【第5話】見えている
魔物が地を蹴った。
牛ほどの巨体が想像を超える速さで距離を潰してくる。灰色の甲殻が松明の火を鈍く弾いた。まっすぐ俺の胴を狙った突進だ。避けきれる速さではない。まともに受ければそれで終わる。頭のどこかがそう告げていた。
だが不思議と恐怖はもう薄れていた。
囮に投げ捨てられた瞬間に湧いた震えは、もうどこかへ消えていた。頭の芯がすっと冷えている。逃げ道はない。荷を背負ったこの足では、あの巨体から走って逃げ切れるはずもない。だったら考えるのは一つだけだ。どうすれば、生きて陽菜のもとへ帰れるか。それ以外のことは全部、頭の外へ流れ落ちていった。
時間が粘るように遅くなる。澄んだ視界の中で俺は迫る巨体をただ見ていた。前脚の運び。首の傾き。重心の乗る位置。そのすべてが手に取るように分かった。この魔物は左の前脚に力を溜めて跳ねる。着地の刹那に体をわずかへ右へひねる癖がある。突進のたびに必ずそうする。さっき岩室に踏み込んだときの一度と、今のこの一度。二度の動作で俺の目はもうその癖を覚えていた。
見えるものは、それだけではなかった。
右の後脚は、着地のたびにわずかに滑る。床の苔を踏むからだ。首を低く沈めるとき、喉の下の甲殻がほんの少し浮く。呼吸のたびに脇腹が上下する、その周期。突進に移る前に必ず一度、息を大きく吸い込む前触れ。魔物の体が発する合図が、次から次へと目に飛び込んでくる。多すぎるくらいだった。俺はそのうち、勝ち筋に関わるものだけを拾い上げた。
右へひねる。そのとき左の脇腹が開く。
あの継ぎ目だ。古い戦いで割れて塞がりきっていない甲殻の隙間。硬いのは表面だけ。あの奥に柔らかい場所がある。突進の勢いで体をひねったその一瞬だけ、隙間はいちばん大きく口を開ける。ほんの半呼吸。だが俺の目には、その半呼吸がやけに長く見えていた。
俺のすべきことはひとつだった。
力で殴るのではない。速さで競うのでもない。ただあの一瞬にあの一点へ刃先を置いておく。それだけでいい。あとは魔物が自分の勢いで勝手にそこへ突っ込んでくる。俺が魔物を刺すのではない。魔物のほうから刃に刺さりに来る。そういう仕掛けだ。
Lv.1。ステータスは各10。合計六十のE級。あの甲殻を正面から砕く力は、この体のどこにもない。それは動かしようのない事実だ。だからこそ、力の要らない勝ち方を選ぶしかなかった。硬いところを避け、開くところを待ち、通るところへ置く。俺にできるのは、たぶんそれだけだった。そしてそれで足りるはずだと、目がそう言っていた。
背中の荷袋の紐を左手で払った。四人分の水と食料の重しが地に落ちる。肩がふっと軽くなった。腰の短剣を抜く。ポーターに支給された刃こぼれだらけの安物だ。こんなもので甲殻は砕けない。だが隙間の奥の柔らかい場所を貫くだけならこれで足りる。要るのは力ではなく、置く場所と置く時だ。
魔物が跳んだ。
左前脚が地を蹴る。予想した通りの起こり。俺は突進の軌道から半歩だけ体をずらした。ぶつかりに行かない。すれ違う。巨体が真横を通り抜けるその刹那を待つ。熱い息と獣の匂いが頬をかすめた。
着地。体が右へひねられる。
脇腹の継ぎ目が、開いた。
俺は短剣をその一点へ差し込んだ。踏み込みも力みもいらなかった。魔物の勢いが刃を奥まで引き込んでいく。手応えは驚くほど軽かった。硬い殻を割ったのではない。開いた扉を通しただけだ。刃先が狙った柔らかい場所を正確に貫いていた。
自分でも少し驚いた。非力なはずのこの腕から、思ったよりずっと深く刃が通った。まるで刃の通り道があらかじめ引かれていたみたいだった。狙った一点へ、勝手に吸い込まれていくような感触。俺の腕がしたことより、目が見た通りに手が動いた、その正確さのほうが不思議だった。
◇ ◇ ◇
魔物が動きを止めた。
