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22.記憶の中の名

投稿遅くなり申し訳ございません

「シンシア……ですか?」


 聖花の口から告げられた名を確かめるように、リブロはゆっくりとその名を繰り返した。先ほどまで建国の歴史を淀みなく語っていた彼も、今度ばかりはすぐに言葉を続けることができなかったらしい。穏やかな表情には僅かな戸惑いが浮かび、記憶の奥底を探るように目を伏せる。


 聖花は静かに頷いた。聞き間違いでも、言い間違いでもない。フェルナンが我を忘れたように口にしていた、その「シンシア」という人物について尋ねているのだ。


 教室には静かな時間が流れていた。窓の外では何処かへと向かう生徒たちの声や、帰路につく者たちの笑い声が微かに聞こえてくる。しかし、その賑やかさとは対照的に、この教室だけは時間が止まったかのような穏やかな空気に包まれていた。リブロは腕を組み、目を閉じると、小さく息を吐きながら記憶を辿り始める。



「……どこかで聞いた覚えはあるのですが」


 その一言に、聖花の胸が僅かに高鳴った。少なくとも、シンシアという人物はフェルナンだけが知る存在ではない。それだけでも、ここへ来た意味はあった。

 これまで手掛かりらしい手掛かりは何一つなかった。フェルナン本人に問いただすこともできず、図書室で史実書を探しても、それらしい記述は見当たらない。だからこそ、リブロが「聞いた覚えがある」と口にしただけで、霧の中に小さな灯火がともったような気がしたのである。


 リブロはなおも考え続けていた。眉間に小さく皺を寄せ、ときおり首を傾げながら、遠い昔の記憶を丁寧に掘り起こしていく。その様子からは、適当に答えを濁しているのではなく、本気で思い出そうとしてくれていることがよく伝わってきた。



「人物録だったでしょうか……。いえ、それならもう少し鮮明に覚えているはずです」


 一度言葉を切ると、彼は困ったように笑みを浮かべる。



「古い史料だったような気もしますし、事件をまとめた記録だったような気もするのです。どうにも曖昧でして……。年を重ねると、こういう時に歯痒いものですね」


 自嘲するように笑うリブロを見て、聖花は思わず小さく口元を緩めた。知ったかぶりをすることもなければ、曖昧なことを断言することもない。ただ思い出せないことを申し訳なく思いながら、それでも少しでも力になろうと記憶を探ってくれている。その誠実さが、自然と彼への信頼へと変わっていくのを聖花は感じていた。


 だからこそ、あと一歩だけ踏み込んでみようと思った。



「先生。その書物がどのようなものだったかだけでも思い出せませんか。時代でも、内容でも、本当に些細なことでも構わないのです」


 期待を押し隠しながら尋ねると、リブロは再び静かに目を閉じた。先ほどよりも長い沈黙が流れ、教室の時計だけが規則正しく時を刻んでいた。


 やがてリブロはゆっくりと目を開き、申し訳なさそうに首を横へ振る。



「……申し訳ありません。どうしても、そこまでは思い出せそうにありませんね」


 申し訳なさそうに首を横へ振るリブロを見て、聖花はそれ以上問いを重ねることを諦めた。


 期待していた答えには届かなかった。それでも、落胆ばかりではない。リブロほど歴史に詳しい人物が「聞いた覚えがある」と断言した以上、シンシアという人物が実在した可能性は一段と高くなった。フェルナンの口から偶然漏れただけの名前ではなく、どこかに記録が残されている人物なのかもしれない。そう考えられるだけでも、この場へ足を運んだ意味は十分にあった。


 もちろん、今の情報だけで結論を出すことはできない。リブロの記憶違いという可能性もあれば、同姓同名の別人ということもあり得る。それでも、何も手掛かりがなかった状態と比べれば大きな前進だった。焦って答えを求めるより、一つずつ確かめていくしかない。



「分かりました。無理を言ってしまい、申し訳ございませんでした」


 聖花が静かに頭を下げると、リブロは穏やかに首を横へ振った。



「いいえ。こちらこそ、お力になれず申し訳ありません。こういうものは、思い出そうとすればするほど出てこないことがありますからね」


 そう言って苦笑すると、彼は少しだけ視線を宙へ向けた。



「不思議なもので、書庫を整理している時や、まったく別の本を読んでいる時に急に思い出すこともあるのですよ。もし何か心当たりが蘇りましたら、その時は私の方からお伝えいたします」


