【第18話】数字が、合わない
その日、俺は協会本部の窓口にいた。
新しい依頼を受けるには、資格の確認がいる。半年に一度の形ばかりの手続きだ。俺は登録証を機械にかざした。いつもなら数十秒で終わる。番号を呼ばれ、判子をもらう。それで仕舞い。すぐ済むはずだった。
だが、端末を見た若い職員の手が途中で止まった。眉が寄る。画面を上へ下へと繰りながら何かを確かめている。
「……相馬さん。少し、よろしいですか」
職員は画面と俺の顔を何度も見比べた。
「あなたの攻略記録なんですが。……その、妙なんです」
声が落ちた。
「この半年ほどの単独攻略。件数もですが、中身がおかしい。危険度も踏破の速度もD級のものとは思えません。ここを見てください。三パーティが匙を投げた中級のギミック型。あなたは単独で一時間かからず抜けている。こっちもです。大手が数日かけた型を、その半分以下で。しかも負傷の申告はほとんどゼロ。回復薬の消費もない」
俺は黙って聞いていた。並べられると、確かに妙な数字ではあった。
「これ、本当にお一人で?」
「一人です」
「応援は。ほかのパーティが主を釣り出したとか。誰かが先に仕掛けを解いておいたとか」
「いません。全部、俺だけです」
職員は困った顔をした。俺を疑っているというより、目の前の数字が信じられないという顔だ。
「ランクと実績がまるで釣り合わない。こんな事例、見たことがありません。D級で、これは……ありえない」
俺は、また同じ言葉を聞いていた。
ありえない。まぐれ。運がいい。この手のやりとりにはもう慣れきっていた。俺の記録はいつも俺のランクからはみ出している。誰かがそれを見つけては不審がる。だが説明のしようがない。見えたから抜けた。そうとしか言えない。そしてそれはいつだって、理由にはならなかった。ランクという一行の壁は、こんな窓口の内側にまできちんと立っている。
「まあ、いいです」職員は結局そう言って手続きを進めた。だが、その手つきはどこか歯切れが悪い。「記録は記録ですから、受理はします。ただ、こういう合わない数字は上に報告が上がることもあります。監査のほうへ。ご承知おきください」
監査。その言葉に、俺は少しだけ耳を止めた。だが、それだけだった。
ただ、以前とは少し違うことがあった。前なら、この手の食い違いはその場で笑い話にされて消えた。だが今日の職員は笑わなかった。真面目な顔で、それを"報告"だと言った。俺の知らないところで、小さな食い違いが一つずつどこかに積もっているのかもしれない。ふと、そんな気がした。
俺はうなずいて登録証を受け取った。上がどうしようと、俺の知ったことではない。今日の依頼を受け、報酬をもらい、陽菜のところへ帰る。俺に必要なのは、それだけだ。数字が合おうが合うまいが、腹の足しには関係がなかった。
◇ ◇ ◇
俺の知らないところで、歯車は静かに動き始めていた。
協会本部のある一室。扉に監査部と記されたその部屋の机に、一通の報告書が回されてきた。〈月虹〉所属、D級・相馬湊。ランクと実績の解消しがたい食い違い。それは、これまで何度か上がっては査定の誤差として流されてきた、あの案件のまた新しい一葉だった。
その報告を、一人の調査官が手に取った。
冴島律。冷徹で正確と恐れられる監査部の調査官だ。彼女は鑑定を鵜呑みにしない。信じるのは目の前の証拠だけ。そして証拠はこう言っていた。この男の実績は、その数字ではどうにも説明がつかない。
なぜ彼女ひとりがこの束を捨てないのか。理由は誰にも話したことがない。ただ、数字がその人間の価値を決めるとはどうしても思えなかった。だから彼女は、はみ出した数字を誤差の一言では葬らない。
