21.リブロ・ジミーという教師
「それでは、本日の委員会はこれにて終了いたします。私たち以外の方は解散してくださって結構です。お疲れ様でした」
教壇に立つ女子生徒が最後にそう締め括ると、丁寧に一礼した。
彼女の名はグリッダ・ベルモーゼ。二回生であり、昨年に引き続き図書委員を務める先輩である。今年は委員長にも立候補し、その経験を買われて自然な流れで図書委員をまとめる役目を任されていた。担当教員とも親しげで、息の合ったやり取りを見せていて委員会の進行にも一切の無駄がない。
放課後になってすぐ開かれた初回の委員会は、こうして滞りなく幕を閉じようとしていた。
結局、聖花は図書委員を選んだ。図書室へ自由に出入りできる立場になれば、書架の配置を覚えるのも、本を探すのも容易になる。それに、職員や担当教員と接する機会も自然と増えるだろう。フェルナンやシンシアについて調べるにしても、人脈を広げるにしても、その立場は都合が良かった。
もちろんそれだけではない。今後のことを考えれば、委員会そのものが情報を集める場にもなる。そう考えれば、図書委員は聖花の目的に最も適した委員会だったのだ。
委員会の終了の合図と共に生徒たちは次々と席を立ち、それぞれ教室を後にしていく。賑やかだった教室も、ものの数分で静けさを取り戻した。室内に残ったのは、聖花とグリッダ、それから担当教員であるリブロ・ジミーの三人だけだった。理由は単純で、聖花が副委員長へ立候補したからだ。
もちろん、副委員長という肩書きそのものに魅力を感じたわけではない。むしろ人前へ立つ役目は、できることなら避けたいくらいだった。それでも立候補したのは、その立場だからこそ得られるものがあると考えたからである。
副委員長になれば、担当教員と話す機会は自然と増える。委員長を務める上級生とも関わることになるだろうし、委員会同士で交流する場が設けられることもあるかもしれない。情報は人との繋がりから生まれる。それを考えれば、多少目立つ立場になったとしても得るものの方が大きい――聖花はそう判断したのだ。
もっとも、それはあくまで立候補する理由であって、選ばれるかどうかは全く別の話だった。
貴族となってまだ日が浅く、学園へ入学したばかりの一年生。それも、伯爵家の養女となった特例とも言える少女に、副委員長という役目を任せようと考える者がどれほどいるのか、聖花自身にも分からなかった。
もし同学年や上級生から立候補者が出ていれば、そちらが選ばれていた可能性は十分にあったが、結果として誰とも希望が重ならなかったからこそ、こうして今ここへ残っているに過ぎないのだ。
「セイカ・ゴルダールさん」
「……はい。何でしょうか」
穏やかな声に呼ばれ、聖花はゆっくりと顔を上げた。
声を掛けたのはリブロだった。委員会の最中にも簡単な自己紹介こそ済ませていたものの、進行のほとんどは経験者であるグリッダが担っていたため、リブロと言葉を交わす機会はほとんどなかった。そのリブロが、柔らかな笑みを浮かべながら聖花の前まで歩み寄っていた。
「改めてご挨拶をと思いまして。これから一年間、どうぞよろしくお願いいたします。入学したばかりで慣れないことも多いでしょう。分からないことがあれば、遠慮なく聞いてください」
その声音には教師らしい温かさがあった。副委員長という立場になったから特別扱いしているわけではない。ただ、新しく委員会へ加わった生徒を自然に迎え入れようとしている。そんな誠実さが言葉の端々から伝わってくる。
「ありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
聖花が頭を下げると、リブロは満足そうに目を細め、小さく頷いた。
「私からも、よろしくお願いしますね」
続いて声を掛けてきたのはグリッダだった。
聖花が視線を向けると、彼女は人懐っこい笑みを浮かべている。その飾らない笑顔に、不思議と肩の力が抜けた。
「グリッダ様……」
「様なんて付けなくても大丈夫ですよ。同じ委員会の仲間なのですから、『先輩』と呼んでくだされば十分です」
気負わせまいとしているのだろう。その自然な気遣いに、聖花も思わず笑みを返していた。委員会へ入るまでは多少の不安もあったが、この二人となら一年間やっていけるかもしれない――そんな穏やかな安心感が、胸の内へ静かに広がっていくのだった。
