7.不穏な気配
楽しい時間というものは、どうしてこうも早く過ぎてしまうのだろう。
つい先ほどまで、聖花は勇気を振り絞ってロザリアへ声を掛け、遠回しな嫌味を浴びせられていた。友人になりたいという願いはあっさりへし折られ、少なからず落ち込んだものだ。けれど、あのまま諦めなくて本当によかったと聖花は思った。
その後に気を取り直してアナとリリーへ声を掛けたことで、今はこうして三人で楽しく話すことができている。気が付けば会話に夢中になり、広間で奏でられていた音楽が何曲変わったのかさえ分からなくなっていた。
会場にはまだ大勢の貴族が残っていたものの、夜会は少しずつ終わりへ近づいているらしかった。初めの頃には料理や飲み物を運んでいたメイドたちも、今は空になった皿やグラスを片付けるために、客人たちの間を忙しなく行き来している。
しかし、その足取りには慌ただしさを感じさせるところがなかった。談笑を続ける貴族たちの邪魔にならないように歩き、ドレスの裾へ触れそうになればさりげなく進路を変え、食器の触れ合う音さえほとんど立てない。
屋敷で働く使用人たちもそうだが、どうしてあれほど周囲へ気を配りながら素早く動けるのか、聖花には未だによく分からなかった。
「マリー様は、学園へ入ったら何をなさりたいのですか?」
リリエルに尋ねられ、聖花は彼女へ顔を向けた。
先ほど出会ったばかりの時は、こちらが何かを尋ねるたびに怯えたように肩を揺らしていたが、今はもうそのような様子はない。声はまだ少し小さいものの、聖花の顔を見ながら話してくれるようになっていた。
「何をしたいか、ですか?」
「はい。授業でも、ほかのことでも……」
「うーん……」
聖花は少し考えた。
学園に似たような所に通った経験は前世にもあるはずなのだが、肝心の記憶はあまり残っていない。それでも、教室で机を並べて座ることや、友人と一緒に食事をすることを想像すると、不思議と懐かしい気持ちになった。
「まずは、迷わず教室まで行けるようになりたいです」
真面目に答えると、アナスタシアが僅かに目を瞬かせた。
「そこからなのですか?」
「だって、王宮だけでもこんなに広いんですよ? 学園も大きいのでしょう? 初日から道に迷って遅刻するなんて、絶対に嫌です」
「確かに、王立学園の敷地はかなり広いと聞いておりますけれど……」
「ほら、やっぱり」
聖花が少し得意げに言うと、アナは扇子で口元を隠しながら笑った。
「それでしたら、私たちと一緒に行けばよいのではありませんか?」
「え?」
「入学する学年は同じなのでしょう。教室の場所が異なるとしても、途中まではご一緒できると思います」
「本当ですか?」
聖花は思わず身を乗り出しかけ、慌てて姿勢を戻した。
「それなら、ぜひお願いします。私、一人だと本当に迷いそうなので」
「マリー様なら、迷っても誰かに尋ねられると思いますけれど」
リリエルがそう言って、小さく笑う。
「それはそうですけど、毎朝知らない人を捕まえて道を聞くのは嫌ですよ。きっと、あの伯爵令嬢はいつまで経っても校内の道を覚えられないって噂になります」
「そこまでにはならないと思いますわ」
「アナは、私がどれくらい方向音痴か知らないから言えるんです」
自分が本当に方向音痴であったかは、実のところ聖花にもよく分からない。前世の記憶はほとんどないし、今のところ転生してからも道に迷うようなことがなかったからだ。
「では、私が責任を持ってお連れいたします」
アナスタシアが胸へ手を添え、いかにも頼もしい調子で告げる。
「その代わり、遅刻なさらないでくださいね。いくら道を知っていても、待ち合わせの時間に来ていただけなければどうにもなりませんから」
「それは大丈夫です。朝はきちんと起きられます」
「本当に?」
「……たぶん」
言い直した途端、アナスタシアが呆れたような顔をした。その隣で、リリエルは俯きながら肩を揺らしている。
