【第17話】同じゲート、違う速度
その現場は、〈天鱗〉の大型ゲートとは別の話だった。
熊沢が回してきたのは中危険度の中級ゲートだ。奥に生える薬草を根を傷めずに採ってきてほしい。ある薬師からの細かい注文だった。力任せに踏み込む連中にはまず頼めない。だから、こういう静かな仕事が〈月虹〉へ回ってくる。そして俺のところへ来る。場所は川崎の外れ。俺は朝のうちに一人で潜った。
中は乾いた岩の洞窟だった。だが入ってすぐ、先客がいるのに気づいた。
揃いの装備。胸の紋章。〈天鱗〉だ。桐生の姿はない。あの男は例の大型ゲートに張りついているのだろう。ここにいるのは別の一隊らしい。五、六人が奥へ続く一枚の扉の前で揃って手を焼いていた。
古い石の扉。表面に複雑な紋様が彫り込まれている。〈天鱗〉の連中はそれを力任せに叩いていた。斧で削り、体当たりで押し、力ずくでこじ開けようとする。だが、びくともしない。刃がこぼれ、汗だけが流れている。「くそ、なんだこの扉は」「壊せねえのか」。苛立った声が洞窟に低く反響していた。
俺は少し離れた岩陰から、その扉を見た。そしてすぐに分かった。
それは力で開く扉ではなかった。
表面の紋様は飾りではない。あれは、開くための条件だ。彫られた紋様のいくつかが周りの壁に穿たれた窪みと対応している。決まった順にその窪みへ触れれば、扉を内側から留めている術式がするりと解ける。そういう造りだ。叩いても壊れないのは当たり前だった。錠前を金槌で殴っているようなものだから。仕組みが見えれば、馬鹿馬鹿しいほど単純な話だ。だが、それが見えない者には鉄の壁と変わらない。〈天鱗〉の力は、この扉には一つも届いていなかった。
――もっとも、それは俺の仕事じゃない。
俺の目当ての薬草は、その扉のさらに奥にある。奥へ続く道は、その扉一枚きりだった。迂回路はない。薬草を採るには、俺もあの扉を抜けるしかなかった。
〈天鱗〉の連中が、いったん諦めて休憩に下がった。壁際に座り込み、水を呷る。俺はその隙をついて扉に近づいた。
一瞬、迷いはあった。ここで扉を開ければ、あの連中の仕事を横から片づけることになる。だが、そんな義理はない。俺は俺の薬草を採りに来ただけだ。それに、連中はどうせ自分たちで開けたと思い込む。誰の得にも損にもならない。俺は迷いを捨てた。
壁の窪みは六つ。紋様との対応は、もう頭の中にある。左上。右下。中央。左下。順に手のひらを押し当てていく。窪みの底で微かな光が、順に灯っては次へ渡っていく。最後の一つに触れた瞬間。石の扉が低い音を立てて内側へ開いた。
力は一切要らなかった。
俺は開いた扉をくぐり、奥へ進んだ。目当ての薬草は、湿った岩の陰に群れて生えていた。根を傷めないよう慎重に掘り起こす。袋に収める。それで用は済んだ。あとは帰るだけだ。
◇ ◇ ◇
戻ると、〈天鱗〉の連中が開いた扉を見上げて色めき立っていた。
「開いてる!? おい、誰が開けた」「さっきの、俺の一撃が効いたんじゃねえか」「いや、時間が経てば勝手に開く仕掛けだったのかもな」
誰も俺のほうは見ていなかった。岩陰から出てきた薬草採りのD級ソロ。そんなものが自分たちの手こずった扉を指先ひとつで開けたなどとは、考えもしない。想像の埒外なのだ。一人がふと俺に気づいて鼻で笑った。
「なんだお前、薬草採りか。邪魔だ、そこどけ」
俺は黙って道を空けた。〈天鱗〉が、開いた扉の奥へ勇んで進んでいく。
通り過ぎざま、連中の会話が耳に入った。「本隊のほうも、まだ手こずってるらしいぞ」「あの街のデカいやつか」「桐生さんでも、ああいう搦め手はな……」。なるほど、と思った。力の連中は、力の通じない相手には揃って足を止める。この扉と同じことが、あの大型ゲートでも起きている。
