【第11話】秒針のあるダンジョン
ゲートの脇に立つ電光掲示に、赤い数字が灯っていた。
――氾濫まで、残り十六時間。
協会が開いたゲートすべてに掲げる、爆弾の秒針だ。ダンジョンは口を開けたその瞬間から時を刻み始める。放っておけば、いずれ中の魔物が現実側へ溢れ出す。氾濫。街を丸ごと飲む災害だ。だから協会は危険度を測り、残り時間を掲げ、期限が切れる前の攻略をハンターに競わせる。危険度の高いゲートほど、この秒針の進みは速く容赦がない。数時間で氾濫に至るものもある。逆に今日のような低危険度のゲートは猶予もそれなりに長い。誰がどれだけ速く安全に抜くか。この世界では、その速さがそのまま金になる。同時に命にもなる。時間切れの迫ったゲートに残された者は、溢れ出す魔物に飲まれて終わるからだ。
掲示の前ではいつも誰かが時間を睨んでいる。パーティを組み、装備を確かめ、少しでも速い攻略を狙って気を張る。ここは戦場であると同時に、秒針との競走場でもあった。
今日の現場は板橋の外れ。廃線跡へ潜り込んだような、暗いトンネル型の低危険度ゲートだ。D級ソロの俺に回ってくるのは、いつもこの手の地味な仕事だった。残り十六時間。十分すぎる。俺は掲示に背を向けてゲートをくぐった。
中に入って少しだけ立ち止まる。ただ見た。
湿ったコンクリートの匂い。崩れた枕木。奥へ続く二本のレールが闇の中でかすかに濡れて光っている。天井の亀裂の走り方。壁の染みの広がり。頬をかすめるわずかな空気の流れ。それだけでこのダンジョンの造りが頭の中に組み上がっていく。空気はいつも出口の少ない奥から手前へ流れる。ならば流れをさかのぼれば最短で主のもとへ着く。魔物がどこに何匹、どんな順で巡回しているのかも、見えたものから勝手に地図になった。
以前よりずっと速い。同じ型のダンジョンは、もう何度も見てきた。見慣れたものは一瞬で読める。潜り始めの頃の、じっと見つめてやっと像を結ぶあの遅さは、もうどこにもない。目が勝手に近道を引いてくれる。
俺は最短の一本を選んで歩き出した。
最初の魔物は、レールの継ぎ目にうずくまる犬型の群れだった。光を嫌う。巡回の周期は一定で、先頭が振り返る一瞬に後続の視線が切れる。その隙間を縫えば起こさずに抜けられる。俺は足音を殺して群れの脇をすり抜けた。一匹も気づかせない。倒す必要のないものを倒すのは、ただの時間の無駄だ。戦うより通り抜けるほうが速い。
崩れかけた連絡通路には、古い魔法陣が床にうっすらと残っていた。踏めば起動する足止めの罠だ。だが俺の目にはその術式の組み立てまで見えている。どの線が起点で、光がどの順に巡り、どこを踏めば発動するのか。成り立ちが見えれば避けるのは難しくない。俺は陣の死んでいる一角だけを選んで静かにまたいだ。何も起きなかった。以前ならこんな仕掛けは踏むまで気づけなかったはずだ。目が少しずつ奥まで届くようになっている。
避けられない一体だけ始末した。狭い通路をふさぐ主だ。甲殻に覆われた大型だが、俺の目にはその継ぎ目まで見えていた。硬いのは外側だけ。関節の内で、殻の合わせが浅くなる一点がある。突進の起こりに合わせて半歩だけ体をずらし、開いた隙間へ短刀を通す。それで終わりだった。力はほとんど要らない。要るのは刃を置く場所と、置く時だけだ。
最深部の主も同じだった。
外殻の連動。魔力の巡る順路。動作の起こり。そしてその仕組みが破綻する一点。全部が開いた設計図のように見えている。以前は表面の傷や癖だけだった。だがこの頃は、その奥の"どう成り立っているか"まで見える。成り立ちが見えれば壊し方も分かる。俺は破綻する一点へ最小の手数で刃を届かせた。主が塵になり、ダンジョンの空気がふっと軽くなる。攻略完了。ゲートが静かに閉じていく気配がした。
外に出ると、潜ってからまだ二時間と経っていなかった。この規模のトンネルなら、普通は数人がかりで数時間はかかる仕事だ。それを一人で、二時間。残り十四時間を切ったばかりの秒針を、気にする必要すらなかった。我ながら悪くない速さだと思った。誰に見せるでもないが。
◇ ◇ ◇
協会の詰所で、攻略の報告を上げた。
受付の職員は、俺の登録証と攻略記録を何度か見比べて眉を寄せた。