「リリーまで笑わなくてもいいじゃないですか」
「す、すみません。でも、マリー様があまりにも自信たっぷりに仰るので……」
「だって、起きられると思ったんです」
「思っただけなのですね」
「アナ、そこは流してください」
今度はアナスタシアまで声を立てて笑っていた。貴族の令嬢が、人前でこれほど楽しそうに笑っていいものなのかは分からない。けれど、聖花もつられて笑ってしまったので、きっとお互い様だろう。今日この夜会へ来た時には、こんなふうに同じ年頃の少女たちと笑い合えるとは聖花も思っていなかった。
先ほど、社交界の裏の顔を目の当たりにした彼女は、自分には友人ができないのかもしれないと思いかけていた。その矢先に現れたのがアナスタシアとリリエルだ。
二人とも聖花より身分が低いことを気にしていたが、聖花にとって爵位の違いは、友人になれるかどうかを決める理由にはならない。前世では誰かと話すたび、その人の家がどの程度偉いのかを確かめるようなことはなかったはずだ。流石にそのことくらいは覚えてなくても自然と分かった。
もちろん、今いるのは貴族社会である。何も考えずに行動すれば、相手へ迷惑を掛けてしまうこともあるのだろう。だからといって、人目のない場所でまで身分にこだわり、言葉を交わすたびに距離を置く必要はないとは思う。
アナスタシアとリリエルも、すぐには慣れないと言いながら、聖花の願いを受け入れてくれた。それだけでも嬉しかったのに、二人と話している時間は思っていた以上に楽しかった。リリエルは花が好きで、屋敷の庭師から色々なことを教えてもらっているらしい。好きな話題になった途端、それまでの控えめな様子が嘘のように言葉が増えたため、聖花は少し驚いた。
「朝と夜で色が違って見える花もあるんです」
「そんな花があるんですか?」
「はい。朝は白に近いのですけれど、日が落ちると淡い青色に見えて……。光の当たり方で、色が変わったように見えるのだと聞きました」
「見てみたいです」
聖花が即座に答えると、リリエルが驚いたようにこちらを見た。
「わ、私の家の庭にある花ですよ?」
「だから見たいんです。リリーがそんなに嬉しそうに話すくらいですから、きっと綺麗なんでしょう?」
「嬉しそうに……」
「ええ。さっきから、お花の話をしている時だけ全然止まりません」
悪い意味で言ったわけではなかったのだが、リリエルは耳まで赤くして俯いてしまった。
「マリー様、それではリリーが恥ずかしがってしまいますわ」
アナスタシアに窘められ、聖花は慌てて両手を振った。
「違います。からかったわけではなくて、本当に楽しそうだなと思っただけで……」
「わ、分かっています」
リリエルは俯いたまま、小さく答える。
「私も……マリー様に見ていただけたら、嬉しいです」
「本当ですか?」
「はい。大した庭ではありませんけれど……」
「では、今度見せてください」
「えっ?」
「駄目ですか?」
「い、いえ! 駄目ではありません。ただ、マリー様が本当に来てくださるとは思わなくて……」
「行きますよ。約束です」
聖花が笑い掛けると、リリエルはまだ戸惑っているようではあったものの、最後には嬉しそうに頷いてくれた。
「私も同行してよろしいかしら」
アナスタシアが口を挟む。
「もちろんです。三人で行きましょう」
「わ、私の家なのですけれど……」
「リリーが嫌でなければ、ですけど」
「嫌ではありません。むしろ、嬉しいです」
「では決まりですね」
まだ入学もしていないというのに、これからの約束が一つ増えた。それだけで、聖花は学園生活が少し身近なものへと変わった気がした。
アナスタシアはリリエルほど特定のものへ夢中になる性格ではないようだったが、話を聞くのも、話題を広げるのも上手だった。聖花とリリエルが話している間にも自然に言葉を挟み、どちらか一方が会話から取り残されないよう、さりげなく気を配ってくれている。
