表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

82/92

30.変わらぬ日常、静かな異変

 アデルとの騒ぎから一夜が明け、気が付けば翌日を迎えていた。


 昨夜は結局ほとんど眠ることができず、図書委員の仕事へ向かった今朝も寝不足のまま上の空になってしまったせいでグリッダには「お顔の色が優れませんわ」と心配まで掛けてしまった。気持ちを切り替えて仕事へ集中しようとは思うものの、返却された本を棚へ戻していても、貸出帳へ目を通していても、気が付けば頭の中を占めるのは昨日のことばかりだ。

 最早今となっては何を調べれば真実へと辿り着けるのかさえ分からなくなっていた。


 小説のヒロインであるアルテミスが本当にシンシアを暗示した存在なのだとすれば、その名を口にしたフェルナンは一体何者なのか。そもそもあの小説が史実を基にしているのであれば、フェルナンとシンシアにはどのような関係があったのか。

 考えれば考えるほど疑問だけが増え、そのどれにも答えは見つからないまま思考だけが堂々巡りを繰り返していた。


 いっそリリスやルードルフへ相談することも考えたが、小説の内容そのものを信じているのですか、とルードルフには静かに問い返されるだろうし、リリスにはケラケラと笑われる未来しか想像できない。それ以前に、フェルナンの秘密に関わるかもしれない話を軽々しく口外していいものかという迷いもあって、結局誰にも打ち明けられそうにはなかった。


 教室に足を踏み入れると、そこにはいつもと変わらない朝の光景が広がっていた。窓際では令嬢たちが楽しそうに談笑し、男子生徒も試験や週末の予定について語り合っていて、朝礼前らしい穏やかな空気が教室全体を包んでいる。その様子をぼんやりと眺めながら自席へと腰を下ろし、聖花の耳に入ってきた会話に意識を向けていると、一人の令嬢が思い出したように口を開いた。



「そういえば、フェルナン先生は今日はいらっしゃるのでしょうか」


「どうでしょう。もう体調は良くなられたのかしら」


「代理の先生も分かりやすかったのですけれど、やはりフェルナン先生の授業を一度受けてみたいですわ」


 そんな他愛もない雑談だった。誰も深刻そうにはしておらず、数日姿を見せていない教師を気に掛ける程度のごく自然な会話に過ぎない。

 もちろん、それが当然なのだ。本当の事情を知っているのは聖花とフェルナン、それにリリスだけであり、周囲から見れば教師が体調でも崩したのだろうと思うのは何ら不思議ではなかった。



(……そんな理由じゃ、ないんだけど)


 心の中で小さく呟く。


 口にできるはずがなかった。もしあの日の出来事を話したところで信じてもらえる保証などどこにもないし、それどころか余計な混乱を招くだけだろう。だからこそ、何も知らない令嬢たちの何気ない会話が、かえって胸へと重くのしかかってくるようだったのだ。


 そうこうしているうちに朝礼の時間が近付き、聖花は窓の外へと視線を移した。厚い雲が空を覆い、その隙間には夏らしい積乱雲がいくつも浮かんでいる。午後には雨が降るかもしれない――そんな取り留めのないことを考えながら、いつものようにエルザが教室へ入ってくるのを待っていた、その時だった。

 教室の扉が静かに開き、それとほぼ同時に入口付近から小さなどよめきが広がった。


 聖花が何事だろうと顔を上げようとした、その瞬間。



「おはようございます」


 聞き覚えのある穏やかな声が耳へと届き、聖花は反射的に視線を入口へ向けた。



「入学式の日以来ですね。お久しぶりです。ご迷惑をお掛けし、申し訳ございませんでした」


 教壇の前で深々と頭を下げていたのは、三日ぶりに学園へ姿を現したフェルナンだった。


 聖花は思わず息を呑んだ。確かに姿を見せなくなったままでいられるのも困る。聖花の弱みを握っていることもそうだが、シンシアのことも、あの日彼が口にした言葉の意味も、このままでは何一つ分からないまま時間だけが過ぎてしまうからだ。

 だからといって、こうして何事もなかったかのように戻って来られると、それはそれで胸の奥がざわついて仕方がなかった。


 聞きたいことは山ほどあった。けれど、それ以上に怖かった。


 フェルナンには既に自分の()()を知られている。その彼が三日間姿を消し、何を考え何を決めたのか分からない以上は、学園へ戻ってきた今もなお警戒を解くことなどできず、あの日のことを口外されるのではないか、あるいは別の形で動き出すのではないかという不安ばかりが胸を占めていたのだ。


 しかし、その警戒は予想とはまるで違う形で裏切られることになった。


 朝礼が終わると、一限、二限と授業は滞りなく進み、やがてフェルナンの担当する授業の時間が訪れた。彼は三日間学園を休んでいたことなど微塵も感じさせない口調で教科書を開き、黒板に文字を書き進めながら淡々と授業を進めていく。

 その姿は入学式の日と何一つ変わらない。生徒たちも最初こそ数日ぶりに姿を見せた担任へ安堵したような表情を浮かべていたものの、授業が進むにつれて次第に普段通りの空気を取り戻して、板書を書き写したり質問を投げ掛けたりと、それまでと変わらぬ時間が教室を流れ始めていた。


 けれど、その穏やかな時間の中で一人だけ以前とは同じように過ごせない者がいた。フェルナンの声が聞こえるたび自然と視線が向いてしまい、聖花は授業へと集中できなかったのだ。