「……D級。ソロ。二時間で、主まで。本当に一人で?」
「一人です」
「応援は。誰かが先に主を釣り出してたとか」
「いません。俺だけです」
職員は納得のいかない顔のまま、それでも規定通りの報酬を弾き出した。低危険度ゲートの決まった額だ。攻略は確かに済んでいる。ごまかされてはいない。だが、それだけだった。単独で、桁違いに速く無傷で攻略した。その中身は記録の上ではただの「D級・攻略一件」に丸められる。速さも、危険度以上の内実も、どこにも残らない。だから次の割のいい仕事につながることもなかった。
俺は黙って報酬を受け取った。文句を言う筋合いはない。低危険度のゲートは、低危険度のぶんしか払われない。当たり前のことだ。ただ、俺が本当はもっと難しい現場も抜けられることを、この人たちは知らない。そしてそれを証明する手立ても、俺にはなかった。ランクという一行の壁は、D級になった今も同じ高さでそこに立っていた。俺に回ってくるのは、いつまでもこの手の小さな仕事だけだ。
いつものことだ。俺は報酬を財布に押し込んで詰所を出ようとした。
その背に、しゃがれた声がかかった。
「兄ちゃん」
順番待ちの長椅子に、古傷だらけの老ハンターが腰かけていた。さっきのやり取りを聞くともなく聞いていたらしい。
「そんなに一人でやれる口ぶりじゃねえか。……〈月虹〉にでも顔を出してみな」
「げっこう?」
「新宿の外れの、しけた小ギルドさ。店主が変わり者でな。ランクじゃなく仕事の中身で人を使う。お前さんみたいに、数字と中身の釣り合わねえ半端者にはちょうどいいかもしれんぞ」
老人はそれだけ言うと、また前を向いた。俺は短く礼を言って詰所を出た。〈月虹〉。聞いたことのない名だ。だが、その響きだけがなぜか耳の奥に残った。
◇ ◇ ◇
その夜、月見荘に帰ると、陽菜が廊下を駆けてきた。
「お兄ちゃん、おかえり! 今日も無事だった?」
「ああ。かすり傷ひとつない」
俺はいつも無傷で帰る。危ない橋は渡らない。渡らずに勝てる潜り方を選んでいるからだ。この子に嘘をつかず「無事だ」と言えることが、俺の仕事の合格ラインだった。
夕飯は卵ともやしの炒め物。それに今日は焼き魚が一切れついた。大した稼ぎではないが、これくらいは並べられる。陽菜は「お魚だ」と目を輝かせて箸を伸ばした。その顔を見ていると、詰所での疑わしげな目のことも、どうでもよくなっていく。今日もこの子に温かい飯を食わせられた。俺の仕事の意味は、たぶんそれだけで足りている。
だが、と俺は思う。
この暮らしを、もう少しだけ確かなものにしたい。来月の家賃。陽菜の学用品。ぎりぎりで回している今の稼ぎでは、何かひとつ狂えばすぐに揺らぐ。ソロは気楽だ。奪われも囮にもされない。だが、無名のD級が一人でこなせる仕事には、はっきりした天井があった。割のいい現場は、実績と信用のある者へ回っていく。俺にはまだその両方がなかった。実績を正しく買ってくれる場所さえあれば。そう思わずにはいられなかった。
◇ ◇ ◇
翌日、俺は教わった名前を頼りに新宿の外れへ足を運んだ。
行くだけならただだ。ランクを見ず、仕事の中身で人を使う。その一点だけで、これまでどの窓口にもなかった場所だった。無名のD級にも手が届くかもしれない。半信半疑のまま、俺は細い路地を奥へ入っていった。
〈月虹〉はその突き当たりにあった。古い雑居ビルの一階。看板は塗装が剥げ、〈月〉の字が半分消えかけている。ガラス戸には「貸室あり」の紙が隣り合わせに貼られていて、いつ畳んでもおかしくない店に見えた。大手の華やかな事務所とは、何もかもが逆だ。
ちょうど、店の中から一人の男が出てきた。
四十がらみのがっしりした体つき。だが歩くたびに右の膝をわずかにかばっている。古い故障だ。もう長く前線には立っていない体だった。それでいて目つきだけは現役の頃の鋭さを残している。かつてはそれなりに潜った男だ。俺の目には、そこまでが一目で見えた。この店の店主だろう、と思った。
男は俺に気づくと、値踏みするでもなくただ真っ直ぐこちらを見た。
「――うちに、何か用か」
低く、無駄のない声だった。
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