、軍団兵は竜巻に呑まれたように、ぐるぐる体をまわしていた。
マルケルスが先頭だった。ティベリウスがすぐ後ろに続いた。次の角を曲がれば正面広場で、あとは正門までまっしぐらだ。
ところが角を曲がった瞬間、マルケルスが突然止まった。ティベリウスは驚き、なんとか彼のすぐ横で停止した。その後ろから、地元の子ども五人が次から次へとぶつかってきた。
「どしたの?」「まだ門じゃないよ?」
二人の背中に乗りかかったまま、子どもたちは口々に尋ねた。ティベリウスも目をしばたたいて、マルケルスを見た。
マルケルスは顔面蒼白だった。
「…?」
ティベリウスは、裂けんばかりに開かれたマルケルスの目を覗き、その見つめる先をたどった。
正面広場を、五人の男が横切っていた。四人が真ん中の一人を囲むようにして、正門へ向かっている。身なりからして、四人が奴隷で、真ん中の男が主人なのだろう。彼だけが艶やかな灰色のトーガを纏っていた。胸元には首飾りなのか、黄金のきらめきがある。
ふと、その男が足を止めた。彼が振り向いたとき、ティベリウスもまた真っ青になった。
忘れるはずもないあの両眼が、二人をひたと捉えていた。
「兄様……」
マルケルスの震え声が漏れた。
五年ぶりの再会だった。マルクス・アントニウス・アンテュルスは、精悍な若者に変わっていた。今年で十五歳になるはずだ。トーガを身に着けているということは、父の下で成人式を終えた証だ。体の線にはまだ少年らしい細さが残るものの、父譲りの健康でたくましい肉体を手に入れつつあり、まるで見違えていた。
だが、その眼差しだけは変わっていなかった。突き刺すような両眼で、彼はただちに二人を認識したに違いない。形相が、たちまち歪んだ。眉が絶壁のように釣り上がり、頬肉が波打った。歯茎が剥き出しで、噛みしめられた歯間からうなり声が聞こえてくるようだった。そして血走った目には昔と相変わらぬ、いや、さらに激しい憎悪を煮えたぎらせ、かつてともに暮らした兄弟をにらんでいる。
マルケルスの膝が震えていた。蛇に見込まれた蛙同然だった。
アンテュルスが一歩、前進してきた。
マルケルスは一歩下がった。
すると奴隷たちが、素早く子ども二人の前に立ちはだかった。アンテュルスがたちまち見えなくなった。
無音の時間が過ぎた。長いあいだ、時が動くのをやめているように感じた。
奴隷の腕の蔭から、ティベリウスはわずかに顔を覗かせた。
アンテュルスは歩き去るところだった。奴隷四人に囲まれ、もうこちらを向いていない。門番の軍団兵たちに鋭い視線を浴びせられながら、出ていった。
その日の夕食は、ほとんど手をつけられなかった。ユバとネストルが、子ども二人の顔を交互に見ては心配げに首をかしげていたが、ティベリウスもマルケルスも終始沈黙していた。オクタヴィアヌスは地元有力者を招いての宴会に出ていて、同席していなかった。
あとでマルケルスが解放奴隷のテュルソスに尋ねたところ、やはりアンテュルスは、父アントニウスから使者として遣わされてきたのだという。敗戦以来、これまでに何度も使者やら手紙やらを送ってきたアントニウスだが、オクタヴィアヌスにはことごとく無視されてきた。おまけにアレクサスのようにそのままオクタヴィアヌスに寝返る使者もいた。先日は、神君カエサル暗殺者さえ送り届けてやったのに、オクタヴィアヌスはその「土産」だけ取って、相変わらずなんの返事も寄越さなかった。そうしてついに業を煮やしたのか、それとも当てになる使者役がもう全滅したのか、一番大切なはずの長男を敵陣に送り込んできたのである。
オクタヴィアヌスはアンテュルスと会見したという。
テュルソスは少しためらっていたが、マルケルスには関係のあることだと思ったので、教えてくれた。
アンテュルスはオクタヴィアヌスに、多数の金貨と一通の手紙を差し出したという。オクタヴィアヌスはその場で手紙を開封し、じっと黙読した。アンテュルスは「どうか父の言葉にお答えください」とだけ丁重に願って、あとは口をつぐんでいた。
ティベリウスは彼のオクタヴィアヌスに対する思いを知っていた。母フルヴィアを死に追いやった、憎んでも憎みきれない仇。それは逆恨みとは言い切れなかった。フルヴィアは病死ではあったが、オクタヴィアヌスへの呪いの言葉を吐きながら生を終えたのだろう。それを看取った五歳の息子は、当然父とオクタヴィアヌスが和解したあとも、心が救われなかった。そのやり場のない憎悪を継母オクタヴィアへ、そしてマルケルスへ向けていた。
運命が変転し、こうしてオクタヴィアヌスに頭を下げねばならなくなった彼の胸中は、想像に堪えない。
だがそんな彼の願いにもかかわらず、オクタヴィアヌスの口からはなんの言葉も発せられなかったという。手紙の感想さえ述べることなく、金貨だけ受け取り、アンテュルスにはただのひと言だけ与えて帰した。
「成人式を挙げたそうだな、おめでとう」
ティベリウスの体に、我知らず震えが走った。
目玉を左右に動かして警戒するそぶりを見せてから、テュルソスは最後の情報を口にした。
「どうせタルスの奴があちこちに言いふらすのでお教えしますが、アントニウスの手紙にはこう書かれていました。『私は自害するから、クレオパトラの命は助けてほしい』と」
それが実の息子に持たせる言葉か!