聞けば、幼い頃から母親と共に様々な茶会へ参加してきたという。
「それなら、アナは人と話すのに慣れているんですね」
「そうでもありませんわ。相手の方に合わせてお話しすることには慣れておりますけれど、好きなことを自由に話す機会はあまりございませんから」
「そうなんですか?」
「貴族の茶会では、ただ楽しめばよいというものではありません。家同士の関係や、その場にいらっしゃる方々の身分にも気を配る必要があります」
「大変ですね……」
聖花が素直な感想を口にすると、アナスタシアは困ったように笑った。
「マリー様も伯爵家のご令嬢ですから、本来は同じなのですけれど」
「そうでした」
思わず答えると、リリエルがまた小さく笑う。
「忘れていたのですか?」
「忘れていたというより、まだ慣れていないんです。自分が伯爵家の娘だということは分かっています。けけど、こういう場に来ると皆さんの名前や爵位を覚えるだけで頭がいっぱいになってしまって」
「今日初めてお会いした方も多いでしょうから、仕方ありませんわ」
「アナは全部覚えたんですか?」
「全員ではありません。ただ、少なくともお話しした方のお名前は覚えております」
「すごい……」
聖花は心から感心した。
自分も今日、ダンドールに連れられて大勢の貴族へ挨拶をしたものの、誰が誰であったか既に曖昧になり始めている。顔を見れば思い出せるかもしれないが、名前だけを聞いて正確に言い当てる自信はなかった。
「私も入学までに覚えた方がいいですよね」
「少しずつでよいと思います。無理に一度で覚えようとすると、かえって混乱いたしますから」
「では、分からなくなったらアナに聞きます」
「最初から私を頼るつもりなのですね」
「だって、アナは詳しいじゃないですか」
聖花が当然のように答えると、アナスタシアは一度目を丸くした後、仕方がないと言いたげに微笑んだ。
「分かりました。私でお答えできることであれば、お教えいたします」
「ありがとうございます。頼りにしていますね」
「その代わり、マリー様にもお願いしたいことがあります」
「私に?」
「はい。先ほどから、私ばかりを頼っていらっしゃいますけれど、困った時には私もマリー様を頼ってもよろしいのですよね?」
思いがけない言葉だった。聖花は一瞬返事を忘れ、アナスタシアの顔を見つめる。自分が誰かに頼られる。その響きが、何故か胸の奥へ深く入り込んだ。
ここ最近、聖花は家族や使用人たちに助けてもらってばかりだった。記憶が曖昧で、この世界の常識にも詳しくなく、教えてもらわなければ分からないことが多い。自分が誰かの役に立てる場面など、ほとんどないと思っていた。
「もちろんです」
聖花はすぐに頷いた。
「私にできることなら、何でも言ってください」
「何でも、は少々危険ですわ」
「えっ?」
「約束をする時には、できる範囲を明確になさった方がよろしいと思います」
「今のも駄目でしたか?」
「駄目ではありませんけれど、マリー様は頼まれたら本当に何でも引き受けてしまいそうですから」
「そんなことは……」
ない、と言い切ろうとして、聖花は少し考えた。困っている友人から頼まれたなら、多少無理をしてでも手伝おうとするかもしれない。
「……あるかもしれません」
「やはり」
アナスタシアが小さく息を吐く。
「でも、できないことまでできるとは言いませんよ」
「それでしたら安心しました」
「アナは心配性ですね」
「マリー様が不用心なのです」
言い返され、聖花は何も言えなくなった。隣で聞いていたリリエルも、どうやらアナスタシアへ同意しているらしく、小さく何度も頷いている。
「リリーまで……」
「だ、だって、マリー様は私たちの身分も気にせず話し掛けてくださいましたし……」
「それと不用心なのは関係ないでしょう?」
「関係あると思いますわ」
アナスタシアが即座に答えた。
