【第15話】見え方が、変わってきた
最近、ゲートに潜るのが楽になった。以前とは比べものにならないほどに。
その日の現場は多摩の低危険度ゲートだった。中は前にも似た型を抜けた洞窟型。入り口をくぐった瞬間、頭の中にこの場所の地図が勝手に引かれた。魔物の巡回。最短の順路。天井の脆い箇所。全部が見た瞬間に像を結ぶ。立ち止まって見つめる必要はもうなかった。
途中、岩陰から蜥蜴型の魔物が飛び出してきた。前にも何度か見た型だ。喉の下の鱗が一枚だけ薄い。跳ぶ前には必ず尾で一度地を叩く。その二つを俺の目は見るより先に思い出していた。尾が地を打つ。跳ねる。その喉元へ短刀を置いておくだけでよかった。一撃で終わる。考えるより体が先に動いていた。
覚醒したての頃はこうじゃなかった。あの頃は一匹の弱点を読むのにじっと目を凝らして、何十秒もかかった。初めて見る仕掛けの前では途方に暮れた。だが今は、見慣れた型なら一瞬だ。一度見たものは、二度目からは置いてある答えを拾うように速く読める。潜るほど初めて見るものが減っていく。その分だけ攻略は速くなった。積み重ねた地味な観察が、あとから利子をつけて返ってくる。そんな感覚だった。
それだけではない。見える"深さ"も変わっていた。
以前は魔物の表面しか見えなかった。姿勢。古傷。筋肉の張り。今はその奥まで見える。体がどう連動して動くのか。力がどこをどう伝わるのか。剣士ならその癖が骨のどこから来ているのか。魔法陣なら術式の組み立てと破綻する節まで。表面から、その一枚下へ。俺の目はいつの間にかそこまで潜るようになっていた。
この前など街ですれ違っただけの剣士の癖まで勝手に見えた。肩の詰まり。踏み込みの浅さ。体のどこに無理が溜まっているか、線を引くように分かってしまう。見ようとしたわけでもないのに向こうから流れ込んでくる。
少し前に攻略した、あのギミックの神殿を思い出す。三つのパーティが匙を投げた仕掛けだ。あのときはじっくり見て、ようやく全体の流れを掴んだ。だが今なら、たぶん入り口に立った時点で大筋が読める。それくらい目が速くなっていた。
その日の洞窟も半分の時間で攻略した。最深部の主でさえ、見た瞬間に崩れる順番が分かる。以前なら動きを何度か見てから探った急所を、今は初撃で突ける。速さも深さも、勝手に伸びていく。手綱を握っているのが自分なのか、それとも目のほうなのか。時々、分からなくなるほどに。
ゲートを出て、俺はふと足を止めた。
前は、こうじゃなかった。いつからだろう。見える範囲が少しずつ、だが確実に広がっている。深くなっている。まるで目そのものが俺の知らないところで勝手に育っているみたいだった。
……気のせいだ、と思い直す。潜るほど慣れるほど見えるものは増える。それだけのことだろう。誰だって場数を踏めば多少は目が利くようになる。俺のはその延長にすぎない。そう言い聞かせてまた歩き出した。深く考えたところで腹は膨れない。
◇ ◇ ◇
〈月虹〉の仕事は割がよかった。熊沢は抜いた分だけきっちり払ってくれる。回してくるのは難物ばかりだが、その分、実入りも大きかった。詰所で薄い報酬を握らされていた頃とは、暮らしの手応えがまるで違う。綱渡りだった家計に少しだけ余裕が生まれていた。
その夜、月見荘の食卓には久しぶりに鍋が並んだ。
陽菜が湯気の向こうで目を輝かせている。
「お兄ちゃん、お肉いっぱいだね!」
白菜も豆腐も遠慮なく入れられる。しめじだって一パック丸ごとだ。もやしを二人で分け合っていた頃を思えば、ずいぶん遠くまで来たものだと思う。
「あのね、学校で新しい上履き、みんなに見せたんだよ。真っ白なやつ」