ティベリウスはかっと目を剥いた。マルケルスもまた沈痛な表情を吹き飛ばされ、かつて見たことがない凄まじい形相をしていた。
夕食後、二人はなんとなく、オクタヴィアヌスと顔を合わせずに寝室へ引き取った。明かりも灯さず、黙々と寝る準備をした。
ティベリウスが枕にうずまろうとしたとき、マルケルスが同じ寝台に登ってきた。両拳を膝に置き、背筋を伸ばし、ティベリウスをまとも向いてちょこんと座した。
「ありがとうね、ティベリウス」
彼は言った。
「ぼくがここまでがんばれたのは君のおかげだよ」
「…どうしたの、急に?」
「アンテュルスを見たとき、ぼくは昔を思い出した」
マルケルスはおもむろに語った。
「意地悪されてたときのぼくに、一瞬で戻っちゃったみたいだった。アンテュルスは今でも大きくて、強くて、怖くて……。ぼくも少しは強くなったつもりだったんだけどな…」
「強くなったよ」
ティベリウスはマルケルスの頭に手を乗せた。
「もうアンテュルスは君に意地悪しないよ」
マルケルスは顔をくしゃっとした。
「ティベリウスが助けてくれた。あのとき、君はたった一人で自分より大きいアンテュルスとユルスに立ち向かっていった。それからずっと、ティベリウスはぼくの英雄なんだ」
星を散りばめたような目で見つめていた。
「ぼくはティベリウスみたいになりたかった。ティベリウスはいつも強くて、優しくて、落ち着いてて……勉強も運動も得意だけど、それは見えないところでだれよりも努力してるからで、体も丈夫だけど、それはちゃんと自分を管理できてるからで……完璧に見えた。あこがれた。少しでも君に近づきたくて、がんばってきた」
照れ臭そうに、腕で顔をこすった。
「今でもぼくは、弱虫で、泣き虫だけど、それでもあのころより少しは強くなれたよね? ティベリウスがいてくれたからだよ」
ティベリウスは無言で聞いていた。
「おかげでトロイヤ競技祭も、なんとかやり通せた。まだかなわなくても、ティベリウスに負けないようにがんばったんだ、運動も、勉強も。そしたら良いことがたくさんあった。前より元気な子になったっていっぱい言われたし、友だちも増えた。叔父上の期待に応えられるかもって、ちょっと自信がついた。叔父上も褒めてくれるようになって、それからぼくに色々なことを話してくださった。
ティベリウスと一緒に勉強して、従軍して、ぼくは少しずつ、叔父上がどれだけすごい人なのかわかっていった。カエサルの甥なんだって自覚を持てた。母上や妹たちだけでなく、叔父上とご先祖様に恥じない勇敢な男になって、ローマの平和を守りたい。そう考えるようになった」
これまで、マルケルスは叔父から多くを見聞きして学んできたのだろう。ティベリウスがまわりの人間からそうしてきたように。
マルケルスは額をティベリウスの肩に押しつけた。
「偉そうに言ったけど、ここまで叔父上についてこられたのも、ティベリウスと一緒だったからなんだ。ぼく独りじゃ、すぐローマに帰っちゃってた。ほんと言うとね、出発して最初のころは、ちょっとうれしかったんだ。ティベリウスを独り占めできるんだもの」
両手でティベリウスの左手をぎゅっとつかみ、肩を震わせた。
「…ごめんね。ぼくのわがままで、君まで遠くに連れてきて……」
「謝る必要なんてない」
ティベリウスはすぐに言った。
「君とカエサルのそばにいることが、ぼくの意思だ」
それから右手で長いあいだ、マルケルスをさすっていた。
部屋の中は真っ暗になった。二人の呼吸音以外、なにも聞こえない。外は大人ばかりの非情な世界。理解不能な闇の中を、ずっと二人だけで歩いてきた。
そのまま、マルケルスは眠ってしまったかと思った。だが不意に顔を上げ、丸い目で問いかけてきた。
「……ねぇ、ティベリウス? どうして君は、あのとき馬を――」
それからすぐに目を伏せ、また肩の上に戻った。
「ううん、なんでもない……」
マルケルスが問おうとしたのは、トロイヤ競技祭前の対決時のことか。それともアディアトリクスによる襲撃時のことか。ティベリウスは問い返さなかった。
ゆっくり体を倒し、寝台に仰向けになった。マルケルスを横に寝かせ、肩口まで毛布を引っ張ってあげた。
目を閉じようとしたが、マルケルスのまばたきもしない凝視とぶつかった。
「叔父上は…アンテュルスを引き止めなかった」
彼はぽつんと言った。
「そのままエジプトへ帰しちゃった。叔父上は、アンテュルスをどうするつもりなんだろう…?」
従軍をはじめてから今まで、マルケルスは一度も義兄の話を口にしなかった。だがずっと頭に引っかかっていたに違いない。恐ろしかったのだ、彼に思いをめぐらすことが。自ら運命を招いた父親とは比べようもなく。
「ここに残れば、アンテュルスはローマに帰れたかもしれないのに。そしたらユルスがすごく喜んだのに……」
「彼は使者なんだ」
ティベリウスは固い口調で思い出させた。
「任務を終えたら帰らなきゃいけない。そういう役目だ。それに父親を裏切れるわけがない」
「…そうだよね」
マルケルスはうなずいた。
「五年前に別れたときも、アンテュルスは言ってた。『ぼくはマルクス・アントニウスの息子だ。お前たち敵と一緒にいるものか!』って。アンテュルスにとって、ぼくたちは昔から敵だったんだ……」