「マリー様は、ご自分が思っているより人を疑いませんから」
「そうでしょうか」
「そうです」
「そう……だと、思います」
リリエルにまで言われてしまった。二人と出会ってまだそれほど経っていないはずなのに、どうして既に性格を見抜かれているのだろう。と、少し納得できないものを感じつつ、聖花はテーブルへ置かれていた果実水へ手を伸ばした。橙色に近い飲み物は、甘い果物の香りがするわりに、口へ含むと僅かな酸味があった。濃すぎず、喉が渇いていなくても飲みやすい。
「マリー様、それで何杯目ですか?」
アナスタシアに尋ねられ、聖花はグラスを持ったまま動きを止めた。
「分かりません」
「分からないほど飲んだのですか?」
「そんなには飲んでいませんよ。たぶん、三杯か四杯くらいです」
「十分多いと思いますわ」
「話していたら喉が渇いたんです」
「確かに、美味しいですよね」
リリエルが聖花の側へ寄るようにして、小さな声で言った。
「ですよね。甘すぎないから、つい飲んでしまって」
「リリーまで勧めないでくださいませ」
「勧めてはいません……」
少し困ったように答えながらも、リリエル自身の手にも同じ果実水が握られている。それを見た聖花が笑い掛けると、リリエルも照れたように微笑んだ。
今度こそグラスの中身を飲み干したところで、聖花は下腹部に僅かな違和感を覚えた。気のせいであってほしかったが、少し待っても消える様子はない。アナスタシアの言うことを聞いておけばよかったのかもしれなかった。
「……どうしました?」
急に黙った聖花を不思議に思ったのか、アナスタシアが尋ねてきた。
「いえ、その……少し席を外してきます」
何のためにとは言わなかったが、アナスタシアには伝わったらしい。
「分かりました。こちらで待っております」
「私もご一緒した方が……」
リエルが心配そうに声を掛ける。
「大丈夫です。すぐ戻りますから」
「でも、場所は分かりますか?」
アナスタシアからもっともな指摘をされ、聖花は一瞬言葉に詰まった。
「近くにいるメイドに聞きます」
「それでしたら、大丈夫でしょう」
「迷いませんよ」
「まだ迷うとは申しておりませんわ」
聖花は二人へ軽く手を振り、その場を離れた。
広間の中央では、楽団がゆったりとした曲を奏でている。夜会の始まりに演奏されていた華やかな曲とは異なり、終わりの時間を告げるような落ち着いた音色だった。
人々の話し声も、初めの頃より幾分静かになっている。既に帰りの挨拶を交わしている者もいれば、最後まで会話を楽しもうとする者もいた。その間を、メイドたちが音もなく行き来している。
聖花は会場を出る前に近くのメイドへ声を掛けた。少なくとも、彼女はそう思っている。
教えられた道に従って、会場を出て、そのまま廊下を進んだ。
重い扉が背後で閉じた途端、先ほどまで耳を満たしていた音楽や人々の声が一気に遠のいた。完全に聞こえなくなったわけではない。厚い扉の向こうから、ぼんやりとした音だけが届いている。けれど、誰が何を話しているのかまでは分からず、まるで別の場所から聞こえているようだった。
聖花は教えられた通り、廊下を真っ直ぐ進んだ。壁へ取り付けられた燭台の火は、会場の眩い照明に比べると頼りない。炎を囲む硝子に模様が刻まれているせいか、床や壁へ落ちる光も僅かに歪んで見えた。窓の外へ目を向ければ、王宮へ到着した頃に広がっていた幻想的な夕焼けはもうない。深い夜の色に染まった空へ、ほんの小さな星々が散らばっている。
その光も、廊下の中まではほとんど届かなかった。
「……まさか、こんなに遠いなんて」
思わず愚痴が零れた。もう少し近い場所にあると思っていた。そもそも、夜会を開くような広間の近くなのだから、客人が困らない程度の距離に用意されているのが普通ではないだろうか。
けれど、歩いても歩いても、それらしい扉は見当たらない。廊下には人の姿もなく、メイドどころか警備の兵士さえ見掛けなかった。
