6.素敵な出会い
ダンドールと別れた聖花は、一人ゆっくりと会場の奥へ歩みを進めていた。
王都でも名高いゴルダール伯爵家が主催する夜会だけあって、広大な会場には数え切れないほどの貴族たちが集っている。磨き上げられた大理石の床には幾重ものシャンデリアの光が映り込み、高い天井には繊細な装飾が施され、壁際には季節の花々が惜しげもなく飾られていた。華やかな空間には優雅な音楽が静かに流れ、人々の談笑が心地よいざわめきとなって溶け込んでいる。
先ほどまで隣にいたダンドールは、娘が無事に令嬢たちの輪へ向かったことを確認すると、ヴィンセントの元へ戻っていった。振り返れば少し離れた場所で二人が言葉を交わしている姿が見える。
もっとも、ダンドールの視線は時折こちらへ向いているような気もしたが、流石にそれを気にしていては何も始まらない。
(……頑張ろう)
胸の前にそっと手を置き、小さく深呼吸をする。鼓動は少しだけ速く、緊張しているようだった。当然と言えば当然だった。聖花にとってもマリアンナにとって初の社交界なのだから。
視線を巡らせれば、会場のあちらこちらで令嬢たちがいくつもの輪を作り、思い思いに談笑していた。趣味の話をしているのか。それとも最近流行っているものや衣装の話かもしれない。楽しそうに微笑み合う姿を見ているだけで、自然とこちらまで頬が緩みそうになる。
(みんな、楽しそう……)
あの輪の中へ入れたら、自分もあんなふうに笑えるのだろうか。人数の少ないところの方が話しかけやすいだろうか。いや、それとも人数が多いところの方が新しく入る人にも慣れているかもしれないのだろうか。どこへ声を掛ければいいのかと考えて、期待を胸に抱きながら一つ一つの輪へ目を向けていく。
そうして迷っているうちに、ひときわ賑やかな笑い声が耳へ届いた。自然と視線を向けると、そこには十名近い令嬢たちが集まって、輪になって談笑していた。誰か一人が話せば周囲が笑い、また別の誰かが話し始める。皆が楽しそうに会話を交わしている。
(あそこなら……)
人数が多い分、新しく加わる人にも慣れているかもしれない。そんな単純な考えだったけれど、今のマリアンナにとっては、それだけで十分に理由になった。小さく拳を握りしめ、自分を励ますように一度だけ頷く。
輪へ歩み寄ると、邪魔にならない距離で足を止め、背筋を伸ばして優雅に一礼した。
「皆様、お話し中に失礼いたします」
その一言で、令嬢たちの会話がぴたりと止まる。何人もの視線が一斉にマリアンナへ集まった。
圧力に一瞬だけ胸が強張る。それでも笑顔だけは崩さず、聖花はゆっくりと言葉を続けた。
「ヴェルディーレ伯爵家が二女、マリアンナ・ヴェルディーレと申します。もしご迷惑でなければ、私も皆様のお話へ加えていただけませんでしょうか。」
礼儀としては何も間違っていない。そう思っていた。だからこそ返ってきた反応は、あまりにも予想外だった。
誰も口を開かない。先ほどまで楽しそうに笑っていた令嬢たちは、まるで時間が止まったかのように沈黙し、それぞれ異なる視線をマリアンナへ向けていた。驚き、戸惑い。そして――どこか冷ややかな色。その空気に触れた瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。
(……あれ?)
