28.希少な一冊
昼休みの鐘が鳴るや否や、聖花はリリスや令嬢たちへ捕まる前に教室を出た。
足早に図書室へ向かい、受付で書類へ目を落としたまま黙々と仕事を続けるエレンの姿を見つけると、小さく息を整えて彼女のもとへ歩み寄る。相変わらず仏頂面のまま机へ向かう彼女からは「話しかけるな」とでも言いたげな空気が漂っていたものの、ここまで来て引き返すわけにもいかない。と、聖花は意を決して口を開いた。
「……エレン先生、少しお時間よろしいでしょうか?」
「手短に」
昨日と変わらず、エレンは視線すら上げることなく短く返した。
その素っ気ない態度にも最初こそ面食らったものの、今ではそれが彼女本来の気質なのだと理解しているため、思うところはあっても必要以上に気にすることはない。
「シンシアという方についてですが」
「管轄外よ。人探しなら他を当たって頂戴」
言葉が終わるよりも早く切り返され、聖花は思わず言葉を詰まらせた。しかし、ここで「分かりました」と引き下がるつもりはない。
リブロは、エレンなら力になってくれるかもしれないと言っていた。その言葉を信じてここまで来た以上、このまま帰るわけにはいかなかったのだ。
「違います。人探しと言われれば似たようなものなのですが……その方に関連する本を探しています」
「人物名だけでは絞れません」
またも即答だった。やはり駄目なのだろうか、と諦めかけたその時、エレンは小さく息を吐き、僅かに眉間へ皺を寄せながら続ける。
「……他に情報は?」
その一言に、聖花の思考は止まった。
他に情報と言われても、それが分からないからここへ来たのである。シンシアという人物が何者なのかも、どんな本に関係しているのかも分からない。
だからこそ図書室へ足を運んだというのに、無言で待つエレンの圧力も相まって何か言わなければという焦りだけが募っていって、頭の中へ浮かんだ単語が整理されることもないまま、そのまま口をついて出てしまった。
「『恋愛小説』『国外逃亡』『濡れ衣』『投獄』『牢獄』『脱獄』『フェルナン・パース』……」
言い終えた瞬間、自分でも何を言っているのだろうと思った。
これでは手掛かりどころか、恋愛小説の内容を思い付くまま口にしただけではないか。いくら焦っていたとはいえ、自分でも何故こんなことを言ってしまったのか分からず、訂正したい気持ちだけが込み上げてくる。
だが訂正しようにももう遅く、恐る恐るエレンの様子を窺うと彼女は呆れた様子を見せることもなく、ただ無表情のまま口の中で小さくその言葉を反復していた。
「『恋愛小説』『国外逃亡』『濡れ衣』『投獄』『牢獄』『脱獄』『フェルナン・パース』……」
恥ずかしさのあまり、そのまま復唱しないでほしいと心の中で叫ぶ。しかし、エレンはそんな聖花の心情など意にも介さず、小さく視線を落とすと、今度は意味の分からない言葉を淡々と呟き始めた。
「SBN382-6-023321……違う。SBN382-6-023114……」
まるで頭の中で何かを探しているかのようだった。
聖花には何をしているのかまったく理解できず、声を掛けることもできないまま黙って見守っていると、不意にエレンが顔も上げずに口を開く。
「小説のタイトルは?」
「たしか、『僕たちが幸せになる方法』だった気がします」
突然の問い掛けに思わず背筋を伸ばし、記憶を頼りに答えるとエレンは僅かに眉を寄せた。
「予想が外れたわ。二択のどちらかだと思ったんだけど……まさか、そっちだったとは」
何を予想していたのかは分からない。それでも、その言葉からエレンがその本自体を知っていることだけは伝わってきた。
「……あの本をご存じなのですか?」
数え切れないほど存在する恋愛小説の中で、題名を聞いただけで反応を示すなど普通ではない。そう聖花が思って尋ねると、エレンは表情一つ変えないまま淡々と答えた。
「隣国パトリシア王国で出版された恋愛小説よ。発売から間もなく作者が亡くなったことで絶版になってしまったから、現存する冊数は極めて少ない。その希少性で有名な本ね。」