「……道、間違えたかな」
聖花が足を止めて後ろに振り返った。歩いてきた廊下が、薄暗い明かりの中を長く伸びている。
真っ直ぐ進むように言われたはずだ。途中には幾つか扉があったものの、どれも同じように閉ざされていて、目的の場所だと分かるようなものはなかった。このまま進むべきなのか。それとも、会場まで戻ってもう一度道を聞いた方がいいのか。少し迷ったところで、聖花は妙なことに気が付いた。
自分は、一体誰に道を聞いたのだろうか。
「……あれ?」
メイドだった。確かに会場へいたメイドへ尋ねたはずである。それなのに、聖花は相手の顔を思い出せなかった。髪の色も、声も、どの辺りに立っていたのかさえ曖昧だ。
人が多かったために、きちんと見ていなかっただけかもしれない。そう考えれば、それほど不自然なことではないようにも彼女には思えた。けれど、そもそも会場の中で尋ねたのか、扉を出た後で尋ねたのかも思い出せなかった。
聖花は眉を寄せ、記憶を辿る。アナスタシアとリリエルへ席を外すと伝え、二人のもとを離れた。近くにいたメイドへ声を掛けて、教えられた通りに歩いてきた。
順番は分かる。けれど、道を教えてくれた相手の姿だけが、薄い霧に隠されたように浮かんでこない。
「どうして……」
そこまで呟いた時、廊下の先から小さな音が聞こえた。
―――コツン。
硬い靴底が床を叩くような音だった。一瞬、聖花は自身の足音が反響したのかと考えたけれども、よくよく考えれば今は立ち止まっている。ゆっくりと顔を上げて、辺りを見渡した。
―――コツン。
もう一度聞こえた。やはり聞き間違いではなかったようだった。少し間を置いて、同じ音が繰り返されている。聖花のいる方へと向かって誰かが歩いている。
本来は、人がいると分かって安心するべき場面だったのかもしれない。これ以上、一人で薄暗い廊下を歩かずに済むと。それなのに、聖花の身体は僅かに強張った。周囲が静かすぎるせいなのだろうか。足音は決して大きくないのに、廊下の奥から響くたび、妙に耳へ残った。
―――コツン。
―――コツン。
音は止むどころか、徐々に大きくなっている。聖花はその場に立ったまま、音のする方へ目を凝らした。廊下の先は燭台の明かりが届かず、暗闇に沈んでいたが、やがてその中から人の輪郭がゆっくりと現れた。
一人の少女だった。歳は、聖花と同じくらい。肩と胸の間ほどまで伸びた髪を下ろしていて、落ち着いた形のドレスを身に着けており、明らかに使用人には見えなかった。ドレスには派手な装飾は見当たらなかったけれども、生地には上品な光沢があった。
夜会へ参加している令嬢なのだろう。暗さのせいで髪やドレスの色は判別しづらいものの、顔立ちにはどこか幼さが残っている。
少女は聖花の手前まで来ると、静かに足を止めた。聖花が警戒していたのが馬鹿らしく思えるほど、ごく普通の少女だった。表情も穏やかで、こちらを不審に思っている様子もない。むしろ突然立ち止まった聖花の方が、相手を驚かせてしまったかもしれない。
「あの、いきなり申し訳ありません」
聖花は少女へ声を掛けた。
「こちらの先に、トイレは――」
そこまで口にしてから、慌てて言葉を止める。トイレという言葉は、この世界では通じなかったはずだ。以前、何も考えずに屋敷で同じ言葉を使った際、侍女たちに不思議そうな顔をされたことがある。その時に別の言い方を教えてもらったものの、呼び慣れた方に頭がいってしまう。
「あ、いえ。何でもありません」
聖花は恥ずかしさを誤魔化すように咳払いをした。
「その……お花を摘みに行きたいのですが、場所が見当たらなくて。どちらにあるか、ご存じですか?」
恐らくこれで合っている。そう思うも、言い終えた後でこの表現もどうなのだろうと聖花は思った。トイレと大して差がないような気もするし、むしろ紛らわしいような気もする。そんなことを聖花が考えている間、少女は何も言わずに聖花を見つめていた。
