8.温かな居場所
アナスタシアの言葉を聞いた瞬間、先ほどまでばらばらだった違和感が聖花の中で一つに繋がった。
本日の夜会に招かれた令嬢の中に、黒い瞳を持つ者はいないのだという。それならば、自分が廊下で出会った少女は、一体どこから来たというのだろう。招待客ではない少女が、どうして当然のように屋敷の中を歩いていたのか。なぜマリアンナの名を知っていたのか。どうして、誰ともすれ違うことなく、あの長い廊下の奥へ消えてしまったのか。
考えれば考えるほど、先ほど交わした会話の何もかもが不自然に思えてくる。少女の柔らかな声も、穏やかな微笑みも、別れ際に向けられた黒い瞳も、思い出すたびに輪郭を失い、得体の知れないものへと変わっていった。
「あの方は、本当に……」
言葉にしようとして、聖花は口を閉ざした。
本当に何なのだろう。問いを形にしてしまえば、もう後戻りできないような気がした。胸の奥が急激に狭くなり、息を吸おうとしても、喉が何かに塞がれているように空気が入ってこない。手足の先から熱が引き、代わりに冷たいものが身体の内側を這い上がってくる。
「マリアンナ様?」
リリエルの声が聞こえた。心配そうに顔を覗き込まれていることは分かるのに、その表情が遠く霞んで見える。
「マリアンナ様、大丈夫ですか?」
アナスタシアにも声を掛けられたが、返事をする余裕はなかった。
大丈夫だと答えなければならない。せめて笑わなければならない。そう思えば思うほど、身体は言うことを聞かなくなっていった。
指先が小刻みに震え始める。隠そうとして両手を握り締めたものの、今度は肩まで震え出した。二人が見ているというのに抑えることができない。
「お顔の色が……」
リリエルが慌てて椅子から立ち上がり、崩れかけた聖花の身体を支えた。
「マリアンナ様、こちらを見てください。わたくしの声が聞こえますか?」
聞こえている。けれど、答えられない。聖花の頭の中では、黒い瞳だけが何度も浮かんでは消えていた。光を映さない、奥の見えない瞳。あの少女は、自分を見ていた。最初から、すべてを知っているかのように。
「伯爵様をお呼びします」
アナスタシアはそう言い残すと、すぐに踵を返した。リリエルは聖花を支えたまま、背中をゆっくりと撫でてくれている。その手の温かさに縋ろうとしても、聖花の意識は次第に遠ざかっていった。
周囲の声が、深い水の底から聞こえてくるようにぼやけていく。
「マリアンナ!」
しばらくして聞き慣れた声がした。人々の間を縫うようにして駆け寄ってきたダンドールは、聖花の前へ膝をつくと、青ざめた頬へ手を添えた。
「私が分かるか。マリアンナ、こちらを見なさい」
「……お、とう……さま」
どうにかそれだけを口にすると、ダンドールの表情が一瞬だけ歪んだ。しかし、すぐにいつもの厳格さを取り戻し、リリエルとアナスタシアへ視線を向ける。
「何があった」
問い掛ける声は落ち着いていたが、娘の肩へ添えられた手には僅かに力が入っていた。
アナスタシアは夜会の途中で聖花が廊下へ出たこと、戻ってきた後に黒い瞳の少女と会ったと話したこと、そしてそのような令嬢は招待客の中にいないことを、要点だけ簡潔に説明した。ダンドールは口を挟まずにそれを聞いていた。
話を聞き終えると、何かを問い返すこともなく、聖花の身体を抱き上げる。
「今日は失礼する」
周囲へ向けた言葉はそれだけだった。話をしていた最中の者もいたようだが、誰かが声を掛けるより早く、ダンドールは聖花を抱いたまま会場を後にした。
屋敷の外では、既に馬車の用意が進められていた。聖花はダンドールの腕の中で身を縮め、胸元の布を掴んでいた。自分が何を怖がっているのか、はっきりとは分からない。ただ、あの場所から少しでも遠くへ行きたかった。
