31.静かな決意
前回のあとがきに『次回から新章です』と書いていましたが
プロット見返すと間違いで、この話の次からが新章になります。
(前回のあとがきは編集しておきました)
夜、就寝前になってようやくアデルが部屋を後にし、一人きりになった聖花はベッドへ腰掛けたまま静かに思考を巡らせていた。アデルの前では普段通りを装っていたものの、胸の内は決して穏やかではない。
今日一日を振り返る限り、フェルナンは他の生徒へはこれまでと何一つ変わらない態度で接していた。しかし、その一方で自分だけは意図的に避けられていたようにも思えた。
話し掛けられなかっただけなら、一日程度では偶然と言い切ることもできる。けれど、授業中にふと視線が合えばすぐに逸らされ、それが何度も繰り返された末、最後には自分が座る方角へすら顔を向けようとしなかった。もちろん今日だけでは断定できない。明日になれば何事もなかったかのように話し掛けてくる可能性だってある。それでも、この状態が数日続くようであれば、偶然では済まされないだろう。
思い返してみれば、フェルナンほど、その時々で受ける印象が変わる人物も珍しかった。もちろん、何を考えているのか分からない人物ならギルガルドやアーノルドがいるし、いまだ底の知れないリリスのような存在もいる。けれど、彼らは最初からそういう人物として一貫していた。
それに対してフェルナンだけは、会うたびに別人のような顔を見せる。穏やかな衛兵だったかと思えば、時々底知れぬ態度を見せる家庭教師になり、冷静さを失って取り乱したかと思えば、今度は何事もなかったように教壇へ立っている。その変化だけは、どうしても他の誰とも重ならなかった。
初めて出会ったのは、自分が罪人、彼が衛兵だった頃だ。当時のフェルナンは終始穏やかで、必要以上に責め立てることもなく、助言のような言葉まで掛けてくれた。だが、優しい人だという印象と同じくらい、どこか近寄り難い雰囲気も感じていた。
ところが家庭教師として再会した帰り際に突然「カナデ」と呼ばれ、半ば脅すような形で約束を取り付けてきた。その後は何事もなかったかのように親身な教師へ戻ったかと思えば、約束を取り消してほしいと願った途端、底の見えない不気味な気配を纏い始め、入学式の日には誰もいない部屋へ呼び出した上で鍵を掛け、逃げ場を塞ぐように距離を詰めてきた。
それなのに、あの本を目にした瞬間だけは明らかに様子が変わった。
冷静さすら失い、「シンシア」と呟き、そのまま三日間学園から姿を消したかと思えば、今日になって何事もなかったかのように戻ってきたものの今度は自分だけを避け続けている。
そこに何らかの理由があることだけは間違いない。それでも、その理由だけはどうしても見えてこなかった。
まず気になるのは、約束を断られただけで、あそこまで態度が変わるものなのかということだ。もちろん約束を破られれば腹を立てることくらいはあるだろう。しかし、それだけであの異様な雰囲気を纏う理由としては弱い気がする。
そして何より、入学式の日に取り乱したきっかけは間違いなく本だった。いや、正確には本の中身だ。フェルナンは本を見た直後、「シンシア」と口にしたから。
アデルの話が正しいのなら、シンシアとはアルテミスの別名になる。だとすれば、フェルナンが動揺した理由も、あの本にあると考えるのが自然だった。
もっとも、そう考えられる根拠はまだ多くない。分かっているのは、フェルナンが本を見た瞬間に取り乱して「シンシア」と口にしたこと、そしてシンシアという名はアルテミスという月の女神の別名を指すという二つの事実だけである。
フェルナンはこの本を書いた人物を知っていたのか。それとも、本そのものが史実であり、作中へ登場する人物たちと何らかの関わりを持っていたのか。あるいは全く別の理由なのか――考えられる可能性はいくらでも浮かぶものの、そのどれも決定的な根拠には欠けていて、結局は推測の域を出なかった。
休学した理由については、まだ理解できる。あの時の取り乱しようを思えば、平静でいられる状態ではなかったことくらい想像がつくし、数日学園へ姿を見せなかったこと自体に違和感はない。問題は、その僅か三日後には何事もなかったかのように普段通り振る舞っていたことだった。
もちろん、単に立ち直りが早い性格だったと言われればそれまでだ。だが、あの取り乱し方を目の当たりにした以上、それだけで納得してしまうにはどこか違和感が残った。
それから最後に残る疑問は、なぜ自分を避けるようになったのかということだった。少なくともこれまでのフェルナンを見てきた限り、「気まずいから」という理由だけで距離を置く人物には思えない。本当に反省しているのか、それとも自分へ近付かない別の理由があるのか、あるいはまだ何かを企んでいて、そのために距離を置いているだけなのか――どれだけ考えてみても決め手になる答えは見つからなかった。
では、このままフェルナンを避け続け本来の目的へと目を向けてもいいのだろうか。そう考える自分もいた。何故なら危険人物であることに変わりはない以上、自分から近付く理由などないからだ。距離を置けるのであれば、それが一番安全なのは間違いなかった。
だが、その一方で、このまま何もしなければ状況は何一つ変わらないことも分かっていた。フェルナンは自身の正体を知っている。正確には、それは聖花自身ではないのだが。そのことは一旦置いておくとして、それにもかかわらず今日一日何事もなかったかのように振る舞い、自分だけを避け続けた理由が分からない以上、この先どんな行動へ出るのかも予測できなかった。
だからといって、自分から話し掛ける勇気はない。あの日と同じことが二度と起こらない保証はどこにもなく、無闇に近付くことは危険でしかない。それでも、このまま距離を置き続けていては、彼が何を考え、何を目的としているのか知ることはできず、いざという時に自分を守る術すら持てないままだった。
結局、今の自分にできることは焦って動くことではなく、フェルナンという人物を知り、あの本とシンシアについて調べること。それが、今の自分にできる唯一の備えだった。
もちろん、フェルナンが要注意人物であるという認識は変わらない。例の事件を盾に約束を取り付け、人目を避けて部屋へと呼び出し、鍵を掛けたまま距離を詰めてきたことは紛れもない事実だから。
―――それでも。
これまでの数日間を通して、一つだけ聖花の認識が変わった。フェルナンが危険人物であるという認識は変わらないけれど、その行動には自分の知らない理由がある。
その理由を知らなければ、自分はこれからも彼に振り回され続けるだけなのだろう。
今度こそ、次回から新章【追憶と喪失】に入ります。