そんな和やかな空気を一区切りさせるように、リブロが軽く咳払いをする。
「さて」
その一言で、聖花とグリッダは自然と視線を彼へ向けた。
「それでは、そろそろ本題に入りましょうか」
◆
委員会の運営方法や当番の割り振り、図書室の利用状況など、一通りの説明を終えると、リブロは手元の書類を丁寧に重ね、小さく息を吐いた。疲れたというよりも、大きな仕事を終えた安堵が滲む吐息だった。
もっとも、ここまで滞りなく話が進んだのは、リブロ一人の力ではない。昨年度から図書委員を務めているグリッダが要所要所で説明を補い、必要な資料を迷いなく取り出し、時にはリブロより先に一年間の流れを説明する場面さえあった。二人のやり取りは即興でやったとは思えないほど息が合っていたのだ。
聖花はそんな様子を静かに眺めていた。副委員長とはいえ、今日のところは口を挟めるような場面はほとんどない。必要なところで返事をし、確認事項に頷く程度で精一杯だったが、それで十分だと思っていた。今は余計なことを口にするよりも、委員会がどのように動いているのかを知る方が遥かに大切だったからである。
「……それでは、今期はこの方針で進めていきましょう。特に質問がなければ、本日はこれで解散といたします」
リブロが穏やかに締め括ると、机の上へ広げていた資料をゆっくりとまとめ始めた。
これで終わり。普通なら、そのまま教室を後にする場面だった。
だが、聖花にとっては違う。副委員長になった理由の一つは、こうして担当教員と自然に話す機会を得るためだったからだ。次の委員会まで待てば一か月先になる。その頃には聞きたかったことも曖昧になり、せっかく生まれた縁を活かせないかもしれない。
―――今しかない。
そう判断した聖花は、小さく息を吸い込み、意を決して口を開いた。
「リブロ先生、少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか。お願いしたいことがあるのです」
突然の呼び掛けに、リブロは資料をまとめる手を止めた。穏やかな笑みはそのままだが、何を頼まれるのだろうという僅かな驚きが表情に浮かんでいる。
その様子を見たグリッダは、二人の間へ割って入ることなく静かに立ち上がった。
「それでしたら、私は先に失礼いたしますね」
その言葉に、聖花ははっとして彼女へ視線を向けた。彼女の存在を忘れていた訳でも、疎外していた訳でもないが、どうやら気を使わせてしまったようだった。
「申し訳ありません。そんなつもりでは……」
慌てて言葉を続けようとすると、グリッダは柔らかく首を横へ振った。
「お気になさらないでください。本当に大丈夫ですわ。そろそろ友人の委員会も終わる頃ですし、待ち合わせをしておりますの」
そう言って微笑む姿からは、無理に気を遣っているような様子は感じられない。
聖花もようやく胸を撫で下ろす。
「では、ご機嫌よう。また委員会以外でもお話ししましょうね」
「はい。ありがとうございました」
軽く手を振り、グリッダは教室を後にした。背中が廊下の向こうへ消えるまで見送り、教室に再び静けさが戻ると、リブロは閉まりかけた扉へ一度だけ目を向ける。それから、改めて聖花へ身体を向け直した。
「さて、本題に戻りましょうか」
その声音は先ほどと変わらず穏やかだった。
「お願いをお聞きするかどうかは、お話を伺ってから判断いたします。どうぞ、お聞かせください」
「ありがとうございます」
聖花は静かに頭を下げる。何から話すべきか、一瞬だけ考えを巡らせた。
フェルナンやシンシアの名前をいきなり出すわけにはいかないし、まずはこの国について知りたいという、ごく自然な理由から話を切り出すべきだろう。そう判断すると、聖花はゆっくりと顔を上げ、落ち着いた口調で言葉を紡ぎ始めた。
「先生もご存じの通り、私は生まれながらの貴族ではございません。伯爵家へ迎えられてから、礼儀作法や貴族社会について学ぶ機会はいただきましたし、この国の歴史についても最低限は教わりました。しかし、それだけでアルバ国を知ったとは、どうしても思えないのです」
一度言葉を区切る。リブロは急かすことなく、静かに続きを待っていた。
「まだ私の知らないことが、この国には数多くあるのでしょう。だからこそ、お聞きしたいのです。先生がお話しできる範囲で構いません。この国のことを、そして歴史を……暗い過去も含めて教えていただくことはできませんか」
