3.一週間後の約束Ⅰ
「……やっぱり、避けてる」
他人には決して聞こえない程度の声量で呟く。朝から丸一日それとなくフェルナンの様子を窺い続けた末に、聖花はようやく一つの確信へと至ったのだ。
ここ数日は、まだ偶然という可能性を捨て切れずにいた。たまたま話し掛ける機会がなかっただけかもしれないし、授業中に何度か視線を逸らされたことについても聖花が気にしすぎているだけだと言われれば否定できなかったからだ。
しかし今日一日を通して注意深く観察してみれば、流石に偶然では片付けられないことが分かってくる。他の生徒に対するフェルナンの態度は以前と何一つ変わっていなかった。授業ではいつも通り説明を続け、ときには理解の追いついていない生徒に声を掛けることもあれば質問を受ければ足を止めて答えているのに、聖花の近くへ来ると不自然にならない程度に進路を変えて、偶然視線が重なりそうになれば直前で何事もなかったかのように別の場所へと顔を向けてしまう。
あまりにも露骨に避けているわけではない。むしろ、事情を知らない者が見れば気付きもしないだろう。それでも数日前から何度も同じことを繰り返されている聖花には、そこに明確な意図があるとしか思えなかった。
(本当、訳が分からない……)
誰にも気付かれないよう小さく息を吐きながら、聖花は少し離れた場所にいるフェルナンにちらりと視線を向ける。
(振り回すだけ振り回しておいて、今度は急に避け始めるって何なのよ)
家庭教師として再会した時には、過去にカナデが起こした事件を知っていることをほのめかした上で半ば強引に約束を取り付けてきたかと思えば、その後は何事もなかったかのように親身な教師として振る舞い、入学式の日には人目を避けて部屋へ呼び出した挙句、鍵まで掛けて距離を詰めてきた。
それが今度は、自分から近付いてくるどころか徹底して距離を取っているのだから、こちらとしては何を考えているのか分かったものではない。
(このまま何もしてこないなら、それが一番いいんだけど……)
少なくとも、あの日のようなことを再びされるよりは遥かにましだし、フェルナンが自分から距離を置いてくれるというのなら本来であれば歓迎すべきことなのだろう。
だが、フェルナンは今の聖花が、かつて捕らえた「カナデ」だと知っている。身体の入れ替わりまでは知られていないにせよ、少なくとも彼の中ではセイカ・ゴルダールという名の下にいる自身とあの時捕らえた少女は同一人物なのだ。その事実を握られている以上、何を考えているのか分からないまま放置するのは聖花にとってどうしても落ち着かなかった。
(カナデとのことだって、まだ全然分かってないのに……)
本来ならば、そちらをどうにかすることこそ最優先なのだ。
今の聖花がカナデの身体にいる以上、マリアンナの身体にはカナデがいるはずであり、いつかはそこから身体を取り戻さなければならない。それだけでも調べるべきことは山ほどあるというのに、フェルナンの事情まで常に気に掛けなければならないとなれば考えるだけで頭が痛くなってくる。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、不意に少し先を歩く見覚えのある背中が目に入って、聖花は反射的に足を止めた。
(……フェルナン)
ちょうど授業を終えたところなのか、数人の生徒が行き交う廊下の先をフェルナンが一人で歩いている。
周囲にはそれなりに人がいる。二人きりになるのは論外だが、ここならば何かあったとしても人目があり少なくとも入学式の日と同じ状況にはならない。それにこれだけ生徒がいる場所なら、教師という立場上、声を掛けられて露骨に無視することも難しいだろう。
(ここなら……)
今すぐ事情を問い詰めるつもりはない。ただ、少し話し掛けて反応を見るくらいならできるはずだ。
そう考えて聖花が歩調を僅かに速めた、その時だった。少し先を歩いていたフェルナンが不意にこちらへと顔を向け、一瞬だけ視線が重なった。
(あっ――)
声を掛けようとした時にはすでに遅かった。フェルナンは何事もなかったかのように視線を逸らすと、ちょうど横を通り過ぎようとしていた生徒たちの向こう側へ進路を変え、そのまま人混みへ紛れ込むように姿を消してしまった。
追い掛けようにも、何人もの生徒が行き交う中ではすぐに背中すら見えなくなり、聖花は行き場を失った視線をしばらく廊下の先へ向けたままやがて諦めたように息を吐いた。
(……やっぱり、避けてる)
ずっと感じていた疑念は、これでもうほとんど確信へ変わったと言っていいだろう。単に会話をする機会がないだけならともかく、こちらが近付こうとした途端に進路まで変えられたのだから、偶然だと考える方が無理がある。
(……何なのよ、もう)
追い掛けてまで話をするべきか一瞬迷ったものの、わざわざ人混みを掻き分けて教師を追い回すなど目立って仕方がないし、そこまですれば逆に周囲から不審に思われかねない。今日は諦めるしかないだろうと踵を返しかけたところで、ふと今日の日付が頭を過ぎた。
(……あれ?)