やはり伝わらなかったのか。そう思ったところで、少女の口元がふっと緩んだ。
「……ふふっ」
小さな笑い声だった。聖花の頬が熱くなる。一瞬何か変なことを言ってしまったのかと思ったけれど、どうやらそうではないらしい。
「すみません。急に話し掛けられたものですから、少し驚いてしまいました」
少女は穏やかに言った。聖花をからかうような響きはない、。
「マリアンナさん。そちらではありませんよ」
ごく自然な調子で、聖花の名を呼ぶ。
「ここから私の方へ進んでください。真っ直ぐ歩けば、すぐに見つかります」
「そうなんですね」
目的の場所が分かった安心感の方が大きく、聖花は相手が自分の名前を知っていたことを深く気に留めなかった。
「ありがとうございます。私、どうやら反対の方へ来てしまったみたいで」
「随分遠くまで歩いていらっしゃいましたね」
「誰かに教えてもらった通りに来たつもりだったんですけど、途中で間違えたのかもしれません」
「そうかもしれませんね」
少女は微笑んだ。声も表情も、ごく普通の令嬢と変わらない。聖花が初めに感じていた僅かな不安もいつの間にか消えていた。
聖花は、まだ自己紹介をしていなかったことを思い出した。少女は既に名前を知っているようだったが、こちらから正式に名乗らないのは失礼だろう。
「申し遅れました。マリアンナ・ヴェルディーレと申します。ダンドール・ヴェルディーレ伯爵の二女です」
できるだけ貴族令嬢らしく見えるよう、ドレスの裾へ手を添えて頭を下げる。
「どうぞよろしくお願いいたします」
「ええ。よろしくお願いします」
少女も軽く会釈を返した。けれど、自分の名前を名乗ろうとはしなかった。
聖花は少しだけ不思議に思う。既に会場で挨拶を済ませていたのだろうか。
今日だけでも大勢の貴族と顔を合わせたため、少女のことを忘れてしまった可能性はある。そうであれば、名前を尋ねるのは少々気まずい。忘れたと正直に謝るべきか迷っていると、少女が僅かに首を傾けた。
「先に行かれなくてよろしいのですか?」
「え?」
「見たところ、随分お急ぎのようですから」
一瞬、何のことか分からなかった。
それから、聖花は自分がここへ来た目的を思い出す。
「あっ……そうでした」
少女と話しているうちに、少しだけ忘れていた。
「教えてくださって、ありがとうございます。本当に助かりました」
「いいえ」
「では、失礼しますね。また後でお会いしたら、今度はゆっくりお話ししましょう」
聖花が笑い掛けると、少女も変わらない穏やかな笑みを返した。
「ええ。また、お会いしましょう。…………また」
聖花は少女の横を通り過ぎ、教えられた方向へ歩き出す。
何歩か進んだところで、何となく気になって振り返る。少女はまだ同じ場所に立っていて、聖花の方をじっと見つめていた。ただ見送ってくれているだけなのだろう。聖花は軽く頭を下げ、再び前を向いた。
その直後、窓を覆っていた雲が流れたのか、細い星明かりが廊下へ差し込んだ。ほんの一瞬だけ、その光が少女の顔へ触れる。
聖花は思わず足を止めそうになった。少女の瞳が、黒かった。濃い茶色や青色が、暗さのせいでそう見えたのではない。星の光を僅かに映しながらも、その奥まで深く沈んだような、はっきりとした黒色だった。
この世界へ来てから、聖花は様々な色の瞳を見てきた。青や緑、紫、金に近い色を持つ者さえいた。けれど、黒い瞳を見たのは初めてだった。珍しい色なのだろう。もう少し近くで見れば、とても綺麗なのかもしれない。そんなことを思ったものの、今は立ち止まっている場合ではなかった。
聖花はそのまま廊下を進んだ。少女に教えられた通り、真っ直ぐ歩くと目的の場所はすぐに見つかった。
「本当にすぐだった……」
思わず独り言が漏れる。それなら、自分はどうしてあれほど遠くまで歩いてしまったのだろう。疑問に思いつつも聖花は特に考えないようにすることにした。
