【第13話】誰も抜けない部屋
西多摩の山中に、そのゲートは口を開けていた。
中は石造りの古い建物のようだった。ダンジョンが現実の何かを模して生まれることはよくある。ここは朽ちた神殿か祭祀場に似ていた。冷えた石の廊下。等間隔に並ぶ石柱。床にも壁にも薄く魔法陣が彫り込まれている。淡い光がその溝の底で脈打つように明滅していた。人の手が作ったものではない。ダンジョンがそれらしく生み出した紛い物だ。だが造りそのものは不気味なほど精巧だった。
入ってすぐ、三つのパーティが引き返した痕跡があちこちに転がっていた。放り出された荷袋。切れたロープ。焦げ跡の残る松明。少し先では廊下の床が四角く抜け落ちて、底の見えない闇が口を開けている。誰かがあそこへ落ちかけたのだ。生きて戻れたなら、まだいい。
残された装備は、どれも安物ではなかった。力自慢の素人が来て沈んだ現場ではない。それなりに腕の立つ連中が、揃って匙を投げていったのだ。だからこそ、うちのような弱小に話が回ってきた。熊沢の言葉が頭の隅をよぎった。
俺は入り口で足を止めてただ見た。
しばらくすると、この場所の"造り"が頭の中に像を結び始めた。
床と壁の魔法陣は、ばらばらに彫られているのではなかった。細い溝が一本の流れでつながっている。淡い光はその流れを巡る力だ。一つの陣が別の陣へ、また別の陣へと順に力を送っている。装飾ではない。これはひとつの巨大な仕掛けだった。祭祀場を模した罠そのものの空間だ。
仕組みが少しずつ解けていく。
誰かが陣の一つを踏むと、力の流れが乱れる。その乱れが連鎖して、あちこちの陣を次々に起動させる。ある陣は床を抜く。ある陣は壁を動かして道を塞ぐ。ある陣は廊下を照らす淡い光を一斉に吸い上げて消す。床が抜ける。道が塞がる。灯りが消える。熊沢の言った三つの異変は、別々の怪異ではなかった。たった一つの仕掛けが見せる三つの顔だ。
三つのパーティは、それぞれ違う異変に躓いて引き返したのだろう。床に落ちかけた者。道に阻まれた者。闇に呑まれた者。誰一人、その三つが同じ根から生えていることに気づかなかった。目の前の一つの異変だけを見て、全体を見なかった。見えるものと、見えないもの。その差が、この部屋では生死を分けていた。
三つのパーティは、この連鎖に呑まれたのだろう。暗闇の中で足元が抜け、行く手が塞がる。混乱すればするほど闇雲に動いて、また次の陣を踏む。恐怖が次の恐怖を呼ぶ。パニックそのものが罠を育てる仕組みになっていた。力自慢のパーティほど力任せに進んで、深く嵌まる。よくできた仕掛けだと思う。
だが、成り立ちが見えれば話は変わる。
俺は力の流れを目で丹念にたどった。どの陣が生きていて、どの陣が今は死んでいるか。踏んでも連鎖を起こさない"沈黙した節"が、点々と道をつないでいる。乱れを生まない一本の順路。それが光の流れの隙間にうっすらと浮かんで見えた。まるで地図でも渡されたようにはっきりと。
あとは、その通りに歩くだけだ。
最初の一歩を、生きた陣を避けて沈黙した石の上に置く。何も起きない。次の一歩。また次。淡い光の流れを読みながら、乱れを生まない順に石を選んで進んでいく。一歩ごとに、背後で罠が息をひそめているのが分かった。だが踏まなければ牙は剥かれない。理屈はそれだけだ。
一度、行く手をふさぐように生きた陣が狭い通路いっぱいに並んだ。踏まずに通れる隙間はほとんどない。だが、よく見ればその真ん中の一つだけが、力の流れから外れて死んでいた。周りを起こさぬよう、俺はその死んだ一点だけに爪先を置いて体を通した。背後で、何も起きなかった。