何かを忘れているような気がして、足を止める。今日は何日だっただろうかと記憶を辿り、入学式から経過した日数を数えたところで、ようやく一つの約束が脳裏に蘇った。
(そういえば……今日だった)
『一週間後、同じ時間にここへ来い』
入学式の翌日アーノルドから告げられた言葉だった。
あれから、もう一週間が経とうとしている。しかも「同じ時間」という言葉まで思い出したところで、聖花はさっと顔から血の気が引いていくような感覚を覚えた。
(……過ぎてる)
今はすでに昼を回っている。つまり危うく忘れるところだったどころか、約束した時間などとうに過ぎており、聖花は何の連絡もせず約束をすっぽかしてしまったことになる。
(まずい……)
相手がアーノルドでなければ素直に申し訳ないと思うところだが、よりにもよってあの男である。約束を忘れたこと自体よりも、これを理由にどんな嫌味を言われるのかを想像しただけで気が重くなり、せめて放課後になったら約束の場所へと向かおうと考えた、その時だった。
今しがたフェルナンが消えていった方向とは反対側から、見覚えのある人物がこちらへ歩いてきていた。
(……アーノルド?)
噂をすれば何とやら、とでも言うべきなのだろうか。一定の歩調でこちらへと向かってくるアーノルドは聖花の姿に気付いているはずなのに、特に歩調を緩める様子もなければ声を掛ける素振りもなく、普段と何ら変わらない顔で真っ直ぐ歩いてくる。
まさか約束をすっぽかしたことについて直接文句を言いに来たのだろうか。そんな考えが浮かび、こちらから先に謝るべきかと迷っているうちにも二人の距離は縮まっていき、アーノルドは結局足を止めることなく、そのまま聖花の横を通り過ぎようとした。
何も言わないのだろうか。思わず横目でその姿を追い掛けた、まさにすれ違う瞬間だった。
「放課後、屋上へ来い」
周囲には届かないほど小さな声だけが耳元に聞こえ、聖花は反射的に足を止めた。慌てて振り返った時にはアーノルドは何事もなかったかのように歩き続けていて、こちらへ顔を向けようともしていない。
(屋上?でも、約束した場所は……)
今日の約束を忘れていたわけではないらしい。それどころか、わざわざ場所を変更するために自分を探していたのだろうかと一瞬疑問に思ったものの、放課後になれば以前の場所は朝よりも人通りが増えるし、誰にも聞かれず話すには屋上の方が都合がいいと判断したのだろう。
(……それなら、まあ分かるけど)
聖花はそう納得し、それ以上深く考えることなく遠ざかる背中を見送った。
◆
放課後、言われた通り屋上へと辿り着いた聖花は扉を開けるなり辺りを見渡したものの、そこにいるはずの人物が見当たらないことに気付いて眉を寄せた。
(……あれ?いないんだけど)
わざわざ向こうから場所を変更してきたというのに、肝心の本人がいないとはどういうことなのか。まだ来ていないだけだろうかと考えながら周囲へ視線を巡らせても、あるのは無人の屋上と校舎を囲む景色ばかりで、やはりアーノルドの姿はどこにも見当たらない。
「上だ」
「えっ?」
突然、頭上から聞き覚えのある声が飛んできた。
反射的に顔を上げたものの屋上に出るための建物に遮られて声の主までは見えず、辺りを確認してみれば側面に上へと続く梯子が取り付けられていることへ気付いた。まさかと思いながらそこを上っていくと案の定、屋上扉のさらに上にある平らな場所へ腰を下ろして何食わぬ顔でこちらを見ているアーノルドの姿があった。