何か間違えてしまったのだろうか、礼儀を欠いたのだろうか。思い返しても思い当たる節はないのに、その沈黙だけで歓迎されていないことだけは嫌というほど伝わってきた。
やがて、一人の令嬢が静かに扇子を閉じた。自然と周囲の視線がその少女へ集まる。少女の艶やかな髪は夜会の灯りを受けて淡く輝き、細やかに結い上げられた髪には品格が滲んでいた。纏うドレスもまた一目で上質と分かる仕立てであり、豪華でありながら決して下品ではない。華やかさを誇示するのではなく、それが当たり前であるかのように身に纏っている姿には、生まれながらに高位貴族として育ってきた者だけが持つ風格があった。
そして何より印象的だったのは、その微笑みである。口元は確かに笑っている。しかし、その瞳には温かさが一切宿っていなかった。穏やかな仮面を被りながら静かに相手を見定めるような視線に、聖花は思わず背筋を伸ばす。
「あら、初めまして」
澄み切った、美しい声だった。その声だけを聞けば、誰もが気品ある令嬢だと感じるだろう。
少女は優雅に一礼し、ゆっくりと名乗る。
「私、ロザリア・モネストと申しますわ」
そこで一度言葉を切ると、口元へ扇子を添え、小さく笑みを深めた。
「……もっとも、この王都で私の名をご存じない方など、そうそういらっしゃいませんけれど」
その一言に、周囲の令嬢たちが笑う。上品とも下品ともとれる笑いだ。
ロザリアの発言は自慢とも取れるものだった。しかし、それを嫌味と感じさせないだけの自信と風格が彼女にはあった。彼女が笑えば周囲も笑い、彼女が口を閉ざせば口を閉ざす。この集団の中心が誰なのか、一目で分かった。
ロザリアは改めてマリアンナに視線を戻す。瞳は冷ややかで、怒りも敵意も感じられない。ただ、相手を測るように観察していた。
「ヴェルディーレ伯爵家のマリアンナ様、ですわね」
「はい」
小さく頷く。するとロザリアは柔らかな笑みを崩さないまま、どこか感心したように頷いた。
「お噂は以前から耳にしておりますわ」
その瞬間、聖花は胸が少しだけ軽くなるのを感じた。もしかしたら話ができるかもしれない。そんな期待が頭をよぎったのだ。
だが、その期待は次の一言であっけなく砕かれる。
「今日こうしてご自身から私たちにお声を掛けられるとは思ってもおりませんでした」
くすり、とロザリアが笑う。
「『箱入り娘』、と伺っておりましたもの」
その言葉に合わせるように、周囲からも小さな笑い声が漏れた。
「まあ、本当に」
「勇気がおありなのね」
「少し驚いてしまいましたわ」
誰も声を荒げない。誰も露骨な悪口は言わない。けれど、その笑顔と言葉の端々から、自分を歓迎していないことだけは嫌というほど伝わってきた。
聖花は困惑した。どう返せばいいのか分からないし、何か失礼なことをしてしまったのかもしなかったからだ。けれど、頭の中で何度考えても答えは見つからない。
そんな彼女の様子をひと通り見たロザリアは、まるで幼い子へ物を教える教師のような口調で続けた。
「社交界という場所は、とても大切な繋がりを築く場ですの。ですから皆様、それぞれ幼い頃から交流を重ね、互いを知った上で関係を育んでおります」
言葉だけを聞けば、ごく当たり前の説明だった。
しかし、
「突然その輪へ加わろうとなさるのは、少々難しいことではなくて?」
その一言だけで十分だった。遠回しではあるが、ここへ来るべきではなかった、と告げられたも同然だったからだ。悪意が見え隠れしていて、歓迎する気は更々ないらしい。聖花に聞こえるくらいの小さな声で彼女の陰口を叩いている。
聖花の胸が、チクリと痛んだ。友達が欲しかった気持ちに嘘はない。なのに、目の前の令嬢たちは誰一人として、彼女に手を差し伸べようとはしかった。それどころか、笑顔を浮かべながらハッキリと拒絶している。
聖花は知らず知らずのうちに指先を握り締めていた。何故こんなにも言われなくてはならないのか、と。胸の奥が苦しくなったが、それでも涙だけは見せたくなかった。確実に話のタネになって馬鹿にされるからだ。だから聖花は唇をきゅっと結んで、小さく息を吸い込んだ。
それでも、依然として令嬢たちの誹謗中傷は止まなかった。むしろ獲物を見つけたかのように悪化するばかりだ。
家では誰もこんな目で自分を見る人はいなかった。ダンドールも、ルアンナも、メイも、当然のように聖花に優しく接してくれた。ギルガルドも優しさはなかったものの、こんなあからさまな悪意を向けてくることはなかった。だからか、理由も分からないまま向けられる悪意は彼女の想像していた以上に胸へ堪えた。
