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29.伏せられた名前

「お嬢様、どうしたんですか?話したいことって」


 机の上へティーセットを並べながら、アデルが不思議そうに首を傾げる。


 昼間、エレンから思いがけない情報を得た聖花は、一度頭の中を整理したいという思いを抱えたまま寮へ戻ると、お茶の支度をしていたアデルへ声を掛けた。あの恋愛小説を貸してくれた張本人であり、物語の結末まで知っているのは彼女だけだったからである。

 一方で、自分が読めたのは物語の途中までだった。続きを読み終える前に、偶然とはいえフェルナンの部屋へと置き去りにしてしまったため、それ以降の展開は以前アデルから聞いた大まかなあらすじ程度しか知らない。


 もっとも、アデルは今もなお、その本が聖花の手元にあると思っている。そんな相手へいきなり内容を詳しく教えてほしいと頼めば、不自然に思われるのは目に見えていた。だからこそ、寮へ戻るまでの僅かな時間、どう切り出すべきか悩み続けた末、もう隠し通すことはできないと腹を括る。



「アデル。先に謝っておくわ。本当にごめんなさい」


「……ど、どうされたのですか!?」


 突然改まった口調で頭を下げられたアデルは目を丸くし、慌てて手にしていたティーカップを机へ置いた。その拍子に食器同士が小さく触れ合い、静かな部屋へ乾いた音が響く。それでも聖花は視線を上げることができないまま、胸の内に渦巻く後ろめたさを押し殺すように言葉を続けた。



「実は、あなたの貸してくれた小説なんだけど……」


「ああ。あの小説ですか。それがどうかされましたか?」


 いつもと変わらない穏やかな声が返ってくる。その何気ない一言がかえって胸へ刺さり、表情が曇る姿を想像した聖花は一瞬だけ言うことをやめようかとも考えた。しかし、それでは何も変わらないと小さく息を吸い込み、震えそうになる声をどうにか抑えながら口を開く。



「……ごめんなさい。なくしてしまったの。いえ、正確には他の人の手へ渡ってしまって、今は私の手元にないの。本当に、ごめんなさい」


 何度も謝罪を重ねながら事実だけを伝える。


 本来ならば、本を失くしたその日に話すべきことだった。それを今日まで言い出せなかったばかりか小説に新たな意味があるかもしれないと思ったからこそ、ようやく打ち明ける決心がついた自身の身勝手さに聖花は心の中で強い嫌悪を覚えた。謝っているはずなのに、まるで自分の都合だけで許しを請うているような気がして、その言葉はひどく空虚に感じられたのだ。



「伝えてくださってありがとうございます」


 恐る恐る顔を上げた聖花の耳へ届いたのは、責めるどころか、いつもと変わらない穏やかな声だった。

 正面を見ると、そこにいたアデルの表情は先ほどまでと何一つ変わっておらず、怒りも失望も浮かんではいない。その様子に拍子抜けすると同時に、胸の奥に張り詰めていた緊張が少しだけ解けていく。



「ですが、私は気にしておりません。それよりも、お嬢様がご相談もなく他者へ本をお貸しになるような方ではないことは存じております……お茶目なところはございますけれど。ですから、よろしければ何があったのか、お聞かせいただけませんか?」


 責めるのではなく、諭すような優しい口調だった。余計な一言こそ付け加えていたものの、それも場を和ませようとした彼女なりの気遣いなのだろう。その言葉からは、本を失ったことよりも、聖花の身に何が起きたのかを案じている気持ちの方が強く伝わってきて、だからこそこのまま何も話さないことは彼女の信頼を裏切ることになるのではないかという思いが聖花の胸をよぎった。


 勿論すべてを打ち明けることはできない。それでもこれ以上隠し続けるわけにもいかないと覚悟を決めた聖花は、あの日の出来事を一つひとつ言葉にしていった。ヴィンセントへ話が伝わる可能性だけが僅かな不安として残るものの、結果的に何事も起きていない以上説明の余地はあるだろうと自分へ言い聞かせながら。