馬車へ乗り込んでからも、聖花はほとんど言葉を発しなかった。
窓の外に夜の町並みが見える。舗装された道を車輪が進むたびに小さな振動が伝わってきたけれども、それさえ現実の出来事ではないように感じられた。
向かい側に座るダンドールは、何度も何かを言いかけては口を閉ざしていた。普段であれば何かと話し出す彼が、この時ばかりは何も言わずに、ただ聖花の様子を見つめていた。
夜の森から、フクロウの鳴き声が聞こえる。その声が妙に近く響き、聖花は反射的に肩を揺らした。
「大丈夫だ」
ダンドールが低い声で言った。
「もうすぐ家に着く」
何が大丈夫なのかは分からなかった。それでも、父の声を聞いたことで僅かに緊張が緩んだのか、聖花の意識はそのまま深い闇へと沈んでいった。
◆
ヴェルディーレ家の本邸へ到着した時、聖花は既に意識を失っていた。馬車の扉が開くと同時に、ダンドールは娘を抱き上げ、そのまま足早に屋敷へ入った。
「マリアンナの部屋を整えろ。それから医師を呼べ。湯と清潔な布も用意するように」
次々と指示を出しながら廊下を進む。普段であれば、娘の私室へ入る前には必ず声を掛けるダンドールも、この時ばかりはためらわなかった。
寝台へ聖花を横たえると、呼ばれた医師がすぐに診察を始めた。
熱はない。脈にも大きな異常はなく、身体のどこかを傷めた様子もない。強い恐怖や緊張による一時的な失神だろうと診断されても、ダンドールの表情が和らぐことはなかった。
「本当に、それだけなのか」
「現時点では、そう申し上げるほかありません。ですが、今夜はなるべくお傍を離れず、様子を見られた方がよろしいでしょう」
医師の言葉に頷きながらも、ダンドールは眠る聖花から目を離さなかった。
やがて玄関の方から、慌ただしい足音が聞こえてくる。夜会とは別の、婦人たちが集まる催しへ出席していたルアンナが、知らせを受けて戻ってきたのだ。
「マリアンナはどこです!」
普段の優雅な所作を忘れたような勢いで廊下を進み、聖花の部屋へ入る。寝台に横たわる娘を目にした途端、ルアンナの顔から血の気が引いた。
「マリー……」
呼び掛けても、聖花は目を覚まさない。ルアンナは寝台の傍へ腰を下ろし、冷えた手を両手で包み込んだ。
「お医者様は、何と?」
「身体に大きな異常はないそうだ。強い恐怖によるものだろうと」
「恐怖?」
問い返したルアンナに、ダンドールは夜会で起きたことを説明した。黒い瞳の少女に、招待客の中には存在しない令嬢。その話を聞いた直後、娘が急激に体調を崩したこと。ルアンナは黙ったまま話を聞いていたが、娘の手を包む指先には次第に力がこもっていった。
「どうして、私が傍にいない時に限って……」
「君のせいではない」
「分かっています。分かってはいますけれど……」
ルアンナはそれ以上言葉を続けず、眠る聖花の額へ掛かった髪をそっと払った。メイが何度か休むよう勧めたものの、ルアンナは首を横に振った。
「今夜は私が見ています。あなたは下がって休みなさい」
「ですが、奥様までお身体を壊されては――」
「大丈夫です」
穏やかな口調だったが、譲る気はないらしい。結局、メイは何かあればすぐに呼ぶよう念を押してから、部屋を出ていった。ダンドールも一度は残ろうとしたものの、ルアンナから屋敷の者たちへの指示や夜会の後始末を頼まれ、渋々部屋を離れた。
静かになった室内で、ルアンナは聖花の寝顔を見つめ続けた。
青白い頬。浅く繰り返される呼吸。時折、何かから逃れようとするように寄せられる眉。布団を掛け直し、その上から何度も優しく撫でる。
ダンドールとルアンナがマリアンナに対して過保護になったのは、彼女が末の娘だからというだけではなかった。ギルガルドは後継者として早くから自立を求められ、フィリーネもまた、物心がつく頃には両親へ甘えることをしなくなっていた。その中でマリアンナだけは、嬉しい時には笑い、悲しい時には泣き、寂しい時には躊躇なく両親を頼った。