「驚かさないでください」
「勝手に驚いておいて、何を言う?」
相変わらず一言余計だと思いながらも、聖花はそこで今朝のことを思い出し、僅かに気まずそうに視線を逸らした。
「……それと、今朝は申し訳ありませんでした。約束を忘れていて」
「別に構わん」
「でも、わざわざ私を探して、場所の変更まで伝えに来てくださったのでしょう?」
「…………ついでだ」
「そうですか」
妙な間があったことには少し引っ掛かったものの、本人がそう言うのなら追及するほどのことでもない。聖花はそれ以上触れず、改めてアーノルドへ向き直った。
「それにしても、こんなところまで使って随分とコソコソしますね」
「人目を避けているだけだ」
「コソコソと悪巧みしてる人が言う台詞ですか」
「それと、お前の態度が不敬なのは別の話だ」
「……そうですか」
間髪入れず返され、聖花は今度こそ聞こえるようにもう一度溜息を吐いたものの、アーノルドはそれ以上指摘することなく、呆れたような視線を一度向けただけで話を切り替えた。
「魔術の授業はどうしている」
「……何故そんなことを?」
あまりにも唐突な質問に、聖花は怪訝そうに眉を寄せる。
「単に気になっただけと言えば?」
「教える義務がありますか?」
「義務も何も、『対等な協力者』なのだろう? 何も答えないようでは対等とは言えない。違うか?」
「…………」
以前、自分から持ち出した言葉をそのまま利用され、聖花は反論しかけた口を閉ざした。こういう時だけ都合よく覚えているのだから質が悪いと思うものの、確かに自分で言った手前、何も答えないというのも筋が通らない。
「……どうも何も、普通に授業を受けているだけですが」
「それにしては、魔具を使っていないようだが」
さらりと続けられた一言に、聖花は僅かに眉を動かした。
何故それを把握しているのかとは、あえて聞かなかった。あの魔具がアーノルドの魔力によって作用する以上、使用していなければ向こうにも分かるのかもしれないし、わざわざ問い質すほどのことでもない。
「そのことでしたら、自分で魔術を使えるようになるために特訓しているんです」
先日のギルガルドの授業を思い返しながら答えた瞬間、それまで何でもない顔をしていたアーノルドが僅かに目を見開いた。
「待て。まさか人前で闇魔術を使っていないだろうな?」
「使ってませんよ。三大属性です」
「……ギルガルド・ヴェルディーレか」
すぐに察したらしく、アーノルドは額へ片手を当てながら小さく息を吐いた。
「あんなもの、普通ならばできない」
その口振りからすると、どうやらアーノルドもギルガルドの授業を受けたらしい。もっとも、普通ならばできないと言われたところで聖花としては素直に諦めるつもりなどなかった。
「ですが、やってみないと分からないものでは?」
「……好きにしろ。ただし、闇魔術の扱いを疎かにするな。お前にとっては、そちらの方が余程重要だ」
「人前で使ってはいけないのに、どうやって特訓しろというのですか?矛盾しています」
「人前で使うなと言っただけだ。誰も使うなとは言っていない」
「簡単に言いますけど……」
そう返すと、アーノルドは何か言いたげに聖花を見たものの、それ以上この話を続けることはなかった。
「……まあいい。そろそろ本題に入るぞ」
その一言を境に、それまで二人の間にあった緩んだ空気が静かに消えていった。