突進の勢いのまま数歩たたらを踏んで、それからぐらりと傾いだ。巨体が横倒しになる。岩室に地響きが轟いた。甲殻の下から黒い体液が流れ出す。太い脚が二度、三度と痙攣して、やがて動かなくなった。
輪郭が崩れていく。
牛ほどの巨体が端から粒子になってほどけていった。灰色の甲殻も太い爪も、さらさらと塵に変わって宙に溶ける。あとにはひとつ、魔石が岩の床に残された。低危険度のゲートで出るにしては、拳ほどもある大ぶりの石だった。格上の証だ。
俺は塵の跡へ歩み寄って魔石を拾い上げた。ずしりと重い。掌の中でまだほんのりと温かかった。変質種のものだ。これだけ大きければ、それなりの値がつくだろう。獲物を仕留めたのは俺だが、拾って持ち帰り、パーティに渡すのがポーターの仕事だ。俺は魔石を腰の回収袋に収めた。短剣を提げたまま、しばらくそこに立っていた。
勝った、という高ぶりはなかった。目の前にあった障害が消えた。ただそれだけの感覚だった。息を整える。手のひらの汗をズボンで拭った。心臓はまだ速い。だが頭の芯はまだ冷たく澄んだままだった。妹の飯代がまた一日分、生きて手に入る。今はそれで十分だった。
背後で物音がした。
振り返る。逃げたはずの四人が、岩室の入り口で立ち尽くしていた。逃げ切れずに様子をうかがっていたのか。あるいは俺が食われる音を確かめに戻ったのか。理由はどうでもよかった。
問題は、彼らの顔だった。
全員が口を半開きにして凍りついていた。前衛の大柄な男は腰を抜かしたまま尻をついている。奥の痩せた男は抜いた剣を握ったまま、それを使うことも忘れていた。そしてリーダー。俺を囮に投げ捨てて真っ先に逃げた男が、今は幽霊でも見たような顔をしていた。塵になった魔物の跡と俺の顔とを、何度も交互に見比べている。
「……あ、ありえねえ」
リーダーの唇が震えながらそう動いた。
「今の、なんだ……お前、E級だろ……E級が、あの変質種を、一撃で……?」
声はかすれて途中で消えた。ほかの三人も言葉を継げずにいた。誰も動かない。誰も瞬きすらしない。まるで岩室ごと時間が止まってしまったみたいだった。
ついさっきまで、この人たちは俺を道具として扱っていた。荷物持ちは黙ってろ。お前ごときに何が見える。ランク底辺が。そう言って笑い、危険を伝えても聞かず、いざとなれば俺を魔物の口へ突き飛ばして逃げた。その同じ顔が、今は言葉を失って俺を見上げている。俺という道具が、置いていったはずの場所で、格上の変質種を塵に変えていたからだ。
留飲を下げるような気持ちは、なぜか湧かなかった。ざまあみろとも思わなかった。ただ、彼らがなぜこんなに驚いているのか、それが分からなくて落ち着かなかった。
俺には、その反応の意味が分からなかった。
なぜそんなに驚くのだろう。あの魔物の脇腹には割れた継ぎ目があった。硬いのは表面だけで奥は柔らかい。突進で体をひねればそこが開く。開いた瞬間を狙って刃を置いておけばいい。力なんてほとんど要らなかった。難しいことは何もしていない。
あの継ぎ目ははっきり見えていた。魔物の動きの癖も、二度見れば分かった。だからそこを突いた。それだけのことだ。誰かに教わったわけでもない。特別なことをした覚えもない。目を開けていれば、そこにあったものを、そのまま拾っただけだった。
この人たちにだって、同じ岩室にいたのだから見えていたはずだった。継ぎ目も、動きの起こりも、開いた一瞬も。C級だD級だと言っていた人たちだ。俺よりずっと格上の目を持っているはずの人たちだ。それなのに、なぜ。
俺は短剣を鞘に戻しながら、四人の凍りついた顔を見回した。そして本気で分からずに、そう尋ねた。
「……なんで、そんなに驚くんだ?」
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