陽菜が少し照れくさそうに言った。俺は湯気の奥のその顔を見ながら、そうかとだけ答えた。たいしたことは言えなかった。ただこの子の暮らしが、少しずつ上向いている。その事実だけで胸のあたりが静かに満ちていく。
守りたかったのは、これだ。この目が金になろうがなるまいが関係ない。この食卓を守れるだけの稼ぎになるなら、それでいい。俺の観察がどこまで深くなろうと、行き着く先はたぶんいつもこの温かい湯気の前だった。
陽菜が俺の取り皿にこっそり肉を寄せてくる。昔、俺があの子にしてやっていたのと同じ手つきで。俺は気づかないふりをして、それを食べた。ほんの少し前まで逆のことをしていたのだと思うと、少しだけおかしかった。
◇ ◇ ◇
噂のせいか、〈月虹〉には少しずつ人が出入りするようになっていた。閑古鳥の鳴いていた店に、ぽつぽつと依頼が持ち込まれている。若いハンターの姿もちらほら見えた。熊沢の横顔は以前より少しだけ張りがあるように見える。
その日、魔石を届けに寄ると、熊沢が俺の攻略記録をちらりと見て片眉を上げた。
「お前、また速くなってねえか」
「そうですかね」
「そうだよ。先月、同じ型を抜いたときより四割は速い。……だんだん化けもんじみてきやがるな」
褒めているのか呆れているのか、分からない口ぶりだった。俺は曖昧にうなずいた。速くなった自覚は正直あった。だがそれも場数を踏んだ分だと思っていた。
番茶を待つ間、店の隅で若いハンターが一人、熊沢を相手に潜ったばかりの現場の話をしていた。ずいぶん手こずったらしい。硬い甲殻の大型の魔物。何度も斬りつけてようやく仕留めたと興奮気味に語っている。
俺は何の気なしに口を挟んだ。
「その魔物、右の後ろ脚の関節が噛み合ってなかっただろ。そこだけ庇うから、右へ回り込めば腹ががら空きになる。斬り合わなくても一突きで済んだと思うぞ」
若いハンターが、ぴたりと黙った。
「……なんで、それを」
「え?」
「あんた、あの現場にいなかっただろ。俺とも今日が初対面だ。なのに、なんであいつの脚のことまで……」
男の顔から血の気が引いていた。まるで、見てはいけないものを見た、とでもいうように。
「そんなの、見えるわけがないだろ。話をちょっと聞いただけで、あいつのどこが弱いかなんて……あんた、何者だ」
カウンターの奥で、熊沢が茶をすすりながらこちらを見た。何も言わない。だがその目は、俺が口を開くたびに周りがこうなるのを、もう何度か見てきたという顔だった。慣れたというより、黙って飲み込んだという顔だ。
俺は戸惑った。
その手の魔物なら、右の関節が弱いのは見ればすぐ分かる。同じ型を俺は何度も抜けてきた。だから話を聞けばあいつの動きも弱点も、だいたい像を結ぶ。難しいことは何も言っていない。……なのに、なぜこの男はそんな顔をするんだ。
俺は依頼票だけ受け取って、店を出た。若いハンターの視線が背中に張りついたままだった。畏れと、うっすらとした敵意。その両方が混じった目だ。
覚醒判定の、あの日と同じだった。俺に当たり前に見えているものが、この男にはまるで見えていない。あの頃からその落差だけは何ひとつ変わっていない。
いや、と俺は思い直す。一つだけ、変わったことがあった。
最近になって、その落差に気づく者が増えている。俺を見る目に時折この男と同じ色が混じるようになった。得体の知れないものを見る、あの目だ。まだ狭い界隈の中だけのことだ。だが、その視線は確実に増えていた。
俺の目が深くなるほど、俺を見るその目もまた増えていくのかもしれない。なぜだか、ふとそんな気がした。
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