その結果、気付けば二人とも、他の子供たちに対するよりも遥かに多く、末娘へ手を掛けるようになっていた。ダンドールは屋敷の外へ出すことを嫌がり、ルアンナは本来なら家庭教師へ任せるような作法まで、自ら教えた。マリアンナがそれを嫌がることなく受け入れていたため、二人の過保護さは改まるどころか、年々悪化するばかりだった。
今回の夜会も、本来なら何事もなく終わるはずだった。作法が身体に染みついていたのか、聖花自身が大きな失敗をすることもなかった。それにもかかわらず、最後には誰も予想していなかった出来事に巻き込まれてしまった。
「……ごめんなさい、マリー」
ルアンナは誰に聞かせるでもなく呟いた。
「次は、必ず私も一緒にいるから」
返事はない。それでもルアンナは娘の手を握ったまま、一晩中傍を離れなかった。
◆
「……おかあ、さん……?」
窓から差し込む光が、室内を淡く照らし始めた頃だった。聖花の唇から、掠れた声が漏れる。この世界で母親を呼ぶ時の言葉ではなかったが、ルアンナはその違いを気に留める余裕もなく、すぐに身を乗り出した。
「マリー?」
聖花は重そうに瞼を開いた。視界はまだぼやけている。頭が鈍く痛み、身体には鉛を詰め込まれたような怠さが残っていた。頬には冷たい汗が浮かび、寝間着も僅かに湿っている。
「マリー、私が分かる?」
「……お母様」
「ええ。ここにいるわ」
ルアンナの顔を認めた途端、聖花の胸に張り詰めていたものが僅かに緩んだ。
しかし、安堵したのも束の間だった。眠っていた最中に見た光景が、鮮明に蘇る。
「あの子が……」
「マリー?」
「あの女の子が、いたの」
聖花は震える手で布団を掴んだ。
「何もない、真っ暗な場所に、あの子だけが立っていて……」
声が次第に早くなっていく。
「ずっと、私を見ていたの。あの黒い目で、覗き込むみたいに。私が動けなくても、声を出せなくても、ずっと……ずっと、見ていたの」
夢だったのかもしれない。そう考えようとしても、あまりにも鮮明だった。
少女は何も言わなかった。ただ、聖花の顔を確かめるように、光を映さない瞳で見つめ続けていた。怒りや憎しみがあったわけではない。それなのに、何を考えているのか分からないことが、何よりも恐ろしかった。
「また来るかもしれない」
聖花は目を大きく見開いた。
「次に目を閉じたら、また、あの子がいるかもしれない。今度はもっと近くに――」
「マリー」
ルアンナは聖花の身体を優しく抱き寄せた。
「大丈夫よ」
「でも……」
「夢よ。怖いことがあったから、夢に見てしまっただけ」
落ち着かせるように、ゆっくりと背中を撫でる。
「私がここにいるわ。あなたの傍にいるから、何も怖がらなくていいの」
耳元で囁かれる声は、驚くほど柔らかかった。聖花はしばらく身体を強張らせていたが、背中を撫でる手の動きに合わせるように、少しずつ震えが小さくなっていった。
心地よく、温かな声だった。どうしてこれほど安心するのか、考える必要さえなかった。ルアンナの腕に包まれていると、ここならば泣いてもよいのだと、身体の奥深くが知っているようだった。
「お母様……」
「ええ」
「怖かったです……」
「そうね。怖かったわね」
その一言を聞いた途端、聖花の瞳から涙が溢れた。堪えようとしても止められない。彼女は子供のようにルアンナの胸元へ顔を埋め、声を上げて泣いた。ルアンナは何も急かさず、聖花が泣き止むまで抱き締めていた。
やがて泣き疲れた聖花は、母の腕の中で再び眠りへ落ちていった。今度の寝顔は、先ほどまでよりも幾分穏やかだった。それを確かめてから、ルアンナはようやく聖花を寝台へ戻し、布団を掛け直した。部屋を出る前に、廊下で控えていたメイへ声を掛ける。