用を済ませ、鏡の前で髪やドレスを簡単に整える。先ほどは忘れていたかもしれないと思って尋ねられなかったが、やはり知らないままなのは気になる。会場へ戻ったら、少女の名前を聞いておこう。正直に謝れば、きっと教えてくれるだろう。そう考えながら廊下へ出たが、少女の姿はどこにもなかった。
「あれ?」
聖花は辺りを見回した。廊下は真っ直ぐに続いており、遠くまで見渡せる。別れてから、それほど時間は経っていない。それなのに、少女の背中さえ見えなかった。近くの扉からどこかの部屋へ入ったのだろうかと、並んだ扉へ目を向けたものの、どれも固く閉ざされている。
「名前、聞きそびれちゃったな……」
少し残念に思いながらも、聖花は会場へ戻るため歩き出した。同じ夜会へ参加しているのなら、また顔を合わせる機会もあるだろう。少女自身、また会いましょうと言っていたから、きっとすぐに再会できる筈だ。そう考えて。
帰り道は、来た時ほど長く感じなかった。廊下を進むうちに、遠くから人々の話し声や音楽が聞こえ始める。ぼんやりとしていた音は、歩くほど少しずつ形を取り戻し、やがて厚い扉の向こうから聞こえているのだと分かるようになった。
扉を開けた途端、眩い光と賑やかな声が一斉に聖花を包み込む。少し離れていただけなのに、会場の明るさが妙に懐かしい。聖花は目を細めながら広間を見回すと、アナスタシアとリリエルは約束通り先ほどと同じ場所で待っていてくれた。
「アナ、リリー」
聖花が声を掛けながら近づくと、二人が揃ってこちらを向く。
「お帰りなさいませ、マリー様」
「お、お帰りなさい」
「遅くなってごめんなさい。もう夜会も終わりですね」
楽団は既に演奏を終えたらしく、会場から音楽が消えていた。残っている客人たちも、帰りの挨拶を交わし始めている。
「そうですね。それにしても、随分遅かったですわね」
アナスタシアが少し心配そうに聖花を見る。
「どこかへ寄り道でもなさっていたのですか?」
「していませんよ。お花を摘みに行っていただけです」
聖花が答えると、何故かアナが僅かに眉を寄せた。
「ただ、途中で少し迷ってしまって。思っていたより遠かったので驚きました」
「遠かった?」
「はい。でも、先にいた令嬢に道を教えてもらえたので、ちゃんと辿り着けました」
「先にいた令嬢……ですか?」
リリエルが不思議そうに首を傾げる。
「どなたですか?」
「それが、名前を聞きそびれてしまったんです」
「マリー様からは名乗られたのですか?」
「名乗りました。向こうは私のことを知っていたみたいで、先にマリアンナさんって呼ばれましたけど」
口にしてから、聖花は少しだけ違和感を覚えた。
自分はまだ名乗っていなかった。それなのに、少女は最初から聖花の名前を知っていた。どこかで見掛けたか、誰かから聞いたのだろうと考えていたが、会場の外で一人になっていた聖花を、迷うことなく名前で呼んだのは少し不思議だった。
「どのようなご令嬢でしたの?」
アナスタシアが尋ねる。
「私と同じくらいの歳だと思います。髪は、この辺りまでで」
聖花は自分の胸と肩の間へ手を添えた。
「暗かったので、髪やドレスの色はよく分かりませんでした。でも、普通の令嬢に見えましたよ。落ち着いた感じの方でした」
「普通の……」
「はい。少し静かな方でしたけど、親切に道を教えてくれました」
「ほかに、何か覚えていることはございますか?」
アナスタシアの問い掛けに、聖花は少女の姿を思い返した。暗くて髪色は分からなかったし、ドレスの色も、顔立ちも曖昧だった。けれど、一つだけはっきりと覚えているものがある。
「瞳が黒かったです」
「……黒?」
アナスタシアの声が僅かに低くなった。
「はい。星の光が当たった時に見えました。すごく深い黒色で、綺麗な瞳でした」
そう答えた瞬間、アナスタシアの表情から笑みが消えた。