以前、一度だけこの名前に目を留めたことがある。あのときは頭の隅に置いただけだった。だが、同じ名前がまた来た。誤差は二度は続かない。まして三度、四度とは。
冴島は、その一葉をこれまでの分と静かに重ねた。束は思っていたより厚くなっている。彼女はそれを机の引き出しへ収めた。まだ動くときではない。証拠が、まだ足りない。だが――遠くない。この束が、いつか一つの結論を指し示す日は。
◇ ◇ ◇
その頃、街はもう一つの数字に気を揉んでいた。
例の大型ゲート。〈天鱗〉に委託された、街のすぐそばの高危険度・複合型。その攻略がいよいよ立ち行かなくなっていた。
〈月虹〉に戻ると、熊沢がいつになく難しい顔をしていた。カウンターに肘をつき、界隈の報せを低い声で聞かせてくれる。
「〈天鱗〉が、完全に詰まったらしい」
「詰まった?」
「ああ。最奥のでかい大部屋だ。そこのギミックに丸ごとやられてる。何度突っ込んでも跳ね返される。桐生の力押しが、まるで効かねえ相手だとよ。……力自慢の精鋭が、揃って手も足も出ねえ」
熊沢は湯呑みを置いた。茶はとっくに冷めていた。
「氾濫までのタイマーが、もう赤に近いってな。撤退して別の隊で仕切り直す時間も、たぶんもうない。かといって続けても抜ける当てがねえ。……このままだと間に合わねえ。あの街に、氾濫が来る」
店の中が、しんとした。
「〈天鱗〉にも面子ってもんがある。おいそれと他所に助けは求めやしねえ。だが、面子と街と、どっちが重いかって話だ。……上のほうも、そろそろ肚を決めるだろうよ。ランクなんざ言ってられねえ、抜ける奴に頼むしかねえ、ってな」
熊沢はちらりと俺を見た。だが、それ以上は言わなかった。その視線の意味は分かっていた。分かっていて、俺は気づかないふりをした。
◇ ◇ ◇
その夜。月見荘へ帰ると、陽菜がいつものように駆けてきた。
「お兄ちゃん、おかえり!」
「ただいま」
あたたかい部屋。もやしと卵の匂い。この子のなんでもない笑顔。俺が毎日、命を張って守っているささやかな景色だ。
だが、その夜はなぜか箸が進まなかった。
あの大型ゲートの後ろにも、こういう景色があるのだ。何万もの、俺と陽菜のような暮らしが。あの赤い数字が尽きれば、溢れた魔物がその一つ一つの食卓へなだれ込む。守る者のいなくなった、無数の月見荘へ。もしこの街が、この月見荘の建つ街だったら。もし、あの向こうにいるのが陽菜だったら。考えたくもない。だが、その街の誰かにとって、それは今まさに現実になりかけている。
そこまで考えて、俺は箸を止めた。
「お兄ちゃん、どうしたの? 食べないの?」
陽菜が俺の顔を覗き込んでいた。俺は慌てて箸を動かし、少しだけ笑ってみせた。
「なんでもない。ちょっと、仕事のことを考えてただけだ」
この子には、こんな話は聞かせない。街が一つ危ないなんて、八つの子が背負うことじゃない。だが、その笑顔の裏で、俺の頭はもう勝手に動き続けていた。
関係ない。俺には関係のない話だ。〈天鱗〉が引き受けたゲートだ。俺が口を出す筋合いは、どこにもない。そう、思おうとした。
だが、頭の中ではもう、あの複合型の造りが勝手に組み上がり始めていた。説明会で一度見ただけの粗い見取り図。それを手がかりに、俺の目は力の連中が足を止める一点を、勝手に探し始めている。どこで詰まるか。どこを、どう抜ければいいか。見えて、しまっていた。止めようとしても、目のほうは止まらない。それがこの《観察》という代物だった。
――俺の出る幕じゃない。そのはずだ。
そのはずなのに。あの遠い赤い数字が、俺をじっと見ているような気がしてならなかった。
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