ティベリウスは唇を強く引き結んだ。十歳のアンテュルスが宿した憎悪と、それを聞かされ続けてなおオクタヴィアのもとに残るしかなかった、八歳のユルスの悲痛を思った。
兄弟を引き裂いたのは、アントニウスとオクタヴィアヌスの内戦以外のなにものでもない。
「やっぱりアンテュルスは許さないんだよね、ぼくたちのこと。でも、もしかしたらって思ったんだ。アントニウスは無理でも、アンテュルスとは兄弟として、また一緒に暮らせる日が来るんじゃないかって。アンテュルスは、なにも悪くないんだから……」
ティベリウスがなにも言わないでいると、マルケルスは顔半分を枕にうずめてうめいた。
「わかってるよ。アンテュルスはぼくが憎いんだ。ぼくは悪い子だよ、ティベリウス。アクティウムでアントニウスが敗北したあと、ぼくはアンテュルスが捕まったって知らせが届くんじゃないかと、ずっとびくびくしてた。ぼくたちと同じように従軍してて、捕まったらきっと一緒にローマに帰る。ユルスとアントニアのためにそうなるように願いながら、ぼくは同時にそうならないように願ってた。だってそうなれば、ぼくはまた昔のぼくに逆戻りだもの。ぼくは今でも、アンテュルスが怖かったんだ…」
マルケルスの手が伸び、ティベリウスの服をつかんだ。
「信じて。ぼくはアンテュルスに無事でいてほしいんだよ。でも、どうしても、顔を合わせるのが怖くて…どうしていいかわからなくて……」
ゆれる目で見つめ、訴えた。それから耐えがたい様子で体を丸くした。
「ぼくはひどい子だ。最低の弟だ。兄様に愛されなくて、当然だ」
「君が思い詰める必要なんてない」
ティベリウスは彼の頭を抱え込んだ。愛されながら、その記憶を忘れてしまった自分に、なぐさめる資格があるのかと思いながら。
「アンテュルスがこれからどうなるか、それはアントニウスが気を配ることだ。そしてきっと、最後にはカエサルが決めることだ」
すべてが終わるとき、当事者であるアントニウスの命は容赦されないかもしれない。けれどもアンテュルスはまだ十五歳だ。成人してはいるが、まだ軍役前の、国家ローマに対しなんの悪事も働いていないローマ人なのだ。きっとカエサルは彼を救ってくれるはず。ティベリウスはそう信じていた。
だが、そんな希望に暗い影が覆いかぶさる。オクタヴィアヌスはアンテュルスを引き止めなかった。弟や妹が待っているから戻って来いとも言わず、父親が執拗に求めていただろうなんらかの返事さえ与えなかった。金貨だけ受け取り、かつての義理の甥にこれだけ言って終わりにしたのだ。
『成人式を挙げたそうだな。おめでとう』
いつのまにか、ティベリウスはマルケルスを抱きしめていなかった。寒気がして、がむしゃらに抱きついていた。マルケルスは気づかなかっただろう。ティベリウスは必死でその不気味な感触を振り払おうとした。それよりなにより父親が殺されるようなことになれば、アンテュルスはカエサル家関係者をだれも二度と許さないだろう。どのような形の関係修復も不可能になるだろう。それこそが起こり得る最悪の結末だ。そう思おうとした。
暗い未来ばかり考えながら、マルケルスにはこう言っていた。
「昔に戻ることなんてないよ、マルケルス。君は強くなった。大丈夫だよ、なにがあっても」
嘘を言ったつもりはなかった。
マルケルスもティベリウスにしがみついた。暗黒に向ける祈りは、きっと同じだ。
だが、たとえすべてがはかなくとも、この手と手だけはつないで歩いていく。未来を照らす灯火として。
「ティベリウス、これからもぼくのそばにいてね。ずっと、ずっと、一緒だよ」
体の異変を感じたのは、アンティオキアへの船に揺られているときだった。最初は、気にするほどのことでもなかった。いつもより少し体が重い。眠い。食欲が湧かない。勉強にもいまいち集中できず、気がつけばぼんやりしている。その程度だった。
少しだけ、疲れたのだろうと思った。だからいつもより多めに休息を取り、その日にすべきことを少なめにしてゆっくり動くという、早めの対処をした。ところが、体の調子は一向に戻らないばかりか、さらに悪化した。朝、寝台から出ることが途方もない苦行に感じられた。なんとか歩いて食卓についても、パンを一口かじるたび、吐き気をこらえなければならなかった。それからは一日じゅう、だるさに耐えて過ごした。それが日を追うごとに少しずつひどくなり、自分でできるどんな手も通用しなかった。
今までこんなことがなかったティベリウスは、さすがに医者に相談したほうが良いかと思った。だが熱がないことはわかっていた。どこかが痛いという症状もなかった。だいたい医者は、現在オクタヴィアヌスにかかりきりなので、煩わせるのは気が引けた。オクタヴィアヌスは、毎年この時期に悩まされる鼻炎ばかりか、喉まで患ってさらに腹まで下していた。初めて訪れる東方大陸の気候に慣れることができずにいるのだろう。それに比べれば自分はまだましだと思った。もう少し長めに休息すれば、いずれ回復すると見なした。
それでも長い時間寝台に伏せっていては、マルケルスに心配をかけてしまう。まわりの大人にも気を遣わせてしまう。それだけはなんとしても避けたかった。
悩んだ末、レントゥルスのところへ行くことにした。弱った姿をさらせる相手はほかにだれもいない。マルケルスがネストルと話している隙に軽く断りを入れて、体を引きずるように外へ出た。レントゥルスの兵舎までの距離が果てしなく感じられた。