 フェルナンが家庭教師としてゴルダール家へ来ていた人物であり、その彼が学園では担任を務めていること。放課後に呼び出され、二人きりで部屋に入ってしまったこと。距離を詰められ、とっさに抵抗しようとして鞄を振った拍子にあの小説が床へ落ちてしまったこと。そして本を目にした瞬間、それまでとは別人のように表情を変えたフェルナンが「シンシア」という聞き覚えのない名を呟いたこと。その隙を突いて部屋を出たのの、本だけは回収できなかったこと。そこまで話し終えると、聖花はようやく小さく息を吐いて言葉を切った。

 対するアデルは、話が進むにつれて目を大きく見開き、いつしか両手で口元を覆ったまま固まっている。



「……そんなことが……」


「ええ。悪いけれど、全部事実よ。アデルには、本当に申し訳ないことをしたわ」


 改めて謝罪すると、アデルはその言葉を遮るように勢いよく首を横へ振り、普段の穏やかな様子からは想像もつかないほど強い口調で言い返した。



「いいえ!お嬢様は何も悪くありません。悪いのはフェルナンという男です。もし私がその場におりましたら、間違いなく殴りに行っていたと思います!」


 思わず拳を握り締め、今にも立ち上がりそうな勢いで憤るアデルの姿を見た瞬間、それまで胸を締め付けていた重苦しい空気がふっと和らぎ、聖花は堪え切れず小さく吹き出してしまった。



「ふふっ。殴りにって……相手は一応貴族よ?」


 先ほどまでの重苦しい空気が嘘のように和らぎ、思わず笑みを零しながらそう返すと、アデルは頬を膨らませたまま首を横へ振り、少しも考えを曲げる様子を見せない。



「貴族かどうかなんて関係ありません。問題なのは、その方がお嬢様へ害をなそうとしたかどうか、それだけです」


 あまりにも真っ直ぐな言葉だった。


 身分ではなく、ただ聖花が傷付けられそうになったという事実だけを見て怒ってくれている。その気持ちが痛いほど伝わってきたからこそ、先ほどまで笑っていた表情は自然と静まり、胸の奥には別の感情が込み上げてきた。



「……本当にごめんね」


 ぽつりと呟くように零したその言葉へ、アデルはすぐに優しく首を横へ振った。



「ですから、私は本当に気にしておりません」


「そうじゃないの」


 聖花は静かにその言葉を遮ると、一度膝の上で手を握り締め、小さく息を整えてからアデルを真っ直ぐ見つめる。



「今日打ち明けたのにも理由があるの。あの小説の内容を、今度は最初から詳しく教えてもらえないかしら」


 その言葉を口にした瞬間、聖花自身ひどく身勝手なお願いをしていると思った。


 本を失くしたことだけでも申し訳ないというのに、それを返せないまま、それをきっかけにして新たな情報まで得ようとしている。謝罪の言葉を重ねながらも、結局は自分の都合を優先していることに変わりなく、その事実を思えばどうしても謝らずにはいられなかったのである。



「私は構いませんが……何か気になることでもあるのですか?」


 先ほどまで怒りを露わにしていたアデルも、聖花の様子から冗談ではないことを察したのだろう。穏やかな表情へ戻ると、相手を気遣うような声色でゆっくりと問い掛けてきた。一方で、聖花は一瞬だけ言葉を選ぶように視線を伏せた。

 エレンから聞いたことも、フェルナンの反応も、頭の中では一本の線になり始めている。しかし、それはまだ確証ではなく、あくまで自分の中で生まれた仮説に過ぎない。


 それでも、話を進める以上隠していても仕方がないと覚悟を決めると、聖花は小さく息を吐いてから口を開いた。



「実はね、この小説……『実話』を元にしているのかもしれないの」


「え……」


 思いもよらない言葉だったのだろう。アデルは小さく息を呑むと、そのまま言葉を失った。無理もない。フィクションとして楽しんでいた恋愛小説が、実は現実に起きた出来事を元にしているかもしれないなど、突然告げられてすぐに受け入れられる話ではないのだから。


 何より、聖花が覚えている範囲だけでも、その物語は国外逃亡や濡れ衣、投獄に脱獄と、あまりにも波乱に満ちた内容だった。それらすべてが実際に起きた出来事なのだとすれば、主人公が辿った人生は想像するだけでも胸が苦しくなる。もっとも、その一部は今の自分自身が経験した出来事とも重なっているのだが、そんなことをアデルへ打ち明けられるはずもなく胸の内へ押し込めたまま静かに言葉を続ける。