このまま何か言い返したところで、きっと何も変わらない。そう悟った聖花は、静かにスカートの裾を摘まみ、一礼する。
「……お話の途中、お邪魔いたしました」
精一杯平静を装って口にした言葉だったが、自分でも分かるほど声はわずかに震えていた。ロザリアはそれを咎めることもなく、ただ穏やかな微笑みを浮かべたまま小さく頷くだけだった。
「ごきげんよう」
たったそれだけ。それだけの言葉なのに、まるで「さっさとお戻りなさい」と告げられたような気がして、聖花はそれ以上その場へ留まることができなかった。
踵を返してゆっくりと歩き始めると、背後では再び談笑が始まっていた。先ほどまで自分へと向けられていた視線も、今ではもう誰一人こちらを見ていない。まるで最初からそこに存在しなかったかのように。その事実が、かえって聖花の胸に重くのしかかった。
会場の喧騒から少し離れたところまで歩いてきたところで、聖花は小さく息を吐く。
「……難しいな」
思わず零れた独り言は、人々の話し声へ紛れて誰の耳にも届くことはなかった。
友達を作る。そんな当たり前のことが、こんなにも難しいとは思っていなかった。少しだけ視界が滲みそうになったけれども、ここで泣いてしまえばダンドールたちを心配させてしまう。それだけは嫌だった。
聖花は目元へ触れようとしていた手を途中で止めると、小さく首を振った。
(だめ。まだ一回失敗しただけよ)
そうだ。まだ始まったばかりではないか。あの人たちとは合わなかった、ただそれだけのことだ。と聖花は自信を励ます。世の中には色んな人がいるんだから、きっと自分と話してくれる人だっているはずだ。そう思い直すと、不思議と心が少しだけ軽くなった。
ゆっくりと顔を上げて会場を見渡すと、少し離れた壁際で談笑している二人の令嬢が目に留まる。大きな輪から少し離れたその場所には、どこか穏やかな空気が流れている。
一人は肩口まで伸びた深緑色の髪を揺らす少女だった。宝石のように澄んだエメラルドの瞳は柔らかな印象を与えるものの、その身体はどこか小さく縮こまり、隣に立つ少女の後ろへ半歩ほど身を寄せている。対照的に、その隣へ立つ少女は姿勢良く背筋を伸ばし、強い赤みを帯びた紫色の長い髪を優雅に揺らしていた。薄紫の瞳には知性が宿っており、穏やかな微笑みを浮かべながら隣の少女へ何かを話しかけている。
二人とも派手に笑うわけではない。それでも、互いの話へ耳を傾け、ときおり小さく笑みを交わすその姿は、とても自然で、見ているだけで心が落ち着くような雰囲気があった。
(あのお二人なら……)
もちろん根拠などない。けれど、先ほどロザリアたちへ話しかけた時のような息苦しさはこれといって感じられなかった。
あと一度だけ勇気を出してみよう、と。聖花は胸の前でそっと手を握りしめて、自分を励ますように小さく頷いた。それから静かに歩み寄ると、二人の邪魔にならない距離で足を止めて丁寧に一礼した。
「初めまして。ヴェルディーレ伯爵家二女、マリアンナ・ヴェルディーレと申します。せっかくのお話し中に申し訳ございません。もしご迷惑でなければ、どうか私も会話に入れていただけませんか?」
その声を聞いた二人は、ほとんど同時にこちらを振り向いた。
深緑色の髪の少女は肩をぴくりと震わせると、反射的に隣の少女の袖をきゅっと掴み、小動物のように目を丸くする。一方で紫髪の少女も驚いたように目を瞬かせたものの、その表情はすぐに穏やかな笑みへ戻っていった。
紫髪の少女は驚いた表情を浮かべながらも、すぐに穏やかな笑みを浮かべ直して、隣で固まっている少女を安心させるように小さく微笑みかけると、一歩前へ出て優雅に一礼した。
「ご丁寧にありがとうございます。私、バインド男爵家が長女、アナスタシア・バインドと申します」
名乗り終えると、アナスタシアが一瞬だけ聖花の瞳を真っ直ぐ見つめた。視線には驚きが混じっていた。
『ヴェルディーレ伯爵家の箱入り娘』、王都でその噂を耳にしたことがない貴族令嬢などほとんどいない。社交界へ姿を見せず、父親が過保護に囲い込み、誰とも交流を持たない令嬢。そんな話ばかりが彼女の耳に入っていた。だからこそ、アナスタシアにはマリアンナ自らが声を掛けたこと自体が意外だった。
ほんの一瞬だけ考えたあと、アナスタシアは柔らかな笑みを浮かべる。
「私たちでよろしければ、是非」
その言葉を聞き、聖花の胸が少しだけ軽くなった。断られなかったという事実だけで、張り詰めていた心が少しだけほどけていく。
「ありがとうございます」
自然と聖花の頬が綻ぶ。
その笑顔を見たアナスタシアは、小さく目を瞬かせた。
