【第2話】妹には、言えない
「お兄ちゃん、おかえり! ねえねえ、覚醒どうだったの!?」
ドアを開けた瞬間、陽菜が廊下を駆けてきた。八つの体は軽い。俺の腰のあたりに頭からぶつかって、きらきらした目で見上げてくる。
この子には朝から話していた。兄ちゃんが強いスキルを手に入れて、明日から暮らしが楽になる。そう約束したのは俺のほうだった。
――査定不能。E級最下限。ハズレ。
その三つの言葉が、喉のところでつかえた。
「……まあまあ、かな」
俺は靴を脱ぎながら当たり障りのない答えを選んだ。
「まあまあって何ー? すごいやつ? しょぼいやつ?」
「んー。地味だけど、まあ使えるやつ」
嘘はついていない。たぶん。自分にそう言い訳した。査定はされなかった。ただ数字が低かっただけだ。使えるかどうかはこれから俺が決める。そういうことにした。
「ふーん。じゃあお祝いだね!」
陽菜がぱっと笑った。その顔を見ていると本当のことなんて、とても言えなかった。
俺と陽菜の家は、荒川区の町屋にある。下町の路地裏に建つ、古い木造アパート「月見荘」の二階だ。家賃が安いだけが取り柄の、狭い一室だった。
夕飯はもやしと卵の炒め物だった。卵は半額のシールが貼られていたやつだ。もやしは一袋二十円。それでも陽菜は「おいしい」と言った。行儀悪く足をぶらぶらさせながら食べた。
「今日ね、学校でハンターの授業あったんだよ。S級の人ってビルも壊せるんだって。お兄ちゃんもいつかそうなる?」
「どうかな。地道にやるよ」
俺は箸を動かしながら頭の中で数字を並べていた。家賃。光熱費。来月の学用品。今月残っている金は、もうほとんどない。覚醒に貯金を全部つぎ込んだ。強いスキルさえ出れば取り返せる。そのはずだった賭けに、俺は負けた。
それでも陽菜の茶碗には卵を多めに寄せてやる。この子が痩せていくことだけは絶対に避けたかった。両親はいない。三年前の事故から、この子の親代わりは俺だ。俺がしくじれば、この子ごと沈む。
「お兄ちゃん、明日からハンターさんになるの?」
「ああ。なる」
迷いはなかった。E級だろうが査定不能だろうが関係ない。スキルさえあればハンターにはなれる。そして今の俺に、金を稼げる道はそれしか残っていない。学歴も後ろ盾もない十八の男に、他の選択肢はなかった。
「かっこいい!」
陽菜は無邪気だった。ハンターがどれだけ危ない仕事か、この子はまだ知らない。知らなくていい。俺が稼いで、飯を食わせて、笑って眠らせる。それだけできれば十分だ。
陽菜が寝入ってから、俺はもう一度あの窓を呼び出してみた。合計六十。何度見ても変わらない。小さく息を吐いて消した。天井の染みを見上げる。この部屋の雨漏りの跡が、去年より少し広がっている。そんなことばかりが、やけにはっきり見えた。
◇ ◇ ◇
翌朝、俺は電車を乗り継いで、霞ヶ関の協会本部へ向かった。
ハンターとして働くには、資格の確認と派遣の手続きがいる。端末に登録証をかざすと、自分の情報が画面に開いた。ついでのように、俺は自分のスキルの項目に触れてみた。『観察』。世界が俺に押した烙印の、正式な中身だ。
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登録名称:観察
系統分類:知覚系/情報補助(下位)
戦闘適性:E(最低) ※実効値算出不能につき暫定
効果概要:対象を注視すると情報が段階的に開示される。ただし緩慢・曖昧で、
『鑑定』の完全下位互換と評価される。
推奨運用:索敵補助・目視査定等の非戦闘支援。優先配置非推奨。
特記事項:長期注視による追加効果の報告あり。有意な成果は確認されず検証は打ち切り。
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完全下位互換。検証は打ち切り。逃げ場のない言葉が並んでいた。誰かがこのスキルを真剣に使おうとして、そして諦めた。その記録がそのまま制度になっている。そういう文章だった。
画面の下に、小さくもう一つ項目があった。過去の保有者の記録らしい。俺は何の気なしにそれを開いた。
