9:やってしまった
「理桜、山神さん、お疲れ様です。特に異変はないですか?」
何気に二階に上がるのは初めてのこと。
がらんとして物のないロビーを左手に曲がると、すぐに二人の姿が視界に映った。
お世辞にも仲のいい雰囲気とは言えず、特に山神は気まずそうに理桜から距離を取っている。
理桜の方は一見怒っているような仏頂面だったが、長年連れ添ってきた私にはわかる。これは怒っているのでなくめちゃくちゃ緊張しているのだ。
おそらく今更ながら、彼女は男と一晩一緒に過ごすことを理解したのだろう。
忍者の中には篭絡術を得意とする一族もいるが、伏見家はゴリゴリの武闘派一族。基本的に戦闘訓練しかしていないため、男性経験は皆無だ。
もちろん里には男の忍者も多数いるが、プライベートの時間で理桜が彼らと一緒にいることはほぼない。プライベートな時間がほぼないというのもあるが、それ以上に私が彼女の隣を独占しているから。まあ、プライベートに限らず任務も私が同行しているため、男と長時間二人きりでいることなどほぼ経験がないといえる。
つまり(私のせいで)恋愛・男性事情はピュアホワイトの彼女。イケメンの部類に属される山神との時間はなかなかに刺激が強い様子だった。
そんな愛らしい彼女に口角が緩みそうになるが、必死に平常心を保つ。
私の内なる葛藤に気づく余地もない二人は、疲れた顔で頷いた。
「今のところ何もなく平穏無事ですよ。人影や物音もなし。夜行さんも部屋にこもったままで静かなものです」
自前のランタンで周囲を照らしながら、山神が答える。
理桜も妖の気配を感じ取ってはいないようで、小さく首を横に振っていた。
山神はぐっと屈伸すると、「ちょっとだけ外の空気を吸ってきてもいいですか」と言ってきた。
「どうぞ。でも一人で行動するのは危険なので、下で暇してるヒスイに声をかけて、一人にならないようにしてください」
「ヒスイって……ああ、森さんのことか。別に構わないですけど、もう名前呼びするほど仲良くなったんですね」
内心で大きく首を横に振りながら、「はい」と笑顔で返す。
「山神さんと河村さんがバスを見に行ってる間に少しお話したんです。そしたら思いのほか話が弾んで。こんな時に、変ですかね?」
「いや、こんな時だからこそいいことだと思いますよ。特に彼女の場合は事情が事情ですから。ここから無事に帰れたあとも、ぜひ仲良くしてほしいです」
「はい。もちろんです」
私の返答に、山神は穏やかな笑みを浮かべる。それから右手を上げ、「じゃあちょっとだけ任せます」と言い下の階へと下りて行った。
静まり返る廊下。
久しぶりに私と理桜の二人だけになり、いろいろ抑え込んでいたものが溢れそうになる。
暴発してしまわないよう深呼吸してから、ようやく理桜と向き合った。今もしっかり任務中、もちろんシリアスな表情だ。
「取り敢えず、三目が殺された時間はおおよそ分かったよ。殺害方法も絞殺で間違いない。ただ、索状痕が尋常じゃなく太い。ほぼ首全体が絞めあげられたかのよう。いったいどんな凶器を使ったのか、どんな妖が殺したのかは全然分からない」
「絞殺か。それなら以前、大蛇の妖が人を巻き殺していた事件があったな。あれは締め上げたのは首ではなかったし、被害者のほとんどが丸のみにされていたが」
「大蛇ね。蛇女みたいに下半身だけ蛇に変化させる妖もいるし、可能性としては十分あるね。さすが理桜。冴えてるね」
「いや、私なんて別に……」
褒められたのに、理桜の顔があまり明るくならない。普段なら褒めるともっと照れるのに。
何かあったのかと心配に思っていると、理桜は意を決した様子で切り出した。
「寧々。ヒスイと仲良くするのはやめてくれないか」
「へ!」
思いがけない言葉に、頭の中が一瞬真っ白になる。そしてすぐ、嫌な誤解をされていると察し、大慌てで首を横に振った。
「も、もしかして山神に言ったこと真に受けてる? あれは一緒にいても不審がられないようにするためであって、本当に仲良くなったわけじゃ――」
「ないと言い切れるのか」
「……うん」
妖と忍者が仲良くなることなんて絶対にない。