彼はすぐには答えなかった。穏やかな笑みを浮かべたまま静かに目を伏せ、まるで言葉を選ぶようにしばらく考え込む。その沈黙に気まずさはなく、聖花は黙って返事を待った。
突拍子もない願いであることは、頼んだ本人が一番よく理解している。初対面の、それも入学したばかりの生徒から、国の歴史、それも「暗い過去まで教えてほしい」と頼まれれば戸惑うのも当然だった。
「……難しいお願いですね」
やがてリブロは小さく笑みを浮かべながらそう口にした。
その一言だけを聞けば断られたようにも思える。しかし、不思議とそんな空気ではなかった。困らせてしまっただろうかと聖花が口を開きかけた、その時だった。
「ですが、それは"お断りする"という意味ではありません」
リブロは穏やかな声音のまま続けた。
「何をお話しするべきか、どこまでお話しして良いものか、その線引きが難しいという意味です。この国の歴史は長く、表へ出ているものもあれば、あまり語られなくなったものもございますから」
そう言って一度言葉を区切ると、聖花の方へ優しい眼差しを向ける。
「ですが……嬉しく思いました」
「……え?」
思わず聖花は聞き返した。リブロは照れたように頬を緩め、小さく肩を竦める。
「最近は歴史そのものへ興味を持つ生徒が少なくなりましてね。授業で教えたことを覚えるだけで満足してしまう方が殆どです。ですから、自ら『もっと知りたい』と言ってくださる方がいるのは、教師として何より嬉しいことなのですよ」
その言葉には、お世辞らしさは微塵も感じられなかった。純粋に、一人の教師として喜んでいる。ただそれだけなのだと、聖花にも自然と伝わってくる。
「この老耄が知っている範囲でよろしければ、お話しいたしましょう。先ほど『分からないことがあれば何でも聞いてください』と申し上げたばかりですからね。舌の根も乾かぬうちに前言を撤回するわけにはまいりません」
冗談めかして笑うリブロにつられ、聖花の口元にも自然と笑みが浮かぶ。
「ありがとうございます。本当に助かります…!」
深々と頭を下げる聖花を見て、リブロは静かに頷いた。
そして、その表情が僅かに引き締まる。先ほどまでの穏やかな教師の顔とは違い、一人の歴史研究家として過去を語ろうとする人間の顔だった。
「では、一つお尋ねします。セイカさんは、このアルバ国がどのように建国されたか、ご存知ですか?」
唐突な問いだった。しかし、それが本題へ入るための問い掛けであることは聖花にも分かった。
「はい。存じております。他国からやって来た移住者が、衰退していたこの土地を立て直し、資源を発見して交易を発展させ、現在のアルバ国を築いたと教わりました」
それはフェルナンから教えられた内容でもあり、現在一般的に広く知られている建国史でもある。貴族として最低限知っておくべき歴史であり、聖花自身もその知識に間違いはないと思っていた。
リブロは静かに頷く。
「ええ。その説明自体は間違っておりません。現在教えられている歴史としては、それが正しいのでしょう」
そこで一拍置いた。静かな教室に沈黙が落ち、この短い間が、これから語られる話の重さを否応なく感じさせた。
「ですが、そのお話には、一番大切な部分が抜け落ちているのです」
聖花は思わず息を呑んだ。
やはり——そんな予感が胸を過る。話の行く先が一向に見えないものの、この国にはまだ語られていない歴史があるようだ。リブロは教壇へ軽く寄り掛かり、窓の外へ一瞬だけ視線を向けた。まるで遥か昔へ思いを馳せるように。
「折角の機会です。どのみち、いずれ何処かで知ることになるのであれば、今お話ししてしまっても構わないでしょう」
そう前置きをしてから、彼はゆっくりと聖花へ視線を戻した。
「――この国には、元々別の民が暮らしていました」
リブロは静かな口調のまま、その先を語り続けた。
衰退した国へ移り住んだ移住者たちが、先住民を追い払い、奴隷として他国へ売り渡したこと。その代価として得た資金を元手に国を立て直し、現在のアルバ国を築いたこと。そして、その過去が後に新たな悲劇を生み、一人の元奴隷による大虐殺へと繋がったこと――。
歴史書には記されない建国の裏側を語り終えると、教室にはしばし沈黙が流れた。窓の外では生徒たちの声が聞こえているというのに、その賑やかさが別世界の出来事であるかのように思えるほど、二人の間には重たい空気が漂っている。