 黒板へ文字を書く姿も、生徒の質問へ穏やかに答える姿も、教室を歩きながら実技の様子を見て回る姿も何一つ変わらない。それなのに、その視線だけは一度たりとも聖花を捉えようとはせず、教室内を巡る度にまるで最初からそこへ誰も座っていないかのように通り過ぎていった。


 最初は偶然なのだと思った。実技の確認で各席を回る順番が少し変わっただけなのかもしれないし、自分が気にしすぎているだけなのかもしれない――そう何度も言い聞かせたものの、フェルナンは前の列までは一人ひとりへ短く助言を送りながら歩いてきたにもかかわらず、自分の列へ差しかかると何事もなかったように隣の列へ進み、そのまま別の生徒へ声を掛け始めてしまう。

 そんな光景が一度、二度と繰り返されるうちに、それが偶然ではないことだけは嫌でも理解してしまっていた。


 名前を呼ばれることもなければ、近付いてくることもなく、視線すら交わらない。その様子は、あの日自分を部屋へ呼び出し、鍵を掛けて逃げ場を塞ぎながら距離を詰めてきた人物と本当に同じ人間なのだろうかと思えるほど正反対で、だからこそ聖花にはその静かな態度が余計に不気味に思えて仕方がなかった。



―――避けられている。


 そう結論付けるしかなかったものの、それが安心すべきことなのか、それとも警戒すべきことなのかさえ判断できないまま授業は終わり、胸へと積み重なった違和感だけが答えのないまま静かに大きくなっていった。


 休み時間になれば教室はいつも通りの賑わいを取り戻し、リリスは相変わらず「来るんだ」「来なくてもよかったのに」と悪びれる様子もなく軽口を叩いていたが、その言葉を咎める者はいない。周囲も「体調はもう大丈夫なのかしら」「代理の先生も分かりやすかったですけれど、フェルナン先生の授業が一番落ち着きますわ」と噂を交わす程度で、数日休んでいたことを深刻に受け止めている様子は見受けられなかった。それどころか、フェルナンにアプローチをしている令嬢さえいるくらいだった。

 ルードルフもまた、自らその話題へ触れることはなく、令嬢の一人から「先生がお戻りになられて安心しましたね」と話を振られて初めて「ええ。お変わりないようで何よりです」と穏やかに微笑んだだけで、それ以上何かを語ろうとはしない。


 誰も疑っていないし、誰も気付いていない。リリスだけはその日の出来事を知っているが何ら気にした様子はなく、まるで聖花だけが抱え続けている秘密になってしまったようだった。


 昼休みが終わり、午後の授業が始まっても状況は何一つ変わることはない。フェルナンは相変わらず余裕のある口調で授業を進め、生徒からの質問へ丁寧に答え、ときには教室へ小さな笑いまで生まれるほど自然に振る舞っているというのに、その視線だけは最後まで聖花へ向くことはなく、一日を通して交わした言葉も、目が合った回数もこれといって増えることはなかった。


 やがて最後の鐘が校舎中へ鳴り響き、その音を合図に生徒たちは一斉に席を立ち始める。友人同士で今日の授業について語り合いながら寮へと向かう者、生徒会や委員会へと急ぐ者、それぞれが思い思いの放課後を過ごそうと教室を後にしていく中で聖花だけはゆっくりと教科書を鞄へしまいながら、その喧騒をどこか遠い世界の出来事のように眺めていた。

 このままフェルナンが帰ってしまえば、今日も結局何一つ分からないままで終わる。しかし、何らかの答えを得るために自分から近付く勇気はどうしても湧かなかった。もし再び二人きりになれば今度は何をされるのか分からないという恐怖が足を縛り、知りたいという思いと関わりたくないという思いだけが胸の中で何度もせめぎ合っていたのだ。


 重い足取りで教室を出ると、廊下の先には教師棟へ向かうフェルナンの後ろ姿が見えた。その距離は決して遠くなく、ほんの数歩早足になれば追い付ける程度しか離れていない。

 それでも、その背中を見つめたまま立ち止まることしかできず、迷っている間にもフェルナンは一度も振り返ることなく廊下の角を曲がって、その姿が静かに視界から消えていってしまった。


 結局、この日交わした言葉は一つもない。


 フェルナンが学園へ戻ってきてほしいと思っていたのは事実だ。しかし、それは決して安心したかったからではない。姿を見せないままでいれば、何一つ確かめられないまま、いつ彼が暴露するのかと不安に思ったまま時間だけが過ぎてしまう。それだけは避けたかったのだ。


 だが彼が学園へと戻ってきたことでようやく何かが動き出すと思っていた予想とは裏腹に、何事もなかったかのように振る舞い聖花だけを避け続けるフェルナンの姿は、以前よりもずっと得体が知れず、却って不気味なものへと変わってしまっていた。


 確かに戻ってきた。それなのに、何故か以前よりも遠ざかってしまったような感覚を拭えず、彼を抑えるどころか、何らかの答えに近付くどころか、逆に見えなくなってしまったような焦燥だけが胸の奥へ静かに積もっていった。


 何も終わってはいないし、何も解決していない。そう思わせるには十分すぎるほど、フェルナンの態度は静かで、不気味だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新作短編作品 百番目の死神
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