リリエルも驚いたように目を見開いている。
「どうしたんですか?」
聖花は二人を見比べた。
黒い瞳が珍しいからだろうか。聖花もこの世界に来てから初めて見た色の瞳だったが、みな色とりどりの瞳をしていたために、その事については然程気にしてはいなかった。むしろ綺麗だな、と思ったくらいである。
だが、二人の反応はただ珍しい色を聞いた時のものには見えなかった。
「マリー様」
アナスタシアが慎重に口を開く。
「見間違いではございませんか? 濃い茶色や青色が、廊下の暗さで黒く見えたということは」
「そうかもしれませんけど……」
廊下は確かに暗かった。星明かりが少女を照らしたのもほんの一瞬で、そこまでしっかりと目視できたわけではない。それでも、聖花の記憶にはあの黒い瞳が妙にはっきりと残っていた。
「でも、私には黒く見えました」
「そうですか……」
アナスタシアは何かを考えるように視線を伏せる。隣では、リリエルが自分の指を握り締め、落ち着かない様子で聖花を見ていた。
「何かおかしいんですか?」
「その前に、一つ確認してもよろしいでしょうか」
「はい」
「マリー様は、お花を摘みに行かれたのですよね?」
「そうですよ」
「この暗い時間に、屋外へ?」
「え?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「屋外には出ていませんよ。会場の近くにある、その……お手洗いへ行ったんです」
「ですが、先ほどお花を摘みに行ったと……」
「そういう意味で使う言葉ではないんですか?」
アナスタシアが目を瞬かせ、リリエルも戸惑ったように聖花を見ていた。
何かが噛み合っていない、そう聖花は感じた。
「この国では、本当に花を摘む時に使う言葉ですわ」
「えっ」
「まさか、あの暗い中で外へ出られたのかと思いました」
「違います、違います。私もそこまで危ないことはしませんよ」
聖花は慌てて首を横へ振った。アナスタシアは安堵したように息を吐いたものの、すぐにまた険しい表情へ戻った。
「では、どちらの廊下へ向かわれたのですか?」
「会場を出て、そのまま真っ直ぐです」
「真っ直ぐ……?」
「はい。誰かにそう教えてもらったんです」
「誰からですか?」
「会場にいたメイドだと思うんですけど……」
問い詰められるような気分になりながら答えていると、ふと違和感を感じて聖花は言葉をピタリと止めた。どれだけ思い出そうとしても、道を尋ねた相手の姿だけがどうしても浮かんでこない。まるで顔を黒い絵の具で塗りつぶしたかのように、聖花の記憶に靄がかかっていた。
違和感を感じつつも、何とか言葉を続ける。段々歯切れが悪くなっていることに、聖花自身は気づいていない。
「それが、誰だったのか覚えていなくて」
「覚えていない?」
「人が多かったので、ちゃんと顔を見ていなかったのかもしれません」
聖花はそう説明したが、アナスタシアは納得していないようだった。
「本来、お手洗いは会場を出て右の廊下へ進み、最初の角を曲がった先にございます。真っ直ぐ進む必要はありません」
「右……?」
聖花が歩いたのは右の廊下ではなく、会場を出てから真っ直ぐ。かなり長い距離を歩かされた後、あの少女へ出会ったこともハッキリと覚えている。
「でも、私は確かに……」
聖花が言い掛けると、アナスタシアは一度会場内へ視線を巡らせた。
広間にはまだ何人もの貴族が残っている。金や赤、茶や紫色の髪がシャンデリアの光を受け、様々な色の瞳が周囲へ向けられていた。けれど、肝心の黒い瞳を持つ者は一人も見当たらない。
「私も、今夜招かれた全ての方を把握しているわけではありません」
アナスタシアは慎重に言葉を選びながら、聖花へ向き直った。
「ですが、少なくとも私の知る限り、今日この夜会に黒い瞳の令嬢は一人もいません」
「……え?」
聖花から、気の抜けたような声が零れた。