聖花は黙って考え込んでいた。
建国の裏側で行われた先住民の追放と奴隷売買。その事実だけでも十分衝撃的だったというのに、さらに奴隷となった者の一人が後に大虐殺を引き起こしたという。教科書には語られない歴史を聞き終えた今でも、その内容は容易に飲み込めるものではなかった。
何より、その話をフェルナンは一切口にしなかった。貴族として最低限必要な知識だから教えなかったのか。それとも、学園という場では語るべきではない内容だから伏せたのか。その理由は分からないが、リブロの話しぶりから察するに、この歴史が積極的に語られるものではないことだけは間違いなさそうだった。
「……参考になりましたか?」
聖花が考え込んでいる様子を見届けると、リブロは重くなった空気を和らげるように穏やかに口を開く。その声を聞き、聖花はゆっくりと我に返った。
「はい。とても勉強になりました」
素直な感想だった。知らなかった事実を知ることができたという意味でもそうだが、それ以上に、リブロという人物への印象が大きく変わっていた。
彼は決して自分の知識を誇示するような人ではない。ただ、知っていることを必要としている相手がいるなら、惜しみなく伝えようとする。教師という職を選んだ理由が、何となく分かったような気がした。
だからこそ、一つだけどうしても気になることがある。
「リブロ先生は、どうしてそのようなお話をご存知なのですか?」
聖花が率直に尋ねる。
「お聞きした限りでは、一般にはほとんど知られていない内容のように思えます。先生は子爵家のご出身と伺っていますが、それほどまでに詳しい理由が、何かおありなのでしょうか」
リブロは一瞬だけ目を丸くしたあと、小さく吹き出した。
「大層な理由ではありませんよ。ただの老耄の趣味です」
照れ臭そうに笑うその様子は、つい先ほど重い歴史を語っていた人物と同一人物とは思えないほど穏やかだった。
「若い頃から、気になったことは放っておけない性分でしてね。歴史書を読み漁り、古い文献を探し回り、暇さえあれば資料室へ籠もっておりました。お陰で家族からは『また始まった』と呆れられたものですよ」
懐かしむように目を細める。
「教師になったのも、その延長のようなものです。知ることが好きでしたし、それを誰かへ伝えることも嫌いではありませんでした。もっとも、調べたところで分からないことはいくらでもあります。歴史というものは、知れば知るほど新しい疑問が生まれてくるものなのですよ」
その言葉に、聖花は思わず頷いた。確かにそうなのだろう。今日だけでも一つの答えを得た代わりに、新たな疑問が幾つも生まれている。
それでも不思議と後悔はなかった。知れば知るほど分からないことが増えていく。それでも知りたいと思えるのは、リブロが歴史を語る姿そのものが、どこか楽しそうだったからかもしれない。
「先ほども申し上げましたが、これはあくまで老耄の趣味ですよ。幸い、調べること自体を咎められたことは一度もありませんでした。ですから、気になったことを少しずつ調べ続けていたら、いつの間にか人より詳しくなっていただけなのです」
照れ笑いを浮かべながらそう締め括るリブロに、聖花もつられるように小さく笑みを返した。
確かに、趣味の延長と言われればそれまでなのかもしれない。だが、本当にそれだけなのだろうか、とも思う。歴史の裏側をここまで調べ、それを知りながら、何事もなく教師を続けていられるものなのか。本人が気付いていないだけで、既に誰かの目に留まっている可能性だって否定はできない。
もっとも、それは聖花の憶測に過ぎなかった。真実はリブロ本人にしか分からないし、それを確かめる術もない。今の彼女に言えることは一つだけだ。図書委員へ所属したことで、思いがけず頼れる教師と知り合えた――それだけでも十分な収穫だったのではないか、と。
だからこそ、この機会を逃したくはなかった。胸の内で一度だけ呼吸を整えると、聖花は恐る恐る口を開いた。
「……先生、もう一つだけ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「ええ、もちろんです。私でお答えできることであれば」
リブロは迷いなく頷いた。
その返事を聞いて、聖花は意を決する。フェルナンの名を出すのは危険かもしれない。だからこそ、まずは別の名前から。
「――シンシアという方について、ご存知ではありませんか」