 その言葉には、場を取り繕うための慰めではなく、本当に思い出そうとしてくれている誠意が感じられた。



「ありがとうございます」


 聖花は自然と微笑みを返した。


 まだ知り合って間もないというのに、ここまで親身になって話を聞いてくれる教師がいるとは思ってもみなかった。副委員長へ立候補した理由は、上級生や教師との繋がりを作るためだったが、その選択は間違っていなかったらしい。


 リブロという人物は、知識が豊富であるだけではない。相手の立場に立って考え、分からないことは曖昧なままにせず、誠実に向き合おうとする人柄がある。だからこそ、聖花も安心して話すことができたのだろう。


 この人なら、今後も頼れるかもしれない。そんな思いが胸の内に芽生えたところで、ふと別のことが気になった。


 図書室の管理は、あれほどの蔵書を抱えている以上、一人だけで行える仕事ではないはずである。今日の委員会にはリブロしか姿を見せていなかったが、昼休みに図書室を訪れた際には受付に女性が座っていた。職員だと思っていたが、もしかすると担当教師という可能性もあるのではないか。


 そう考えた聖花は、一度頭の中を整理してから静かに口を開いた。



「先生。もう一つだけ、お伺いしてもよろしいでしょうか」


「もちろんですよ」


 リブロは柔らかな笑みを浮かべたまま頷いた。その穏やかな返事に背中を押され、聖花は胸の内で言葉を整理してから問い掛ける。



「図書委員は図書室と直接関わる委員会だと伺いましたが、担当の先生はリブロ先生お一人なのでしょうか」


 あれほど広い図書室を、一人だけで管理しているとはどうしても思えなかった。膨大な蔵書の整理や貸し出しだけでも相当な仕事量になるうえ、新しい書物の受け入れや傷んだ本の補修まで考えれば、なおさら一人では手が回らないはずである。今日の委員会へリブロしか姿を見せなかったことも気にはなっていたが、昼休みに図書室を訪れた際、受付には別の女性がいた。その人物が職員なのか教師なのかは分からないものの、もう一人担当者がいるのではないかと考えるには十分だった。



「ああ、もう一人おりますよ」


 リブロは納得したように頷く。



「もっとも、委員会へ顔を出されることは滅多にありません。今日も私一人で進行しましたが、それが特別というわけではないのですよ。あの方は図書室で仕事をしている時間の方がずっと長いものですから」


 責めるような口調ではなく、長年一緒に働いてきた相手を思い浮かべるような穏やかな笑みだった。



「図書室へ行けば高い確率でお会いできます。蔵書についても私より詳しいことが少なくありませんので、何か分からないことがあれば遠慮なく頼ってください。少々愛想は良くありませんが、仕事はとても真面目な方ですよ」


 その言葉を聞いた瞬間、聖花の脳裏へ昼休みに受付へ座っていた女性の姿が浮かぶ。書類を片手に忙しなく手を動かし、こちらへ気付くなり「早く用件を済ませてほしい」と言わんばかりの視線を向けてきた人物だ。忙しさのあまり余裕がなかっただけなのか、それとも元々あのような性格なのかは分からないが、リブロの話を聞く限り、少なくとも仕事へ向き合う姿勢だけは確かなのだろう。昼に抱いた印象だけで判断してしまうのは、少々早計だったのかもしれない。



「委員長のグリッダ先輩も、本の場所なら大抵分かると仰っていました」


「ええ。彼女は去年から図書委員を務めていますからね。蔵書の配置もよく把握していますし、仕事も実に丁寧です。今年も残ってくれたお陰で、私としては本当に助かっています」


 その声音には教え子を信頼する教師としての温かさが滲んでいた。今日の委員会でも、話を主導していたのはグリッダだった。初対面の自分にも分け隔てなく接し、場の空気を自然と和らげてくれていたことを思い返すと、図書委員へ入ったという選択は、思っていた以上に良い縁を運んできてくれたのかもしれない。