(……あら)
微笑みに作ったようなところが見られなかったからだった。嬉しいから笑った、ただそれだけなのだとアナスタシアが分かるほど素直な笑顔だった。
その横では、もう一人の少女が未だにおろおろと視線を泳がせていた。聖花と目が合うたびに肩をびくりと震わせ、何か言おうとしては口を閉じる。指先は落ち着かない様子でスカートの裾をきゅっと握り締めていた。
どうやらかなり人見知りらしい。少女は何度か深呼吸を繰り返し、小さく自分へ言い聞かせるように頷くと、意を決したように一礼した。
「マ、マリアンナさま。お、お初に、お目にかかります……。わ、私は、リリエル、と申します……。男爵家、です……。よ、よろしくお願いいたします……」
言葉はところどころ震えていた。それでも最後まで言い切ると、ほっとしたように小さく息を吐く。その姿がどこか小動物のようで、聖花は思わず頬を緩めた。
「アナスタシア様に、リリエル様ですね。こちらこそよろしくお願いします。私こそ、仲良くしてくださると嬉しく思います」
そう返しただけだった。ただそれだけだったのに、アナスタシアとリリエルは揃って目を丸くして聖花を見つめる。まるで予想もしなかった返事を聞いたようだった。
聖花はその反応の意味が分からず、小さく首を傾げた。何か不味いことがあったのか、と。
「……どうかなさいましたか? お二人とも、とても驚いたようなお顔をされていますけれど」
しばらく躊躇っていたリリエルが、おずおずと口を開く。
「あ、あの……マリアンナ様は……どうして、私たちに敬語を使われるのですか……? 私たち、男爵家、なのに……」
最後の方は、どこか自嘲するような小さな声だった。聖花は一瞬きょとんとしてしまう。
(え……男爵家だから?)
頭の中で必死に整理する。
(確か、伯爵家の方が男爵家より爵位は上だったよね)
考え込んでしまった聖花を見て、今度はアナスタシアが心配そうに声を掛けた。
「マリアンナ様? 何か失礼なことを申し上げてしまいましたでしょうか」
隣ではリリエルも不安そうに視線を泳がせている。どうやら二人とも、聖花を困らせてしまったと思っているらしい。
「あっ、いえ……違うんです。」
聖花は慌てて首を横に振った。
「少し驚いただけなんです。私は同じくらいの歳の方とお話しする機会がほとんどありませんでしたから、敬語を使われることにもあまり慣れていなくて……。私もつられて敬語になってしまいました。」
二人は黙って耳を傾ける。聖花は少し照れくさそうに笑った。
「厚かましいお願いかもしれませんけれど……もし良ければ、私とお友達になってくださいませんか? それと、できれば敬語も少しずつで構いませんので、気軽に話していただけたら嬉しいです。」
「「…………」」
二人は言葉を失ったようにマリアンナを見つめた。
爵位が違えば距離を置く。それが貴族社会では当たり前だった。だからこそ、伯爵令嬢の方から「友達になってほしい」と言われるなど、考えたこともなかったのである。
だが聖花には、爵位で人との距離を測るという感覚そのものが薄かった。記憶は曖昧でも、前世の価値観も残っている。加えて、箱入り娘として育ったマリアンナ自身も、貴族同士の複雑な上下関係に深く触れずに育ってきた。
だから彼女にとっては、ごく自然な願いだった。
「それと……マリアンナではなく、『マリー』と呼んでいただけると嬉しいです」
聖花は少し照れくさそうに微笑む。
「家族はみんな、そう呼んでくれるんです。せっかくお友達になるのですから、お二人にもそう呼んでいただけたら嬉しいなって」
アナスタシアは目を細め、優しく笑った。
「マリー様……素敵なお名前ですわ。流石に急に敬語をなくすのは難しいかもしれませんが、三人だけの時でしたら少しずつ慣れていけるよう努力いたします。ですから、どうか私のことも『アナ』とお呼びください。様は付けなくても大丈夫ですわ」
その隣で、リリエルも緊張した様子のまま、小さく頷く。
「わ、私も……が、頑張ります……。まだ、慣れませんけど……。その……リリーって、呼んでください……」
最初に比べれば、震えは幾分収まっていた。人見知りは相変わらずのようだが、少なくとも先ほどのような怯えは見られない。聖花はそんな二人を見て、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「ありがとう、アナ。リリー」
そう呼ぶと、二人は少し照れくさそうに笑う。その笑顔につられるように、聖花も自然と笑みを浮かべた。
「……これから、よろしくね」




