1.フェルナンの独白
フェルナン視点です。
薄暗い闇の中で目を覚ます。
―――あぁ、またこの夢か。
久方ぶりに見る夢だった。以前は毎晩のように繰り返し見ていたというのに、いつしか頻度は減り今では忘れた頃に思い出したように現れる程度になっていたはずが、昨日も今日も、まるで何かを思い出させるように同じ光景が瞼の裏へ映し出される。
何度思い返したところで結末が変わるわけではない。それなのに、どうしてこうも頭の中を占めてしまうのか。どうして忘れさせてはくれないのか。
きっかけは本当に些細なことだった。元平民だという少女へ興味を抱き、かつて自分が捕らえた人物だったことを知って驚き、そして、セイカの姿に彼女の面影を重ねてしまった。
その瞬間から、何かが狂い始めたことだけは確かだった。
彼女は強かった。
それは剣や力が強いという意味でも、魔術が優れているという意味でもない。どれほど不利な状況へと追い込まれても、自分の意思だけは決して曲げようとしない其の在り方が誰よりも強かった。
初めて見た時は愚かだと思った。泥に塗れた社交界で自分を貫くことがどれほど危険なのか理解していないのだと、敵を増やすだけの生き方がどれほど愚かなものなのか分かっていないのだと、そう決めつけていた。
しかし、それは間違いだった。彼女は全てを理解した上で、それでも譲らなかったのだ。令嬢たちから疎まれ、嫌がらせを受け、その度に怯えた表情を浮かべながらも一度として視線を逸らすことなく、自らの信じるものだけを守り続けていた。
そんな少女が、いつしか気になって仕方がなくなった。最初は興味本位だった観察も気付けば日課のようになり、彼女は「見ていたのなら止めてください」と本気で怒っていたけれどその反応さえ新鮮で、気付けばその何気ない時間そのものが当時のフェルナンにとって何より穏やかなひとときへと変わっていた。
ある日、どうしてそこまで意地を張るのかと尋ねたことがある。他にもっと賢いやり方はいくらでもあるだろう、と。すると彼女は少し困ったように笑いながら、「貴方は危なっかしいところがあるから、私がちゃんとしていないと」と答えた。
その言葉はどこまでも矛盾していた。フェルナンから見れば危なっかしいのはどう考えても彼女の方であって、自分こそ放っておけなかったというのに、本人だけは最後までその自覚がなかった。
だからこそ可笑しくて、愛おしくて、フェルナンはその日、生まれて初めて心の底から笑ったのだ。何がおかしいのですか、と頬を膨らませる彼女に最後まで理由を話すことはなかったけれど、それでもあの日々は間違いなく幸せだったことを覚えている。
―――だが、その穏やかな時間はあまりにも突然終わりを迎えたのだ。
そんなある日、自分の前へ現れたのが、カナデ――いや、セイカ・ゴルダールだった。
その姿を目にした瞬間から、胸の奥へ押し込めていた何かがゆっくりと黒い闇へと染まっていくような感覚があった。紛れもなく自分自身の感情であるはずなのに、まるで自分ではない何かへ呑み込まれていくようでもあって、気付けばフェルナンは徐々にその衝動を抑え切れなくなっていった。
そして、その歪みは遂に入学式の日、決定的な形となって現れた。
人目のある朝礼という場を利用してセイカを呼び出し、誰もいない部屋へ連れて行き、自ら鍵まで掛けて逃げ道を塞ぐ――今思い返せば、あの時点ですでに正常な判断などできていなかったのだろう。本当は傷付けるつもりなど微塵もなく、ただ話がしたかっただけだった。ただ確かめたかっただけだった。
それだけだったはずなのに、目の前へ立つセイカを見た瞬間、胸の奥底へ押し込めていた何かが一気に溢れ出して、自分でも抑え切れないほど黒く濁った感情が思考を塗り潰していったのだ。
もっと近くで見たい。
離したくない。
どこにも行かせたくない。
そんな自分でも理解できないほど身勝手な衝動が理性を容易く呑み込んで、気が付けば歪み切った想いを吐き出しかけ、怯えた表情で後ずさるセイカを前にしても止まることができず、最後には彼女の姿を重ねて、その名まで口にしてしまった。