「詳しくは言えないけれど、話の内容が何かの手掛かりになるかもしれなくて、それで――」


「分かりました。これ以上は仰らなくても大丈夫です」


 最後まで言い切る前に、アデルは穏やかな声でその言葉を遮った。恐らく、この先に続く内容を察したのだろう。聖花としては「だからこそ、あなたに内容を教えてほしい」と伝えるつもりだったが、それ以上理由を聞こうとはしない彼女の気遣いがかえってありがたく、静かに頷く。



「では、私の覚えている範囲になりますが、最初から順を追ってお話しいたしますね」


「……本当にごめんね」


「お気になさらないでください。これは私の意思でお話しすることですから」


 柔らかく微笑んだアデルは、ティーカップへ口を付けて一息つくと、記憶を辿るようにゆっくりと物語を語り始めた。以前ネタバレとして聞かされた時は結末だけを簡単に教えられたに過ぎなかったが、今回は主人公が国外へ逃れるまでの葛藤や、牢へ繋がれるまでの経緯、脱獄に至るまでの心情、その後どのような道を歩み、最後にどんな結末を迎えたのかに至るまで、一つひとつを丁寧に思い返すように話してくれた。

 内容は以前聞いたものとは比べ物にならないほど詳細で、聖花は一言一句聞き漏らすまいと耳を傾けながら頭の中で断片的だった情報を少しずつ整理していき、アデルの話が終わる頃には、聖花の頭の中でも散らばっていた情報が少しずつ形になり始めていた。


 しかし、それでも一つだけ、どうしても引っ掛かる点がある。



(……主人公の名前がないのよね)


 物語全体を思い返してみても、主人公は終始一人称で描かれており、誰かから名前を呼ばれる場面がほとんど存在しない。主人公視点で進む作品なのだから不自然ではないと言われればそれまでだが、ヒロインとの会話くらいは一度くらい名前が出てきてもおかしくないはずである。

 そんな小さな違和感が頭から離れず、聖花は考え込むように視線を落としていたが、やがて思い切ってアデルへと問い掛けた。



「ねえ、アデル」


「何でしょうか?」


「主人公の名前って何だったのかしら。私も途中まで読んでいたけれど、一度も出てこなかった気がして……」


 その問いに、アデルも記憶を辿るように小さく首を傾げる。



「……そう言われてみれば、一度も出てきませんでしたね。ヒロインが主人公を呼ぶ場面はございましたが、『殿下』と呼んでいただけで、それ以外に名前で呼ぶ場面はなかったと思います」


「やっぱり、そうなのね……」


 予想していた答えではあった。それでも実際に確認すると、その違和感はますます大きくなる。

 主人公が王子であることは物語の中でも明言されている。だからこそ、名前だけが徹底して伏せられていることに、どうしても意図を感じずにはいられなかった。



(もし……本当に、この小説が実話を元にしているのだとしたら)


 そこまで考えたところで、フェルナンがあの本を見た瞬間に様子を変え、「シンシア」と呟いた姿が脳裏に浮かんだ。


 主人公が王子であること。名前だけが伏せられていること。そして、フェルナンだけがあの本へ異常な反応を示したことは、どれも決定的な証拠ではない。それでも、一つひとつを並べてみると、偶然で片付けるには出来過ぎているようにも思えた。



(……まさか)


 その先の考えを、自身の中から振り落とそうとした、その時だった。



「…………あ」


 それまで静かに考え込んでいたアデルが、何かを思い出したように小さく声を漏らした。思わず聖花はアデルに視線を向ける。



「どうしたの、アデル?」


「ヒロインの名前、『アルテミス』でしたよね。月の女神様と同じ名前の……」


「ええ、そうだったわね。でも、それがどうかしたのかしら」


 聖花が不思議そうに聞き返すと、アデルは記憶を確かめるように僅かに眉を寄せ、それから何かへ辿り着いたようにゆっくりと顔を上げた。



「月の女神様の別名って……『シンシア』ではありませんでしたか?」


 その一言に、聖花の思考はぴたりと止まった。


 アルテミス。


 月の女神。


 そして、その別名――シンシア。


 先ほどまで何の繋がりもないと思っていた言葉が一本の線として結び付いた瞬間、部屋には再び静寂が訪れ、二人は互いの顔を見つめたまま言葉を失うのだった。






最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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