25.朝の教室
「セイカ、おはよう」
教室へ入るなり、リリスはそれが当然であるかのように聖花の隣へ腰を下ろした。
聖花は軽くこめかみを押さえながら、引き攣りそうになる口元をどうにか笑みに変える。
「おはようございます」
本当なら一言二言文句を言いたいところだった。しかし、何を言ったところで彼はいつもの調子ではぐらかしてしまうだろう。結局は本来の席の持ち主であるルードルフが登校してくるのを待つしかなく、聖花は早々に諦めることにした。
「反応が薄いなぁ」
そう言ってリリスは楽しそうに笑う。その様子を見る限り、聖花の反応が気に入らないというより、困った顔を見て面白がっているだけなのだろう。分かっていて相手をするのも癪だったため、聖花は何も言い返さず静かに受け流した。
「フェルナンは今日来ると思う?」
あまりにも唐突な問い掛けだった。
一応は担任の話題なのだから不自然ではない。だが、事件の当事者である聖花からすれば、今その名前を軽々しく口にされること自体が複雑だった。
もっとも、リリスもまたあの場にいた一人である。しかし彼は被害者というより、どちらかと言えば加害者側だ。あの場でフェルナンを止めたのは間違いなくリリスであり、その結果としてフェルナンが学園へ姿を見せなくなったのだとすれば、その原因の一端は彼にもある。
だからこそ、何事もなかったかのような口振りに、聖花は小さく眉を顰めた。
侯爵家の嫡男でありながら、この場が教室であることなどまるで気にしていない。その無遠慮さにも呆れたが、それ以上に、自分が今もっとも頭を悩ませている相手の名を、まるで世間話でもするように口にされたことへ僅かな苛立ちを覚えていた。
「“先生”です。失礼ですよ」
「平気平気。本人も来てないしね」
まるで意に介した様子もなく、リリスは肩を竦めながら笑った。
そういえば、あの事件の最中も彼は終始フェルナンを呼び捨てにしていた。ただ、あのときは聖花たちしかその場におらず、敬称の有無など気にしている余裕もなかった。
しかし今は教室であり、周囲には大勢の生徒がいる。それにもかかわらず変わらぬ態度を貫くリリスに、聖花は呆れるより先に、この人は本当に周囲の目を気にしないのだと半ば感心してしまった。
もっとも、このまま注意を続けても素直に聞き入れる相手ではない。話が堂々巡りになるだけだと判断した聖花は、それ以上追及することを諦め、話題そのものへ意識を切り替えた。『フェルナンは今日来ると思う?』というなんの変哲もない問いである以上、無視する方が不自然だ。だからといって深く踏み込んだ返答をするつもりもない。周囲の耳がある以上、余計なことは何一つ口にできなかった。
「早く戻ってきてほしいところではありますが……」
「へえ、意外。あんなことがあった後なのに?」
「少し黙っていていただけますか?」
思わず強い口調になってしまい、言った直後にしまったと思った。しかし、口から出てしまった言葉は戻らない。聖花は気まずさを押し隠しながら、ちらりとリリスの様子を窺った。
「酷いなぁ。僕、一応侯爵なんだけど?」
どこか拗ねたような口調でリリスが言う。しかし、その声音からは本気で怒っている様子は微塵も感じられなかった。
「それ以前に、ここは学園です。身分を振りかざすような発言は感心いたしません」
聖花は小さくため息を吐いた。
リリスがおどけているだけなのか、それとも本心を巧みに隠しているのかは未だによく分からない。ただ一つ確かなのは、彼の目的が依然として見えてこないということだった。だからこそ、この掴みどころのない態度に振り回され続けることが、聖花には面倒で仕方がない。いっそ何を考えているのか率直に話してくれた方が、どれほど気が楽だろうかとさえ思えてしまう。
容姿が整っていることは認めるし、人懐っこく接してくるだけなら悪い印象も抱かなかっただろう。しかし、彼が何かを隠していることを知ってしまった今となっては、その天真爛漫な笑顔も、子犬のような距離感も、すべて計算の上で演じているようにしか見えなかった。
「つれないなぁ」
それでもリリスは相変わらず楽しそうだった。聖花には何がそこまで面白いのか理解できなかったが、少なくとも彼にとって、このやり取りそのものが遊びなのだろう。
「ティーザー様が、こうして何度もちょっかいを掛けてくるからですよ」
「『リリス』」
間髪入れずに訂正が飛んでくる。人目のある場所では勘弁してほしい――そう思わないでもなかったが、ここで拒めばまた同じやり取りを延々と繰り返すことになるだけだ。