入口まで行くと、レントゥルスは軍議に出て不在だと教えられた。当然だ、彼だって軍団副官なのだから。不必要なほどきつく自分に言い聞かせ、ティベリウスは下がった。それから兵舎前の低い石塀に腰かけ、友人の帰りを待った。
五月だが、シリアに照りつける日差しは強かった。それを浴びて兜や甲冑を鋭く光らせながら、軍団兵たちが盛んに行き交っていた。多くがくつろいでいる様子だった。厳しい軍規に服しているとはいえ、今は近くに敵がいるわけではない。エジプト攻めももうしばらく先のことだ。陽気におしゃべりするその主な話題は、上官たちの評価のほか、熱中する賭け事や市内で見かけた美人であるらしい。少しばかり浮つきながらも、次の任務や訓練へきぶきびと足を向ける彼らだった。ティベリウスは、その一人一人を長いあいだ目で追っていた。
自分がドゥーコを探しているのだと気づいた時、胸を思いきり殴られたような衝撃を受けた。行き交う群れの中から、あの日に焼けたいかついしかめ面が抜け出してきて、ぶっきらぼうに話しかけてくるのをじっと待っていた。
起こり得ないのに。二度と会えはしないのに。
石塀から転がり落ちるように降りた。軍団兵たちに背を向け、頭を抱えてうずくまった。
もう嫌だ。
なにがなのかよくわからなかったが、とにかくもう嫌だった。
燃えているように熱い目で、足のあいだの土だけを見つめた。肉体ができる限界まで縮こまっていた。
乾いた砂風が吹きつけた。
「…あれ、ティベリウスかい?」
聞き慣れたのんきな声は、ずいぶん遠くから聞こえた気がした。
「こんなところでどうしたの? ひょっとして、かくれんぼの最中?」
しかしティベリウスが顔を上げると、レントゥルスはたちまち顔色を変えた。正面から殴られたようになり、らしくなく切迫して見えた。
「ティベリウス! ねぇ、大丈夫っ?」
それからティベリウスを抱きかかえ、大あわてで兵舎に飛び込んだ。ティベリウスは「医者を呼ぶな。カエサルとマルケルスに言うな」とうわ言のようにくり返したが、レントゥルスはまず前者を無視した。ただし呼んだのは彼の軍団付きの医者で、最高司令官付きのそれではなかった。レントゥルスの寝台に横たえられたティベリウスは、もう指一本動かす力も湧いてこなかった。
医者はすぐに患者に熱はないとわかったが、それ以外の症状を知るには苦労した。患者はすでに意識をやっと保っている状態で、代わりにレントゥルスに、絶対安静を守らせるよう言いわたした。食欲がなくても、水分だけはなんとしても取らせるように。できれば野菜や魚を煮詰めたスープを口にさせるように。
レントゥルスは沈痛な面持ちで、いちいちうなずいていた。今にも泣き出しそうだったが、それでも落ち着きを保ち、労わるようにゆっくり何度もティベリウスの額を撫でていた。
「なにも心配しなくていいよ。ぼくが全部上手くやるから」
その言葉を聞くと、ティベリウスはついに眠りの深みに落ちた。
次に目を開けたときは、夜になっていた。
「帰らなくちゃ…」
腕を伸ばし、寝台から這い出ようとした。しかし体は相変わらず鉛と化したようで、言うことを聞かない。
「マルケルスが待ってる……。カエサルが…またティベリウスが勝手にって、怒ってる……」
「マルケルスにはぼくから言っておいた」
すぐにまわり込んできたレントゥルスが、頭から落下しかけていた友人を引っ張り上げた。
「今夜はぼくのところに泊まるって。そしたらマルケルスも、今夜は叔父上のところで過ごすって言ってた。気にしてなかったよ、全然」
それを聞いたティベリウスはぐったり脱力した。たちまちまた意識が遠のいたが、レントゥルスは無理矢理枕にもたせて座らせた。「これを食べて」と、膝の上に盆を乗せてきた、野菜スープと豚肉入りの粥があった。
「ぼくの奴隷が、ローマ軍団兵のお馴染み料理を真似して作ったんだ。きっと元気になるよ」
食欲はなかったが、レントゥルスはすでに手ずから食べさせようとしていたので、そこまでされたくはないティベリウスは自分で口に運んだ。スープをなんとか喉に流し込む。
だが粥を口にした瞬間、ぴたりと動きを止めた。
ドゥーコが作ってくれた粥も、こんな味がした……。
「わっ、わっ、ど、どうしたの、ティベリウス? 大丈夫? なんかマズいものでも入ってた? ひょっとして、ぼくがこっそり味付けに手を加えたの、いけなかった?」
とたんにうろたえだしたレントゥルスにはなにも言えず、ティベリウスは頭に爪を立ててうつむいた。
いったい自分はどうしてしまったんだろう。こんな感傷的になって、情けないったらない。
どうして今ごろなのだろう? ドゥーコのこと一つだけを取っても、最期の姿を見てからもう八ヶ月だ。一緒に過ごした時間より長い月日が流れた。それなのに、どうして今――。
ドゥーコのことだけではなかった。ティベリウス自身でも整理できず、認識さえしきれないあらゆることが、突如大挙して復活し、襲いかかってきているように感じられた。魂が、肉体もろとも混沌に呑み込まれ、もがけばもがくほど、さらなる深みにはまっていく。悲しいのか、悔しいのか、苛立たしいのか、もう自分の感情さえわからない。ただひたすらに苦しい。それだけだった。
「ねぇ、ティベリウス」
レントゥルスが、そっと頭に手を乗せてきた。