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<『観察』保有者・沿革(抜粋)>
No.017 ─ 戦闘適性の低さにより支援職へ転向。攻略実績なし。
No.041 ─ 数日で「効果が判然としない」と自己申告。補助要員。
No.058 ─ 【機密指定】以降の記録は非公開。──消息不明。
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017も041も、数日で見切りをつけていた。俺と同じスキルを引いて、同じように失望して別の道へ流れていったのだろう。責める気にはなれなかった。この結果を見せられて、なお潜ろうという人間のほうがどうかしている。
ただ一番下の一行だけが、少し引っかかった。
No.058。機密指定。消息不明。
なぜこの一人だけ記録が封じられているのか。俺には見当もつかなかった。だからすぐに忘れた。今の俺に関係のある話ではない。そう思って画面を閉じた。
手続きの列に並んでいる間も、周りのものが勝手に目に入ってきた。
前に立つ女性ハンターは右手首を細く庇っている。古い骨折の癒え方が悪い。斜め後ろの若い男は、装備こそ真新しいのに腰の剣に手を添える角度が定まらない。実戦の経験がほとんどない。奥のベテランらしき男は、経歴を語る声の抑揚が一箇所だけ不自然に平らになる。そこだけ、嘘だ。
昨日からずっとこうだった。誰の何が、俺には見えてしまう。見ようと思わなくても、そこに置いてあるものとして流れ込んでくる。
――なあ、これ、みんなには見えていないのか。
昨日、判定官に向けた疑問がまた胸の奥で疼いた。そんなはずはない。こんなにはっきり表に出ているものを、俺だけが見ているなんてあるわけがない。答えの出ない棘だけがじくじくと残った。
だが、今はそれどころではなかった。
派遣窓口で、俺はE級ハンターの現実を突きつけられた。
「E級への正規派遣は、今は出せませんね。ゲートは危険度順の割り当てなので。低危険度の枠も、D級以上で埋まっています」
職員は淡々と言った。悪意はない。ただ制度がそうなっている。ランクが低ければ、合法的に潜れる場所すら回ってこない。査定不能の俺には、そもそも危険度を測る物差しの上に乗る資格すらなかった。
「じゃあ、俺はどうすれば」
「民間のギルドを当たってみてください。ポーターなら、雇うところもあるかもしれません」
かもしれない。その頼りない一言が、今日の俺に許された唯一の道だった。
窓口を離れながら、俺はぼんやり考えた。制度は俺をE級と決めた。過去の保有者は全員、このスキルに見切りをつけた。そして俺自身、これが役に立つのかどうか、いまだに分かっていない。三方向から同じ答えが返ってくる。お前のスキルはハズレだ、と。なのに俺の目には、この職員が今日どこを痛めているかまで当たり前に映っている。噛み合わない。どこかで、何かが。だがそれが何なのか、俺にはまだ言葉にできなかった。
◇ ◇ ◇
協会を出ると、昼前の街は探索帰りのハンターで賑わっていた。
財布の中身を思い出す。今日中にいくらかでも金にしないと、明日の飯が危ない。もやしと卵さえ、そう何日も続けられるものではない。家では陽菜が俺の帰りを待っている。
立ち止まっている暇はなかった。雇ってくれる場所を探す。頭を下げてでも、潜れる場所に潜り込む。それしかない。
協会にほど近い新橋のビル街には、ギルドの看板がひしめいている。俺はその通りの先を見上げた。E級を、査定不能を、雇ってくれるところなどあるだろうか。
わからない。だが、わからないなら当たってみるしかない。断られたら次へ行く。それでも駄目なら、また次だ。頭を下げるのはただだ。妹が腹を空かせるよりずっといい。
俺は一番手前の扉に手をかけた。この目が何を映しているのか、その答えより先に、今日の飯代を掴まなければならなかった。
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