9.友人からのお見舞
朝の柔らかな陽光がアルバ国を照らし、小鳥たちの囀りが庭先に響き始める頃、ヴェルディーレ家の門前へ二台の馬車がゆっくりと姿を現した。
側面には、それぞれ異なる紋章が掲げられている。一つは盾へ蛇が巻き付く紋章、もう一つは大きく翼を広げた鳥の紋章。バインド家とフィロソフィア家の馬車だった。
真っ先にそれへ気付いた庭師は、剪定ばさみを置くや否や屋敷へ駆け込んだ。
「お客様がお見えです!」
報せを受けた執事のガルメッシュは、慌てることなく玄関へ向かう。昨夜、ダンドールから話を聞いていたからだ。
夜会からの帰り際、アナスタシアとリリエルは「またお見舞いに伺います」とダンドールに伝えていた。そのため今朝、マリアンナが目を覚ましたと知ったダンドールは、すぐさま二家へ早馬を走らせたのだ。娘が無事に目覚めたこと。都合の良い時に、ぜひ見舞いへ来てほしいこと。手紙には、その二つだけが簡潔に綴られていた。
だからこそ、この来訪は突然ではない。ガルメッシュは予定された客を迎えるように、静かな足取りで門へ向かった。
重厚な鉄門が、ゆっくりと開いていく。ギギギ、と古びた蝶番が低く鳴り、二台の馬車は庭へ滑り込むように進んだ。やがて扉が開いて、二人の少女が侍女を伴って姿を現した。
アナスタシア・バインド、そして、リリエル・フィロソフィア。二人とも平静を装ってはいるものの、その表情には落ち着きがない。視線は自然と屋敷へ向き、馬車から降りる動きにも僅かなぎこちなさが残っていた。昨夜、目の前で倒れた友人の姿が脳裏から離れないのだろう。
その頃。二階の窓辺では、ダンドールが庭を見下ろえていた。
二人の姿を見ると、自然と口元が綻ぶ。一夜しか共に過ごしていないというのに、こうして足を運んでくれた。その事実が十分嬉しかったのだ。マリーは良い友人に恵まれた。そう考えるとダンドールの胸の奥はじんわりと温かくなった。
玄関前まで歩み寄ったガルメッシュは、二人の前で優雅に一礼した。
「お嬢様方、お待たせいたしました。私、このヴェルディーレ家で執事を務めておりますガルメッシュと申します。本日はようこそお越しくださいました」
落ち着いた声に、柔らかな微笑み。彼は貴族の来客応対には慣れているものの、十四歳ほどの令嬢を迎える機会は決して多くない。だからこそ、普段以上に物腰を和らげていた。警戒させぬよう、緊張させぬよう。そんな心遣いは自然と相手にも伝わる。アナスタシアは安心したように微笑み、リリエルもほっと息を吐いてから一礼した。
「初めまして、ガルメッシュさん。私はマリアンナ様の友人、アナスタシア・バインドと申します。本日は、マリアンナ様のご容態が落ち着かれたと伺い、お見舞いに参りました。ご面会は可能でしょうか」
「わ、私も初めまして。リリエル・フィロソフィアです。アナスタシア嬢と同じく、マリアンナ様のお見舞いに参りました。よろしくお願いいたします」
二人が丁寧に頭を下げると、ガルメッシュも深く一礼を返した。
「ご丁寧にありがとうございます。旦那様より伺っております。どうぞこちらへ」
屋敷へ案内された二人は、まずダンドールへ挨拶を済ませ、その後ガルメッシュに伴われてマリアンナの部屋へ向かう。ダンドールは終始嬉しそうだった。
「マリーに友人がお見舞いに来てくださるとは……」
何度も同じ言葉を零しながら、二人へ礼を述べていた。娘を想う父親らしい姿だった。
やがて部屋の前へ到着する。
「私は部屋の外で控えております。お帰りの際や、ご用がございましたら、どうぞ遠慮なくお申し付けくださいませ」
「ありがとうございます、ガルメッシュさん」
アナスタシアが穏やかに微笑む。ガルメッシュは一礼すると、マリアンナ付きの侍女メイへ役目を引き継いだ。
メイは静かに扉を二度ノックした。
「……はぃ」
返ってきたのは、まだ眠気の残る小さな声だった。つい先ほどまで眠っていたのだろう、夢の中から現実へ引き戻されたばかりのような、どこか力の抜けた返事だった。ほんのりと温かく、名残惜しい夢だっただけに、聖花はまだ布団へ潜っていたい気持ちでいっぱいだった。
(こんな朝に誰だろう)
ぼんやりとした頭で考えても答えは浮かばない。まさか昨日知り合ったばかりの二人が、自分のために訪ねてきたなどとは夢にも思わなかった。