「次に目を覚ました時、すぐに食べられるものを用意しておいてください。胃に負担の掛からないものを」
「かしこまりました」
「それから、目を覚ますまでは誰も部屋へ入れないように。旦那様にも、そのようにお伝えして」
メイは一瞬だけ返答に迷った。
「旦那様にも、でございますか?」
「ええ。マリーはまだ落ち着いていません。大勢で押しかけても休めないでしょう」
もっとも、ルアンナ自身がもう少し娘を独り占めしていたかったことまでは、口にはしなかった。
◆
聖花が次に目を覚ました時には、既に昼近くになっていた。窓から差し込む日差しは明るく、昨夜の出来事が遠い昔のように思える。頭の重さはまだ残っていたが、先ほどよりも身体は随分と楽になっていた。
目覚めたことが伝わると、ほどなくしてメイが食事を運んできた。柔らかく煮込まれた野菜と、香草の入った薄味のスープ。焼き立ての白いパンに、果実を煮たものまで添えられている。
「食欲はございますか?」
「少しだけなら……」
そう答えたものの、漂ってきた香りを嗅いだ途端、腹が小さく鳴った。聖花は気まずそうに視線を落としたが、メイは何も聞かなかったふりをして、寝台の上へ食事用の台を整えてくれた。
やがてルアンナも部屋へやってきた。向かいに腰掛け、聖花が食べる様子をじっと見つめている。最初は遠慮がちにスープを口へ運んでいた聖花だったが、一口食べると急に空腹を自覚した。気付けばパンも野菜も残さず食べ、最後には果実まで綺麗に平らげていた。
「もう少し召し上がりますか?」
「い、いえ。もう十分です」
慌てて答えると、ルアンナがようやく安堵したように微笑んだ。
「それならよかったわ。食べられるようなら、ひとまず安心ね」
食器を下げた後もしばらく傍にいてくれたが、屋敷の用事があるらしく、ルアンナは何度も振り返りながら部屋を出ていった。
一人になった聖花は、柔らかな枕へ身体を預け、天井を見つめた。
―――昨夜の少女。
夜会に招かれた令嬢の中には、黒い瞳を持つ者はいなかった。それでも確かに、聖花は確かにあの少女と話した。声も聞いたし、道も教えてもらった。別れ際には、互いに挨拶まで交わした。
全てが夢だったとは思えない。では、幻だったのだろうか。疲労や緊張のせいで、存在しない少女を見たのだろうか。けれど、あの時の聖花は、夜会でできた二人の友人のことを考え、むしろ浮かれていたはずだ。
「……何だったのかしら」
小さく呟いたものの、答えが返ってくるはずもない。考え続けるうちに、再び瞼が重くなっていった。
昨夜から眠ってばかりだと思ったが、身体が休息を求めているのだろう。聖花は抵抗することなく目を閉じ、そのまま穏やかな眠りへ落ちていった。
部屋が静寂に包まれてから、しばらくした頃だった。閉ざされた窓の隙間から、黒い靄のようなものが音もなく忍び込んだ。床へ落ちたソレは、液体のように広がりながら、ゆっくりと寝台へ近づいていく。
やがて聖花の傍まで辿り着くと、影の一部が不自然に盛り上がった。黒い靄は蠢きながら輪郭を作り、次第に人の姿を思わせる形へと変わっていく。顔も、衣服も、細かな部分までは分からない。ただ、人の形をした何かがそこに立ち、眠る聖花をじっと見下ろしていた。
ソレは聖花の様子を確かめるように僅かに身を屈めると、誰にも聞き取れないほど小さな声で何事かを呟いた。勿論返事はなく、聖花は何も気付かずに静かな寝息を立て続けている。
しばらくすると、人の形を保っていた輪郭が崩れ始めた。黒い靄となったソレは床へ流れ落ち、そのまま影の中へ溶けるように消えていく。最後には、何者かが訪れた痕跡さえ残らなかった。
それとほぼ同じ頃、屋敷のどこかでは、僅かな間だけ中断されていた業務が再開されていた。