 リブロへ改めて礼を告げると、聖花は荷物を抱えて教室を後にした。


 廊下へ出ると、委員会を終えた生徒たちが思い思いに帰路へ就いている。友人同士で談笑しながら歩く者、部活動へ向かうため足早に校舎を出ていく者、教室へ忘れ物を取りに戻る者――放課後の学園は昼間とはまた違った賑わいを見せていた。窓から差し込む夕陽は長い影を廊下へ落とし、一日の終わりが近づいていることを静かに知らせている。


 そんな光景を横目に歩きながら、聖花は先ほどの話を頭の中で整理していた。


 シンシアという人物について決定的な情報は得られなかった。しかし、リブロほど歴史へ精通した人物が「聞いた覚えがある」と口にした以上、その名は決してフェルナンだけの記憶ではないのだろう。どこかに記録が残されている可能性は十分ある。焦って答えを求めるより、一つずつ手掛かりを積み重ねていくしかない。そう自分へ言い聞かせるように、小さく息を吐いた。


 そして自然と、昼休みの出来事が脳裏をよぎる。


 図書室で偶然再会したフィリーネ。彼女の顔を見た瞬間、自分でも説明のできない感情が込み上げ、思わず『フィー姉様』と呼びかけそうになってしまったことを思い出す。あの時の感情は、一体何だったのだろう。

 マリアンナの記憶が呼び起こしたものだったのか。それとも、自分自身でも気付いていない何かが心の奥底に眠っているのか。今となっても答えは分からない。ただ一つ確かなのは、フィリーネと向き合っている間だけ、自分が自分ではないような奇妙な感覚に包まれていたということだった。


 とはいえ、不思議と嫌な気持ちはしない。むしろ、胸の奥が温かく満たされるような、どこか懐かしい感覚だった。それが余計に不可解で、聖花は苦笑を漏らす。



(考えても分からないことばかりね)


 思考を切り替えるように小さく首を振ると、改めて図書室へ向かって歩き出した。


 もう一人の担当者が、本当に昼間受付にいた女性なのか確かめる必要がある。それに、フィリーネから教えてもらった史実書もまだ十分には読み込めていない。委員会のお陰で帰宅は遅くなるとアデルへ伝えてある以上、時間を無駄にする理由はなかった。


 しばらく歩いていると、一つの教室から複数人の話し声が聞こえてきた。他の教室は既に静まり返り始めているというのに、その部屋だけはまだ会議が続いているらしい。何気なく視線を向けると、扉の横へ掛けられた木製の札に『生徒会』と記されているのが目に入った。



(まだ終わっていないのね)


 昼間、ルードルフが生徒会へ所属すると話していたことを思い出す。委員会より人数も多く、扱う内容も多岐にわたるのだろう。自分たちの委員会が終わった今も続いていることを考えれば、その忙しさは想像に難くない。


 扉は完全には閉まり切っておらず、僅かに開いた隙間から教室の中が少しだけ見えていた。

 もちろん、中を覗くつもりなどない。ただ通り過ぎようとした、その時だった。ふわり、と見覚えのあるコーラルピンクの髪が視界の端で揺れた。


 聖花の足が、ぴたりと止まった。



「……カナデ」


 思わず、小さくその名が零れる。


 教室の奥では、生徒会の書類を整理しているらしい奏――いや、マリアンナの姿をしたカナデが、周囲の生徒たちと自然に言葉を交わしていた。そこにはぎこちなさも居心地の悪さもなく、まるで以前から生徒会の一員だったかのように、その場へ溶け込んでいる。


 その光景に、聖花は静かな違和感を覚えた。


 マリアンナだった頃の自分は、決して入学試験で飛び抜けた成績を収めたわけではない。生徒会へ推薦されるほど優秀だった記憶もない。それなのに、身体を奪ったカナデは当然のようにその場へ立っている。


 考えられる理由があるとすれば、光属性という希少性くらいのものだった。しかし、それも推測に過ぎない。


 だからといって、この場で確かめることはできなかった。廊下で立ち止まり続ければ不審に思われるし、生徒会室へ入る理由もない。今優先すべきは、あくまで図書室でシンシアについて調べることだ。


 聖花は静かに視線を外すと、小さく息を吐き、再び図書室へ向けて歩き出した。

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新作短編作品 百番目の死神
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