「マリアンナ様。メイです。ご友人様がお見舞いにいらっしゃいました」
その一言で、眠気が少しだけ吹き飛ぶ。
友人。その言葉を頭の中で繰り返した瞬間、扉が静かに開かれた。扉が開くや否や、アナスタシアがぱっと表情を輝かせる。
「マリー様! ご無事です――もごっ」
「アナ、シーーー。声が大きいですよ。あまりマリーさまのお身体に触ることをしては駄目、ですよ?」
駆け出そうとしたアナスタシアの口を、後ろにいたリリエルが慌てて両手で塞ぐ。その動きはあまりに素早く、当のアナスタシアも思わず目を丸くした。
リリエルは普段こそ人見知りで、大人や目上の相手の前では萎縮してしまうことが多い。けれど、大切な人のこととなれば話は別だった。今もマリアンナの身体を気遣う気持ちが勝り、普段の遠慮がちな様子はどこかへ消えている。
一方のアナスタシアは、冷静で気丈な令嬢として振る舞うことが多い。それだけに、友人の姿を見た瞬間、思わず感情が先走ってしまった自分に少しだけ頬を赤くした。
「……ん、んっ」
口を塞がれたまま何度も首を縦に振る。ようやく反省したと分かったのか、リリエルは恐る恐る手を離した。
「ご、ごめんなさい……」
解放されたアナスタシアは小さく咳払いをし、今度はゆっくりとベッドへ歩み寄る。リリエルもその隣へ並んだ。
「マリー様、こんにちは。昨日ぶりですわね。ご容態はいかがでしょうか?」
先ほどまでとは打って変わり、その声音は落ち着いていた。だが、胸の前で重ねられた指先にはわずかに力が入っていて、無事な姿を見るまで気を張り詰めていたのだろうことが聖花にも伝わってきた。
その隣ではリリエルが唇をきゅっと結び、不安そうに聖花の顔色を見つめている。
「アナ……こちらこそ。お陰様で落ち着いてきました。たくさん眠れましたし、私はもう大丈夫ですよ」
聖花はふわりと微笑んだ。まだ眠気が残っているのか、瞼は少しだけ重たそうで、どこか夢の続きを見ているような柔らかな表情をしている。
その穏やかな笑みに、二人は思わず息を呑んだ。
昨夜の青ざめた顔色が嘘のようだった。頬には少し血色が戻り、声にも弱々しさは残っていない。それだけで胸につかえていた重石がすっと軽くなる。アナスタシアは安堵したように目を細め、リリエルも肩から力が抜けたように小さく息を吐いた。
「マリーさま……。顔色も昨夜よりずっと良くなっていて、本当に安心しました」
そう言ってリリエルは大切そうに抱えていた包みへ視線を落とす。
「あの……私たち、お見舞いの品を持ってきたんです。もしよろしければ、受け取っていただけますか?」
アナスタシアも「そうでしたわ」と思い出したように頷く。
侍女から受け取った包みを二人で丁寧に開くと、中から現れたのは一枚の淡い桜色のブランケットだった。マリアンナの桃色の髪より少しだけ深い色合いで、柔らかな布地が朝の光を受けて優しく揺れる。
「夜はまだ肌寒い日もございますでしょう? 少しでも温かくお過ごしいただければと思いまして……」
アナスタシアが穏やかに微笑む。
「リリエルさんと一緒に選びましたの」
「……はい。きっとマリーさまに似合うと思って」
二人は少し照れくさそうに笑い合う。その様子を見つめながら、聖花はそっとブランケットへ手を伸ばした。柔らかな感触が指先に伝わる。それ以上に胸へ伝わってきたのは、この一枚に込められた二人の気持ちだった。
昨日出会ったばかりなのに、まだ互いのことをほとんど知らないはずなのに、こうして彼女のためだけに品物を選んで、わざわざ屋敷まで足を運んでくれた。その事実が、胸の奥へ静かに染み込んでいく。
何故だろう。嬉しいという感情が、少し遅れて胸いっぱいに広がっていった。鼻の奥がつんと熱くなって、視界がぼやけていった。涙だけは堪えようと思っていたのに、それはあまりにもあっけなく頬を伝ってしまった。
「……ありがとう」
それだけ言うのが精一杯だった。
ぽろり、と一粒。続いて、また一粒。零れ落ちた涙は、桜色のブランケットへ静かに染み込んでいった。
アナスタシアとリリエルは驚いたように目を見開いたものの、その涙が悲しみではないと気付くと、互いに顔を見合わせて、小さく微笑み合った。
……それだけで十分だった。