「もしかして、独りになりたいかい? だったらぼくは、しばらく外に出ているから――」
ティベリウスは顔を上げた。まじまじとレントゥルスを見つめ、それから激しく首を振った。
今独りにされたら、それこそ取り返しがつかないほど完全に自分が壊れてしまう。
レントゥルスの胸に飛びついた。そのまま体をさすられながら、顔をうずめて延々とうめいていた。
「どうして、どうして、どうして、どうして……」
「いちばん辛いときに、がんばったからだよ」
レントゥルスのささやき声が聞こえた。
「我慢して、我慢して…それでみんなが忘れたころになって糸が切れた。いいんだよ、ティベリウス。元気になるまで、もうなにもこらえなくていいから。ぼくがついていてあげるから」
翌日も、ティベリウスはレントゥルスの寝台の上で過ごした。スープを口にするほかなにもせず、レントゥルス以外のだれとも顔を合わさなかった。
続きの部屋で、レントゥルスは時折だれかと話をしているようだった。だがよく聞き取れず、関心も湧いてこなかった。
その翌日は、少し気分が楽になっていた。前日より多く食事をとったあと、寝転がったままレントゥルスと盤上ゲームをして遊んだ。
さらにその翌日は、体も少し軽くなっていた。寝台から体を起こし、冷えた果汁を飲みながら、続きの部屋へ目をぱちくりさせた。
そこでレントゥルスは、客に応対しているようだった。客は複数人いて、聞き耳を立てたところ、コルネリウス一門のクリエンテスらしかった。
レントゥルスの属すコルネリウス氏は、ローマ最大にして最高の名門である。ユリウス氏、ヴァレリウス氏、ファビウス氏、そしてクラウディウス氏を含む五大貴族の中でも、とりわけ歴史が古く、国家に輩出した人材の数が最も多い。だから世界じゅうに抱えるクリエンテスは数知れず、こうしてパトローネスがシリアにあっても伺候に訪れるのである。
レントゥルス家のこの子息は、十七歳という若さに生来の性格が加わって、パトローネスらしい威厳には欠けていたが、それでも苦労より余裕を感じさせるのんびりとした振る舞いは、貴族らしいと言うことは言えた。
「このたびは若様が勇ましく従軍されていると聞き、参上いたしました。いやはや立派に成長なさって…」
クリエンテスらしき一人が言った。
「いや~、ぼくなんてまだなにもしてないよ~。きっともうすぐ初陣なんだけど、トロいから置いていかれないか心配。ほかの将軍たちの気迫ってばそれはもうびっくりするくらいだし、なぜだか友だちには、むしろ置いていかれろ、前線に立つな、とか言われるし。う~ん、ぼくの出番はあるのかなぁ?」
レントゥルス、しっかりしろ!
ティベリウスは思わず寝台を這って、部屋の出入口に近づいた。弱点まで含めてだれにでも素を見せる性格が、レントゥルスの良いところでもあり、悪いところでもあった。クリエンテスたちもこれでは困ったことだろうが、それでも若きコルネリウス・レントゥルスに称賛と祝いの言葉を続けた。それから話題は、今後のことへ移った。
「カエサル・オクタヴィアヌスは今後ローマをどうするおつもりなのでしょうか? 我ら、属州の民は?」
「さぁ?」
レントゥルスはあっさり首をかしげた。
「きっと全部上手くやってくださると思うよ、これまでどおりに」
「我らが一門はどうなるのですか?」
おそらく肩でもこけさせながら、クリエンテスは尋ねた。
「カエサルがローマの支配者になれば、そのう、これまで以上の繁栄を遂げることが難しくなるのでは?」
「支配者だなんて、そんな大げさな」
レントゥルスは気楽な調子で笑った。
「それでももう四度も執政官を務めておられるではないですか」
二人目のクリエンテスが、いささか強い語気で思い出させた。
「あの若さで、前代未聞です。そのうえ今度ローマへ帰国したあかつきには、盛大な凱旋式を挙行した挙句、終身独裁官に就任されるのではないですか? あるいは王冠をかぶられるとか」
「まさか、まさか」
レントゥルスは軽く否定した。
「終身独裁官は法律で廃止されてるよ。それに、カエサルは王冠をかぶるのではなくて、王冠をかぶせる人だよ」
「形はどうあれ、事実上の王政、事実上の独裁体制がはじまるのではないですか?」
反対に三人目のクリエンテスが重々しく口を開いた。
「そうなれば、五百年の長きにわたって国家を担ってきた、我ら一門の立場やいかに? 共和政はもう終わってしまうのですかな?」
「ローマがここまで繁栄してこられたのは、共和政体のおかげではないですか。由緒正しい家柄の男が、毎年代わる代わる才能を発揮する機会を与えられ、見事な連携で次々と栄光を勝ち得てきた。王政に戻ることなど、後退です。滅びを意味します」
「やだなぁ、そんな縁起でもない」
二人目のクリエンテスへ、レントゥルスは困ったように苦笑をもらしていた。ティベリウスには理解できなかった。東方の属州民が、なぜローマの中央政体にこだわるのか。もちろん今では神君カエサルが門戸を開いたおかげで、属州出身者でも元老院議員になることは可能である。軍役や地方統治で頭角を現わし、ローマ市民権を取得して首都へ乗り出し、コルネリウス一門の支援を受ければ不可能ではない。