そんなに貴重な本だったのか、と聖花は言葉を失った。それを貸してくれたアデルはそんなことを露ほども知らない様子だったが、このことを知ってしまった以上、なおさら何としてでも本を取り戻さなければという思いが強くなる。
それと同時に、聖花の中ではあの恋愛小説そのものへの印象も大きく変わっていた。作者が亡くなったことで発売から間もなく絶版となり、今ではほとんど手に入らない本になっている――その事実を知った途端、これまで半信半疑だったものが急に現実味を帯びて見えてきたのだ。
あまりにも出来過ぎた経緯に、あの小説は単なる恋愛物語ではないのではないか、実際に起きた出来事を元に書かれたものなのではないか、と聖花は考え始めていた。
「ところで、何故パース教諭の名前がさっき出てきたの?」
さらに何かを尋ねようとした聖花より一歩早く、エレンが静かに口を開いた。先ほどまで必要最低限のことしか話さなかったというのに、今度は自分から質問を投げ掛けてきたのである。一昨日の突然の問い掛けといい、ぶつぶつと何かを呟き始める癖といい、思考の流れがまるで読めない。
聖花にはエレンという人物がいまだによく分からなかった。
「先生が、その本を持っているのを見たので……」
「……そう」
短く返されたその一言に、聖花は内心ほっと胸を撫で下ろした。これ以上深く追及されずに済みそうだと思ったのも束の間、エレンは僅かに視線を上げると、今度は核心へ踏み込むような問いを投げ掛けてくる。
「では、シンシアは何?あの本の作者ではないのでしょう」
「…………分かりません」
言葉に詰まった末、ようやく絞り出せたのはその一言だけだった。
先ほど頭を過った「もしかすると作者なのではないか」という予想も、エレンの質問によって否定されてしまった以上、今の聖花には何一つ説明できる材料が残っていない。知らないから調べに来たというのに、その"知らない"こと自体を問われてしまえば、返せる答えなどあるはずもなかった。
しばらく沈黙が流れる。書類へペンを走らせる音だけが静かな図書室へ響き、聖花は何か言葉を探そうとするものの、結局何も思い浮かばなかった。
やがてエレンは小さくため息を一つ吐くと、再び書類へ視線を落としたまま淡々と口を開いた。
「……要件は以上?」
その言葉で、聖花はようやく話が終わったのだと理解する。
「はい。お忙しいところ、ありがとうございました」
深く頭を下げると、エレンは返事をすることもなく仕事へ戻ってしまった。どうやら、本当にこれ以上話を続ける気はないらしい。まるで聖花がそこにいないかのように書類に視線を落とし、淡々と作業を続けている。
これ以上食い下がったところ意味がない。そう結論付けて聖花は諦めて引き下がることにした。
もっと何か手掛かりがあれば違ったのかもしれない。だが、今の自分が持っている情報だけではここが限界らしい。
リブロの言っていた通り、エレンは確かに本を探すことに長けている人物だったようだ。それも、聖花の想像以上に。しかしどれほど優秀であっても、手掛かりそのものが足りなければ探しようがないのだと改めて実感させられる。
だが、何も収穫がなかったわけではない。あの本は隣国パトリシア王国で出版された後、作者の死によって絶版となっていて、今ではごく限られた者しか手にできない希少な一冊だった。そして、少なくともシンシアはその作者ではないことだけは確かだ。それを知れただけでも、図書室へ足を運んだ意味は十分にある。
もっとも、肝心のシンシアが何者なのかは依然として分からないままであるが。手掛かりは僅かに増えたものの、謎そのものは何一つ解けていない。それでも、何も分からないまま終わるよりはずっと前進したと言えるだろう。
聖花はエレンへ小さく頭を下げると、図書室を後にした。昼休みはまだ残っているものの、このまま教室へ戻るべきか、それとも別の場所を当たるべきか――新たに得た情報を頭の中で整理しながら、やや人気のない廊下をゆっくりと歩き始めるのだった。