その先で、彼らは奥の主を仕留めるだろう。この中級ゲートの攻略は〈天鱗〉の手柄として記録に残る。扉を開けたのが誰かなんて、どこにも書かれない。
それでよかった。
俺の目当ては薬草だ。それはもう袋の中にある。熊沢のところへ持ち帰れば、約束の報酬が入る。陽菜にあたたかい飯を食わせてやれる。俺に必要なのは、それだけだった。手柄も、記録も、他人からの評価も、腹の足しにはならない。誰が扉を開けたかなんて、本当にどうでもいいことだった。
もっとも、そう割り切れるのは俺に欲がないからだろう。手柄を求める者にはたまらない話に違いない。開けたのは自分なのに、名も残らず、手にするのは薬草一袋きり。だが俺はその手の渇きをもう随分前に手放していた。腹さえ膨れればいい。妹が笑っていれば、それでいい。
――ただ一つだけ、気になることがあった。
扉の前を通り過ぎるとき、〈天鱗〉の一人が俺の背中をじっと見ていた。ほかの連中が沸く中で、その男だけが笑っていない。開くはずのなかった扉。そこへふらりと現れて、また出ていく無名のソロ。その二つを頭の中で必死に結びつけようとしている目だった。この手の目には覚えがある。真実に半分だけ手が届きかけた人間の目だ。
◇ ◇ ◇
数日後。〈月虹〉に薬草の報酬を受け取りに寄ると、熊沢が妙なことを言った。
「お前、〈天鱗〉に何かしたか」
「いえ。何も」
「そうか」熊沢は茶をすすった。「……この頃な、あそこの連中がお前のことを嗅ぎ回ってるらしい。〈月虹〉のソロってのは何者だ、ってな。しかも、ただの下っ端じゃねえ。桐生。あのエースがじきじきに聞いて回ってるって噂だ」
俺は少し考えて首を振った。心当たりはない。……いや、あるにはある。あの扉の一件だ。だが、あれで俺だと気づいた者はいなかったはずだ。あの笑わなかった一人を除いては。
熊沢は湯呑みの縁越しに俺をじっと見た。
「厄介ごとには巻き込まれるなよ。……まあ、お前は放っといても、そういう星の下にいるみたいだがな」
俺は曖昧にうなずいた。厄介ごとになる気はない。俺はただ静かに潜って、静かに帰りたいだけだ。それだけのことが、どうしてこうも難しいのだろう。
◇ ◇ ◇
その桐生が率いる〈天鱗〉の本隊のほうにも、界隈の噂は流れ始めていた。
あの大型ゲート。街のすぐそばに開いた、高危険度の複合型。その攻略が難航しているという。内部の仕掛けが想像以上に手強いらしい。力自慢の〈天鱗〉が、あちこちで足を止められ無駄に消耗している。委託を受けた最上位の精鋭がこうも手間取るとは。誰もが少しずつ不安な顔をし始めていた。
氾濫までの残り時間。街の掲示に灯る赤い数字は、もう半分を切ったと聞いた。
俺は、あの日、見取り図から読み取ったものを思い出していた。広く、幾重にも入り組んだあの造り。力で押せば、必ずどこかで足が止まる。時間を食う。俺の予感は当たりかけていた。
街の空気も、日ごとに重くなっていた。ゲート近くの住人には、避難の準備という話も出始めているらしい。もし〈天鱗〉が間に合わなければ、その先に待つのは氾濫だ。四十年前の厄災の、小さな再来。誰もそれを口には出さない。だが、掲示の赤い数字を見上げる目は日に日に増えていた。
だが、それは俺の出る幕じゃない。〈天鱗〉が守るゲートだ。俺には関係のない話だった。そのはずだ。
――そのはずなのに。あの赤い数字が減っていくことだけが、なぜだろう、少しずつ他人事には思えなくなっていた。
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