これは、神君カエサルがガリア人までも元老院議員にする以前から行われてきたことだ。国家ローマは版図を拡大するにつれ、元老院に迎え入れる人の裾野も広げてきた。そうして常に新しい血を採り入れることで、ローマは破竹の勢いで繁栄を遂げたのだ。民主制は行ったがよそ者を頑なに受け入れなかったギリシア都市国家や、現地人を政務に登用はしても統治には口を挟ませなかった東方諸国ではなされなかったことだ。だから今や地中海世界の覇者となったローマにとって、共和政体は誇りなのだ。
皮肉なことに、覇者となったその日から、ローマの共和政は崩れはじめた。だがクリエンテスたちでさえ考えていた。共和政を失うことは、滅びを意味する。つまり、ローマは覇者の土台であり証であるもの無くす。王政のごとき姿になって、歴史上幾多も生まれ滅び去った国々と同じ運命たどる。
――ローマがそうならないと、どうして言えるのか。
テオドルスの言葉が頭によみがえった。
このクリエンテスたちはおそらくギリシア人なのだろうが、ある程度ローマの共和政に敬意を抱いている。彼らの考えでは、共和政の一員である貴族の下で暮らすことは「被護」であり、一人の絶対権力者に従うことは「隷属」なのだろう。自由と民主政を誇りにしてきた彼らだからこそ。
とはいえ、彼らクリエンテスたちは、自分たちの境遇についてそこまで深く考えているわけではないのかもしれない。自らの首都ローマにおける出世を望んでいるわけでもなく、おそらくはごく自然な気持ちとして、パトローネスの家を応援しているのだろう。確かにオクタヴィアヌスが毎年執政官に就任し続ければ、国家最高位の政務官席が一つ減る。数多くの執政官を輩出したコルネリウス一門の勢いは、少なくとも記録上は衰えたように映るだろう。執政官より下の要職も、オクタヴィアヌスの意向次第と思えてしまうのだろう。
ギリシア人クリエンテスでさえこのように心配してくる。それならば当のローマ人はどこまで考えているのだろう、これからのローマとオクタヴィアヌスのことを。
ティベリウスはいつのまにか考え込んでいたが、レントゥルスたちの会話は続いていた。
「――若様とて、独裁より共和政を支持なさるでしょう? コルネリウス一門の偉大なご先祖にかけて」
「…みんなで協力して国を担うのが良いと思う」
レントゥルスがしぶしぶ口にした意見は慎重だったが、ティベリウスには少なからず衝撃だった。
友人もまた、内心ではオクタヴィアヌスのやり方を承服しかねているのか。従来の共和政に戻すべきだと考えているのだろうか。
いや、レントゥルスはそうは言っていない。ティベリウスはそう思おうとした。
カエサルだって、断じて、なにもかも独りで行ってきたわけではないではないか。アグリッパやメッサラや、他の有能な男たちの協力があってこそ、ここまでやってこられた。たとえ従来の法の枠を超える体制であっても。
だが共和政への愛は、長年その中核にあった名門貴族の子弟としては、当然の思想ではないのか。ティベリウスは父ネロの顔を思い浮かべていた。
ならばぼくは?
ティベリウスは自分に問いかけたが、これが初めてではない。
貴族の自分もまた、このクリエンテスたちのように考えてしかるべきなのか。
そうでなければぼくは裏切り者か。
父の厳しい顔が、頭を離れない。
だが大ポンペイウスや神君カエサルが成したことは、間違いだったのだろうか。そして若きカエサルが成そうとしていることは。
クラウディウス・ネロの子として生まれ、カエサル・オクタヴィアヌスに育てられた自分は、なにを信念に生きれば良いのか。
「若様が良識ある方で、我々はほっと胸を撫で下ろしております」
若きコルネリウスの言葉を都合良く受け取ったクリエンテスたちは、俄然勢いづいた。
「我々が若様にお願いしたいのはこの一事のみです。どうか我ら一門のために、国家の中核に座すお方になることを志していただきたい。コルネリウスの男にはその資格がございます。そのために、我々はいつでもお力添えいたしますぞ」
「そうですとも。これからもコルネリウスは、ローマ一の名門であり続けましょうぞ。ユリウスになど負けていられますか!」
「だいたいユリウス氏など、ちょっと前まではほとんど忘れ去られた貴族だったではないですか。家柄こそ古いが、あの神となったカエサルが登場するまで、いったいどんな著名な男を輩出したというのでしょう。そのうえ今のカエサルは、一門の養子。傍系に過ぎぬ庶民の家柄ではないですか。そのような男に、ローマのなにがわかりますか。これから国家を繁栄させていけるわけが――」
「それについてはぜひ、今後を暖かい目で見守っていただきたい」
それは、突然入ってきた。全員が飛び上がったに違いない。隣室の寝台で、ティベリウスもぎょっと跳ねた。立ち直る間もなく、あの穏やかな声が、まったく乱れずに言葉を紡いできた。
「私としても、コルネリウス一門を含め、由緒正しい家柄の方々に協力を仰ぎながら、成すべきことを成していく所存です」
驚愕と戦慄の沈黙に支配されるなか、とことこと足音だけが聞こえてきた。ティベリウスが目をまんまるにしていると、戸口にマルケルスが現れた。そのまま両腕を伸ばして突進し、ぴょんっと跳ねると、ティベリウスを寝台の上に押し倒した。
「ティベリウスは具合が悪かったの? どうして言ってくれなかったの?」
肩の上でささやかれたが、ティベリウスはなにも答えられなかった。
オクタヴィアヌスが続いて姿を現わした。
「帰れるな、ティベリウス?」
差し伸べられたその右手は、有無を言わせなかった。