私が彼女と組んでいるのは、それがこの場では最も合理的だと判断したからに過ぎない。決して彼女と親しくなったからではない、はずだ。
「ならどうして今、寧々だけでここに来たんだ。信用していなければ、寧々があいつを一人にするはずないと思うんだが。それとも、他に何か理由があるのか?」
「……」
言葉が出てこない。
正直、指摘されるまでそのことに全く頭が回っていなかった。
どうしてか、彼女が私を裏切り、人を殺すイメージが全くわかなかったから。そんなこと絶対あり得ないと、心のどこかで信じてしまっている自分がいたから。
改めて、自分がどうしてここまで彼女を信じているのか、自分で自分が分からなくなる。
まだ出会ってから数時間。初対面の印象も最悪。なのに、どうして――
理桜が、不安と怒りを内包したような、複雑な表情で私の目を覗き込む。
「寧々に限って操られるなんてことはないと思う。寧々が信じるというなら、私はその判断を疑うつもりはない。だけど、寧々があいつと仲良くしているのを見るのは――なんか嫌だ」
「っ!」
彼女の悲壮な声を聴き、私の胸の中を熱い何かが込み上げる。
そしてつい我慢できず、彼女の唇に、私の唇を重ねていた。
一瞬、秘術を使っていないのに世界から音が消える。
音が戻ってきたのは、重なり合う唇が離れて、数秒してからだった。
――ついにやってしまった!
気恥ずかしさと恐怖心から、理桜の顔を見ることができない。
呆気に取られているだけならいい。もし、軽蔑や嫌悪の表情を浮かべていたら。
この先私は生きていけないかもしれない。
一体どれだけの時間が経ったのか。数時間にも、数秒にも思える。
ただ、いつまで経っても聞こえない理桜の声に我慢できず、私はおずおずと視線を上げた。
「――っ」
上目づかいで覗き見た理桜の顔。
彼女の得意とする秘術で色づく桜のように――否、それよりも遥かに赤く、紅葉のように染められていた。
――これはあるのか!? ありなのか!??
期待と興奮のあまり胸が早鐘を打つ。
今すぐ彼女の手を取り、気持ちを聞きたい。もしそれが私と同じなら――
「すいません、ただ今戻りました……て、あの、どうかしました?」
「………………いえ、随分早いお帰りだなと思って」
「外に出ても結局落ち着かなかったので。皆さんも寝る準備をしていたから、俺もさっさと寝るのが一番かなって。えと、なんかすいません」
おそらく、とんでもない表情で睨みつけていたのだろう。
戻ってきた山神は私と視線が合わないよう顔をそらし、何度も頭を下げる。
私は深呼吸して、どうにか心を落ち着ける。
実際彼は何も悪くない。悪いのはどう考えてもこの状況で理桜にキスした私なのだから。
冷静になると急にいたたまれなくなってきた。
理桜の方をもう一度見る勇気は湧かないから、山神に頭だけ下げて階下に向かう。と、
「きゃあ!」
ほんの微かに、悲鳴が聞こえた。
私だから気付ける程度の悲鳴。
二人の反応を見るが、やはりどちらも気づいた様子はなかった。
不審がられるのを覚悟で私は口を開く。
「今、夜行さんの部屋から悲鳴聞こえませんでした?」
急に立ち止まった私に戸惑いつつ、山神は首を振った。
「そうですか? 俺には聞こえませんでしたけど」
「うーん、でもちょっと気になるから確認しますね」
そう言うと、私は夜行さんの部屋の扉を軽く叩いた。
「夜行さんすいません。悲鳴が聞こえたような気がしたんですけど、何かありましたか?」
すぐには反応が返ってこない。嫌な予感がしてもう一度強く扉を叩こうとした直後、ガチャリと扉が開き夜行が顔を見せた。
「な、何急に」
少し顔が青ざめているのは部屋の暗さ故か。瞬時に彼女の全身を見回すも、特に怪我をしている様子はない。ちらりと部屋の中にも目を通したが、彼女の荷物と寝袋がある程度で、これといった異常はなさそうだった。
「すいません。夜行さんの悲鳴が聞こえたような気がしたので、心配になって」
「……別に、ちょっとつまずいて声が出ただけよ。話、それだけならもういいでしょ。じゃ」
つれなく彼女は扉を閉める。
実際他に用事があるわけではないため、呼び止める理由もない。
ただ、彼女は今嘘をついた。私の直感がそう囁いていた。