途中で一度だけ、廊下の光が一斉に消えた。先に潜った誰かがどこかで陣を起こしたまま去ったのだろう。その名残がまだ生きていた。闇が落ちる。松明もない俺の視界を、完全な暗黒が包んだ。
だが、俺の足は止まらなかった。
光が消えても、床の溝を巡る力の脈はかすかに見えている。淡く灯る術式の線が、闇の中に道を描いていた。目に映る明るさなど初めから当てにしていない。俺が頼るのは仕掛けそのものの成り立ちだ。それは灯りが消えても消えなかった。俺は闇の中を淡々と歩き続けた。三つのパーティを呑んだ暗闇も、俺にとってはただの暗闇でしかなかった。
◇ ◇ ◇
順路の終わりに、円い広間があった。
中央にひときわ大きな魔法陣。すべての流れがそこへ集まっている。仕掛けの心臓だ。その上に、石でできた人形のような魔物がこちらを見下ろして立っていた。この広間の主。三つのパーティがついに一度も辿り着けなかった場所だ。
主が重い腕を振り上げる。
だが、俺にはもうその体の成り立ちも見えていた。石の関節をつなぐ力の芯。首の後ろから右肩の付け根へ。そこを走る一本の脈が、この人形を動かしている。そこを断てば止まる。難しい話ではない。仕掛けと同じことだ。
振り下ろされる腕を半歩で外し、俺は懐へ入った。短刀を力の芯の一点へ滑り込ませる。石の体が、糸の切れた人形のようにその場へ崩れ落ちた。
中央の魔法陣の光がすっと引いていく。連動していた仕掛けが一斉に沈黙した。床の溝の脈も壁の淡い光も、静かに消えていく。攻略完了。ダンジョンが役目を終えて閉じ始めた。
三つのパーティが抜けられなかった部屋を、俺はたぶん一時間もかけずに抜けていた。
◇ ◇ ◇
〈月虹〉に戻って、攻略の報告をした。
熊沢は俺の話を黙って聞いていた。攻略にかかった時間。仕掛けの仕組み。三つの異変が一つの仕掛けだったこと。聞き終えて、しばらく口をつぐんでいた。
「……三つのパーティが、ひと月かけて糸口も掴めなかった仕掛けを」
熊沢は机の上の依頼票を見下ろした。
「お前は一目で読んだってのか」
「一目、というわけでは。少し見ていれば分かります」
俺は正直にそう答えた。難しいことをした覚えはない。仕掛けは必ず何かで成り立っている。成り立ちが見えれば通り方も分かる。ただそれだけのことだった。だが熊沢の顔には、腑に落ちないという色がありありと浮かんでいた。俺の"それだけ"は、この人にとってはそれだけではないらしい。
熊沢は何か言いかけて、やめた。それから約束通りの報酬を、きっちり数えて机に置いた。出来高払い。抜いた分だけ。その額は、詰所で回されてきた低危険度の仕事とは桁が違った。
俺はその報酬を受け取った。ここでは俺の仕事が、そのまま値になる。それがじんわりと胸に染みた。
帰り道、俺はぼんやりと考えた。あの仕掛けの成り立ちが、以前よりずっと速く深く見えた。表面の異変から、その奥の一本の流れまで。俺の目は確かに変わり続けている。前はこうではなかった。だが、まあいい。見えるものが増えて、困ることはない。増えた分だけ、陽菜に食わせてやれる。今はそれで十分だった。
◇ ◇ ◇
その日から、〈月虹〉には少しずつ妙な仕事が持ち込まれるようになった。どこも手を焼いた厄介な現場ばかり。熊沢がどこかで俺のことを吹聴した様子はない。だが噂というのは、こういうときだけやけに足が速い。
――〈月虹〉に、妙なソロがいる。誰も抜けない部屋を、一人で抜けていくやつが。
その声は、まだ狭い界隈のほんの片隅のものだった。だが確かに、俺の知らないところで何かが静かに動き始めていた。
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