レントゥルスが艦隊勤務になったと知らされたのは、この二日後だった。打ちのめされたティベリウスは、しばらく石像と化したようにぴくりとも動かなくなった。
もちろん、先日の件があったからではない。これは軍団単位での異動だ。戦略なのだ。まもなくオクタヴィアヌスは陸路をエジプトに向けて南下するが、艦隊は海上を並走し、地峡の要塞ペルシオンを経由して、王都アレクサンドリアを包囲する。レントゥルスの軍団はたまたまその海上任務に振り分けられたにすぎない。
だから、ティベリウスとは関係ない。関係を疑うなど、公私混同で、幼稚極まり、自意識過剰もいいところだ。たかだか子ども一人が原因で軍団の配属をいじるなどあり得ない。だいたい軍の編成に関して、オクタヴィアヌスは全面的にアグリッパに委ねているはずではないか。ティベリウスは必死で自分にそう言い聞かせた。
自分の思い込みであり、妄想だ。
馬鹿げたことだ。関係あるはずがないんだ。
カエサルはそんな意地悪な人じゃない。
だがいかに言い聞かせようと、このごく個人的な打撃は消え去らなかった。思い込みばかりが先走った。
レントゥルスが引き離された。奪い取られた。自分が少しばかり甘えたせいで。テオドルスのときと同じく、継子に悪い影響を与えるという疑いから。いや、もっと悪い。彼のクリエンテスと一緒と見なされ、不満分子として遠ざけられたのだ。カエサルのやり方に逆らう、共和政信奉者だからと。
まったくの誤解だった。ティベリウスはちゃんと説明したかった。だが継父は、すでに先日の件など忘れたように過ごしていた。ティベリウスを責めるそぶりはまったくなく、レントゥルスのことなど頭の片隅にもない様子で、日々の仕事に当たっていた。
継父がこの様子では、ティベリウスにはなにもできない。結局、悶々としたわだかまりを抱えたまま耐えるしかなかった。それは、しばらく悩まされていた不本意な感傷を抑え込む役には立った。だが胸はずっしりと重くなる一方だった。喪失感が開けていた穴はさらに大きくなり、そこから孤独感と疑惑の渦がさらに色を濃くして漏れ出す。肉体全体を侵食していく。吐き出したくても、もうその術もわからない。
それでも、ティベリウスは通常の生活に戻った。以前に比べればあらゆる活動が鈍重になっていたが、周囲に気づかれるほどではなかった。ただ黙々と、重苦しい胸と体を引きずりながら、出口の見えない毎日を送った。
なぜなら寄りかかれる人はもういない。この環境で唯一心を許せた相手は、海の彼方へ行ってしまった。突然で、見送ることさえできずに。ティベリウスはこれまでどおり、おのれの誇りのみを支えに歩くしかない。
長く、長く感じられる時間が流れた。去年と同様、マルケルスの誕生日はにぎやかに迎えられた。軍営内がお祭り騒ぎに沸くなか、ティベリウスはアグリッパと誕生日の贈り物を買いに出かけた。アンティオキアの大通りは、服装も肌の色も様々な人でごったがえし、手をつないでいなければお互い迷子になってしまいそうだった。もみくちゃにされながら、二人は素敵なガラス製品を扱う店にたどり着いた。ティベリウスは赤玉を四面体にあしらった首飾りを購入した。宝石と見紛う美しさだった。
帰り道、大通りに戻る直前、アグリッパはふいに思い立ったようにティベリウスを見つめた。
「坊ちゃん、もしも私で力になれることがあったら――」
けれどもそこで、まばたきもせずに虚空を凝視する姿に気づき、言葉を途切れさせた。
「……いや、なんでもない。すまない……」
自分自身に失望したように首を振りながら、アグリッパはまたティベリウスの手を引いて歩き出した。
十二歳になった甥の順調な成長ぶりを喜びながら、オクタヴィアヌスもまた順長な統治を進めていた。おおかたの東方再建にかかわる決定は、六月を待たずになされた。ローマと諸王国は同盟を更新し、親ローマの人物が王位を承認された。アントニウスに協力していたか否かにかかわりなく、オクタヴィアヌスが当該の人物を見定めて決めた。各自治都市も、その指導者がローマへの忠誠を宣言し、変わらぬ保護を約束された。また、たとえばタルソスがそうだったが、アントニウスと女王の気まぐれな統治で滅茶苦茶になっていた地域へは、オクタヴィアヌスが片っ端から手を打った。
「神殿の免罪領域を広げてまで悪人どもに住処を都合してやるとは。アントニウスの寛大に、エフェソス市民は涙を流しているな」
ときにはティベリウスたちにさえ聞こえるほどの愚痴をこぼしながら、彼は淡々と秩序を正していった。不正の大小にはこだわらず、一つ一つの訴えに地道に応えていった。
その結果、六月を迎えるころには、東方全体がひとまず落ち着きを取り戻すことができた。もちろんエジプト領内を別にすればだが、アントニウスと女王に未練を寄せる国も都市も、完全に無くなっていた。ユーフラテス川の向こうには大国パルティアがあるが、ローマに敵対する動きは見せなかった。東方第二の大国アルメニアは、隙あらばローマに尻を向けることで知られているが、こちらも大人しくしていた。
東方再建の見通しがついたからだろう。六月初旬、オクタヴィアヌスはアンティオキア出立を決めた。ついに一路エジプトへ向けて下るのだ。いかなる形になるにせよ、結末は間近に迫っていた。