聖花は諦めたように小さく息を吐くと、渋々その名を呼んだ。
「……リリス様」
それで満足したのだろう。リリスは嬉しそうに微笑むと席を立ち、そのまま自分の席へ戻っていった。
入れ替わるように数人の令嬢が彼の周囲へ集まっていく様子を横目に眺めながら、聖花はふと窓の外へ視線を向ける。登校してくる生徒たちが校門から校舎へ向かって歩いており、その中には見覚えのある顔もいくつか混じっていた。
(あ……シャンファ)
王族主催のパーティーで知り合い、友人になろうと声を掛けてくれた少女だった。あれ以来、一度も顔を合わせていなかったが、それは互いに教室が違うことに加え、この二日間あまりにも慌ただしく過ぎてしまったためである。存在を忘れていたわけではないものの、気が付けば会いに行く機会を完全に逃してしまっていた。
彼女は今、何組で学んでいるのだろうか。ふとそんな疑問が浮かぶ。せっかく友人になれたのだから、このまま何の交流もないまま終わるのは少し寂しい。
もっとも、今はフェルナンの件を優先すべきだ。落ち着いた頃を見計らって、一度こちらから会いに行こう――そう心の中で小さく決めた。
窓の外を眺めているうちに、ふと今朝の出来事が脳裏をよぎった。
今日もアーノルドはいつもの場所にいた。
本来であれば一週間後に会う約束を交わしているのだから、そのまま通り過ぎるべきだった。それでも昨日の出来事が頭から離れず、一瞬だけ約束を破ってでも話しかけようかという考えが過ったのである。
しかし、その考えはすぐに消えた。アーノルドの傍らには、カナデがいたからだ。
昨日の生徒会室でのことといい、今朝のことといい、カナデが何を目的として行動しているのかは依然として分からない。ただ一つ確かなのは、彼女が意図的にアーノルドへ近付いているということだった。
もっとも、今はそのことばかりを考えている余裕はない。フェルナンのこと、シンシアのこと、建国の歴史――調べなければならないことは山ほどある。すべてを一度に抱え込めば、頭の中が混乱するだけだ。だから聖花は、カナデの動向を気に掛けつつも、一旦その件は胸の内へしまい込むことにした。
一週間後もカナデがアーノルドと行動を共にしていたらどうしよう、という不安は残っている。しかし、少なくとも今のカナデは、聖花とアーノルドが密かに協力関係を結んでいることまでは知らないはずだった。
結局のところ、その日になればアーノルドが何とかしてくれることを信じるしかない。そう自分へ言い聞かせたところで不意に名前を呼ばれ、聖花は意識を現実へと引き戻した。
「セイカ・ゴルダールさん」
聞き覚えのある声だった。顔を上げると、そこにはクラスメイトの令嬢――シェリー・アプリコットが立っている。いちゃもんを付けに来たような雰囲気ではなく、誰かの伝言を預かってきたらしい。
「人がお呼びです。伝え忘れていたことがある、と」
「承知いたしました。わざわざありがとうございます」
(誰だろう……?)
軽く首を傾げながら席を立つ。
聖花を訪ねてくる相手などそれほど多くはない。それに朝礼までさほど時間もないというのに、わざわざ教室まで呼びに来るということは、それなりに急ぎの用件なのだろう。
教室の外に出ると、そこには予想通りグリッダが待っていた。
「おはようございます。朝から申し訳ございません。昨日、一つお伝えし忘れていたことがございまして」
「おはようございます。先輩、どうかなさいましたか?」
図書委員のことだろうとは思ったものの、昨日のうちに伝えられなかったほど重要な内容なのだろうかと首を傾げながら、聖花は静かに耳を傾けた。
「委員会のことなのですが、委員長と副委員長は朝から仕事がございますの。わたくしの説明不足でしたので、本日は構いませんが、明日以降は朝礼が始まる一時間ほど前に図書室までお越しくださいませ。本当に申し訳ありませんわ」
「承知いたしました。ご迷惑をお掛けし、申し訳ございません」
「いえいえ。不手際はこちらにございますので、どうぞお気になさらず。それでは失礼いたします」
そう言ってグリッダは軽く一礼し、その場を後にした。
放課後だけではなく、朝も図書委員として仕事があるとは思っていなかった。朝の時間が少なくなることを惜しむ気持ちがないわけではない。しかしその一方で、リブロやエレンと顔を合わせる機会が増えるのは、今の聖花にとって決して悪い話ではなかった。
明日から、本当の意味で図書委員としての日々が始まる。
そしてそれは、シンシアへ繋がる新たな手掛かりを探す日々の始まりでもあった。