あの時のセイカは、間違いなく自分を恐れていた――当然のことだ。理由も告げられないまま部屋へ閉じ込められて逃げ場を失い、得体の知れない男から異様な執着を向けられれば、恐怖を覚えない方がおかしい。
それなのに、その時の自分は、そんな当たり前のことすら見えなくなっていた。
―――本当に、自分は何をしていたのだろう。
今こうして振り返れば、ようやくそう思える。いや、セイカの姿が視界にない今だからこそ、辛うじて冷静でいられるだけなのかもしれない。また姿を見れば、また声を聞けば、自分は再び自分ではなくなってしまう気がして、その想像だけで肩が小さく震えるのを感じた。
学園へ戻るべきではない。そうすれば少なくともこれ以上セイカを傷付けずに済むし、自分自身もまた、あの得体の知れない衝動へ呑み込まれずに済む。それなのに、その結論を受け入れようとするたびに、胸の奥で何かが静かに軋んだ。
もう会わない。ただそれだけのことだ。
今までだって人との別れはいくらでも経験してきた。それが当たり前で、彼女以外に今さら誰か一人と離れることに心を乱される理由など本来の自分にはないはずだった。
だというのに。もう顔を見ることはないのだと考えただけで胸の奥が締め付けられて、その姿を思い浮かべるたびに、入学式の日に怯えた表情ではなく、初めて家庭教師として顔を合わせた時の困惑した顔や、呆れたように自身の横で溜め息を吐く横顔ばかりが脳裏へ浮かんでは消えていく。
いや、違う。
それはセイカじゃない。
あの頃の彼女じゃない。
分かっている。分かっているはずなのに、心だけがその事実を頑なに拒み、何度否定しても二人の姿を重ねてしまう自分がいた。
―――おかしい。
こんな感情を抱いたことなど、一度もなかった。誰か一人をここまで気に掛けたこともなければ、姿が見えないだけで落ち着かなくなったこともない。まして、離したくないなどという独占欲にも似た感情を覚えたことなど、これまでの人生で一度たりとも存在しなかった。いや、一度はあったけれど、ここまでではなかった。
会いたい。
近付きたい。
もう一度話したい。
その衝動が胸の奥底から湧き上がるたびに、同時に黒く濁った何かが心を侵食し、今度は誰にも渡したくないという自分でも理解できない感情へ姿を変えていった。それは間違いなく自分の感情で、しかし同時に本当に自分だけの感情なのかと問われれば、自信を持って頷くこともできない。
フェルナンは小さく首を振る。振り払おうとしたのは思考だったのか、それとも胸の奥で静かに膨れ上がり続ける黒い感情だったのか、自分でも分からなかった。
……本当に、自分はどうしてしまったのだろう。静かな部屋へ問い掛けても返事はなく、聞こえるのは自らの呼吸だけだった。
このまま学園へ戻らなければ、少なくともセイカを傷付けることはない。自分が姿を消せば全て丸く収まるのなら、その方がずっといい。いっそ教師を辞め、このまま誰にも会わず消えてしまえば、それで終わる話なのではないか――そんな諦めにも似た考えが心を支配し始めた、その時だった。
不意に、持ち帰ってしまっていた本の間から一枚の紙が音もなく床へ滑り落ちた。小さな物音だけが静寂の中へ響き、フェルナンは導かれるようにその紙を拾い上げる。
それから何気なく目を通した瞬間、呼吸が止まった。瞳は大きく揺れ、信じられないものを見るように何度もその一文を読み返し、しばらく身動き一つ取れないままその場で固まっていたのだ。
長い沈黙が流れた。フェルナンは紙を静かに折り畳むと、そのまま胸元へしまい込んで小さく目を閉じる。胸の奥で渦巻いていた迷いは完全に消えたわけではない。それでも、このまま立ち止まることだけは許されないのだと自らへ言い聞かせるようにゆっくりと立ち上がった。
後悔も、自責も、この衝動への恐怖も何一つ変わらない。
それでも――。
「まだ、終われないか」
誰へ向けるでもなく小さく零したその呟きだけが静かな部屋へ溶けていき、フェルナンは翌日、再び学園の門を潜ることを決めたのだ。
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