表面上、元気になったように見えるティベリウスだが、孤独で限界まですり減った心を埋めることができずにいた。
異国の地で独りきり、川の流れを眺めながら、その先に広がる海を想った。そして、そのさらに先にある愛おしい故郷を想った。つぶれそうな胸で、会いたいと願っていた。
出立の前日、ローマから手紙が届いた。ドルーススから、誕生日祝いの返事に違いなかった。兄が一度も顔を見ないうちに、ドルーススは七歳になり、八歳になってしまった。手紙を受け取りはしたものの、ティベリウスには開封できそうになかった。一行でも目にした瞬間、きっとなにもかも崩壊してしまう――。
ところがそのとき、ドルーススの手紙に別のそれがくくられていることに気づいた。ドルーススの二巻目でなければ母からかと思ったが、まったく見たことがない蝋の型で封印されていた。目頭をこすってから、ティベリウスは慎重に封印を破ってみた。
『ぼくの大親友へ。
この手紙を出すべきか、すごく悩んだ。だって出したら認めることになっちゃうからね、色々と。うん、ドルーススがなにを知らせたか知らないけど、ぼくは無実だ。あの子が、ヴィプサーニアにデレデレする君とか、お気に入りのお菓子をアントニアに譲ってヘコむ君とか、マルクス・メッサラの余計な口に辛子入りガルムソースパンをつめ込むのを想像してほくそ笑む君とかを、見たと主張したかもしれないが、そんなのは全部幻だ。幻じゃないとしても、誇張だ。だから指をポキポキ鳴らしながら帰ってくるのだけはやめてくれ。ぼくと君はまったくもって似てないんだし、ぼくがモノマネをしたなんて証拠はどこにもないんだから。
信じて。ぼくは真面目にやっている。ドルーススの期待に応える次回のネタに頭をひねりながらとはいえ、引き受けた件はちゃんと忘れずに続けている。実のところ、もうそれほど心配しなくて良さそうだけど。
アントニウスの敗北が知らされてから、ユルスをいじめる連中は嘘みたいにいなくなった。人間ってのは不思議なもんだね。決定的な敗者になったとたん、昨日まで悪口三昧吐いていた口から同情があふれ出すんだから。今ではみんながユルスに優しい。腫れ物を扱うみたいに。だから君やマルケルスは安心していいんだけど、こっちのほうが、ユルスにとっては辛いのかもしれない。
この報告以外にも、ぼくが危険を承知で君に手紙を書く決心をしたわけは、君が今クレタ島にいると、ドルーススが話していたからなんだ。
クレタ島といえば、少年を誘拐して愛を成就する習わしで有名だ。法律で認められているんだ。少年αが少年βに恋をしたら、愛をささやくのではなく、さらいに行くんだ。しかもさらわれる少年というのが、ギリシア人のおっちゃんが好むみたいな可愛くてはかなげな美少年だったらぼくもほっとひと安心なのに、恐ろしいことに勇敢で自制心に優れた少年らしいんだよ。
どうしよう。なんで君はそんなところへ行ったの?
ぼくは忠告させてもらうぞ。今こそ勇敢さに関して、このぼくを見習うように。自制心に関しては、ディオニッソスを見習うように。さもなくば君は誘拐者の餌食にされ、監禁先で狩りや運動をして遊び、たくさんの贈り物をもらい、豪勢な食事を振る舞われる生活を二ヶ月も続けなきゃならない。ああ、ぼくは胸が張り裂けそうだよ、色々な意味で。
君がクレタ島にいるあいだ、ぼくが誘拐しに行ったら受け入れてくれるだろうか。もちろん、君をそういう目で見たことは一度もないけど、君の愛だけは得ておきたいぼくとしては、クレタ式の求愛だろうがなんだろうが、可能性があるなら……。
このことをドルーススに話したら、「ぼくがあにうえを誘拐しに行く」と言って、おもちゃ箱を抱えて、ティベリス川の適当な船に乗り込もうとした。もちろんおもちゃ箱は、捕らわれの愛人に与えるための贈り物で、普通は雄牛や杯や軍服になるはずなんだけど。
ユルスに滅茶苦茶叱られていた。「あのマルセーユ行きって字が読めないのか」って。マルクス・メッサラはマルケッラ姉妹をちらちら見ながら、「ぼくはマルケルスを誘拐しようかな」と漏らし、当然、マルケッラ妹のビンタをくらった。コッケイウス・ネルヴァは、君と二ヶ月間勉強三昧の毎日を送れるなら誘拐者に名乗りを上げてもいいと話していた。ライバル登場だ。もう一人の小さなライバルは、アントニア妹が「アントニアもティベリウスをユーカイするのよ」と宣言したことが相当衝撃だったらしく、おもちゃ箱を抱いてしばらくイジけていた。アントニアとしては、ただドルーススに対抗したかっただけだと思う。けれど女の子ってのは、年上の大人びた男にあこがれがちだからね。あとでなぐさめてあげてよ。
とにかく君、わが身を一番大事にしておくれ。それだけだよ。君には持ち前の慎重さと腕っぷしとたぐいまれなる愛想がある。誘拐なんて避けられるはずだ。あとはさっきも言ったように、ぼくをよく見習って――
と、ここまで書いてから、サモス島にいたはずの君が、今ごろクレタ島にいるとはおかしな話だと気づいた。ひょっとしてドルーススは、ロードス島と間違えたのかな? まぁ、だったら忠告を、ヘリオス像の口に侵入して尻から出てこようとか考えないように、に変えておいて。
いつでも君の求愛者、ルキリウスより』
なぜだかマルケルスが、とても熱烈なまなざしで見つめてきていた。ティベリウスは怒っているつもりだったのだが、違う表情を浮かべていたらしい。




