20.委員決め
「すみませんっ、遅れました!」
教室の扉を勢いよく開けた瞬間、聖花は一斉に集まる視線を肌で感じた。教壇では既にエルザが授業を進めており、名簿の確認も終えているらしい。教室内へ流れていた空気が一瞬だけ止まり、静まり返った視線だけが遅れて飛び込んできた。十数分の遅刻。それも入学して間もないこの時期に堂々と教室へ駆け込めば、嫌でも目立ってしまう。
エルザは黒板へ向けていた視線をゆっくりと聖花へ移した。咎めるような鋭さこそないものの、その眼差しには呆れが滲んでいる。
「今日はもう構いません。早く席に着きなさい。そこに立っていられる方が迷惑です」
「……申し訳ございません」
聖花は深く頭を下げると、教室中から注がれる視線を受けながら足早に自席へ向かった。ひそひそと囁き合う声が耳へ届く。中には面白そうに眺める者もいれば、不思議そうに首を傾げる者もいる。それでも言い返す気にはならなかった。入学早々に遅刻したという事実は変わらず、弁解したところで印象が良くなるとも思えなかったからだ。
本を探すことへ夢中になり、時間を忘れていた――そう言ってしまえば簡単だが、正確には少し違う。図書室の二階は、一階とは比べものにならないほど人影が少なかった。歴史書や古い史料が並ぶその一角は、華やかなものを好む貴族の子息令嬢たちから敬遠されやすく、新学期が始まったばかりの今は、足を運ぶ生徒も決して多くない。だからこそ、静まり返った館内を見ても何一つ不自然には思わなかったのである。元々人気のない場所なのだから、人の気配がなくなっていたとしても気に留める理由がない。気付けば昼休憩は終わり、図書室に残っていた僅かな生徒たちも教室へ戻っていたのだろうが、その変化にすら聖花は気付けなかった。
(本当に……何をしているのかしら)
心の中で自嘲しながら椅子へ腰を下ろす。慌てて駆け戻ってきたせいで呼吸はまだ僅かに乱れており、視線だけはできるだけ前へ向けたまま気持ちを落ち着かせようとしていた。
すると、不意に隣から控えめな声が届いた。
「……何か、あったのですか?」
ルードルフだった。
昼休憩が始まるや否や教室を飛び出し、そのまま戻ってこなかったかと思えば授業へ遅れて現れたのだ。事情を知らない者から見れば、不審に思うのも当然だろう。それでも彼は周囲へ聞こえないよう声量を抑え、本当に様子を窺うような口調で尋ねてきた。
「いいえ、大したことではございません。図書室へ用があったのですが、本を探しているうちに、すっかり時間を忘れてしまったようです」
一瞬だけ考え、下手に誤魔化すよりも事実だけを伝える方が自然だと判断した。目的までは話さないが、嘘も吐いていない。図書室へ行ったことも、時間を忘れていたことも事実だった。
だからこそ、余計な綻びは生まれないはずだ。ルードルフも小さく頷いていた。その反応から察するに、図書室へ足を運んでいたという説明自体は素直に受け入れたようだった。もっともその表情には僅かな疑問も浮かんでいて、何故図書室なのか――そう言いたげな表情を一瞬だけ浮かべたものの、結局それ以上踏み込んでくることはなかった。
聞きたいことはあっても、相手が話したくないのであれば無理に詮索はしない。それがルードルフという人物なのだろう。これまで何度か言葉を交わした中で、聖花も少しずつその性質を理解し始めていた。
(助かったわ……)
内心で小さく安堵する。聖花が図書室に行った本当の目的は、フェルナンとシンシアについて調べることだ。そのことだけは誰にも知られるわけにもいかない。もっともルードルフが相手だからといって全てを疑っているわけではない。ただ、彼は第一王子であり、同時にアーノルドの兄でもある。それを思えば、安易に手の内を明かす気にはどうしてもなれなかった。
エルザの声が教室へ静かに響く。その説明を耳へ入れながらも、聖花の意識は半ば図書室へ戻っていた。
(……思っていた以上だったわね)
あれほどの蔵書量があるとは想像もしていなかった。目当ての本さえ分かれば何とかなる――そんな甘い考えは、館内へ入った瞬間に打ち砕かれている。本棚の配置も分からず、案内板も見当たらない中で一冊の本を探し当てるなど、あまりにも非効率だった。今回は運悪く時間まで忘れてしまったが、仮に昼休憩がもう一時間長かったとしても、目的の本へ辿り着けたかどうか怪しい。
初めから職員へ尋ねていれば良かった。今になって思えばそれだけの話である。受付にいた女性の機嫌が悪そうだったために声を掛けることを躊躇ってしまったが、結果として余計な時間を費やしただけだった。次からは変に遠慮せず、目的の本がどの辺りにあるのかくらいは素直に聞いた方がいいだろう。
(まあ、過ぎたことを悔やんでも仕方ないわね)
気持ちを切り替えて、聖花は黒板へと視線を向けた。どうやらこれから委員会を決めるらしい。黒板には『学級委員』『美化委員』『図書委員』『体育委員』など、様々な役職が整然と書き並べられており、その多くは男女一名ずつ、中には二名ずつ選出されるものもあるようだった。任期はいずれも一年間。思っていたより本格的な制度らしい。
「どこか気になる委員でもありましたか?」
どの委員へ立候補するか――そんなことをぼんやり考えながら黒板を眺めていると、隣から再びルードルフが小声で話しかけてきた。その問い掛けに、聖花は視線を黒板へ向けたまま小さく頷く。
「図書委員が少し……。それ以外にも気になるものはいくつかあるのですが、どんな活動をするのか分からなくて」
素直に答えると、ルードルフはどこか納得したように微笑んだ。
「本がお好きなのですね。それでしたら、一度挑戦してみるのも良いのではありませんか。任期は一年ありますし、実際にやってみれば、ご自身に合っているかどうかも分かるでしょう」
入学してから間もないのに図書室へと足を運んで、今また図書委員へ興味を示したのだから、そう受け取るのも無理はない。
実際、聖花は人より本を読む機会が多い。マリアンナだった頃も、この身体になってからも、空いた時間があれば自然と本を開いていた。ただ、それは読書そのものが趣味というより、知識を得るためであり、時間を有効に使うためでもあった。だがアデルから勧められた本を読むことも少なくなかったことも事実である。
だが、わざわざそこまで説明する必要もない。誤解されたままでも特に困ることではないと判断し、聖花は否定することなく小さく笑みを返した。
ルードルフの言葉を受け、聖花は改めて黒板へ視線を向けた。
図書委員――その文字を見つめているうちに、先ほどまで漠然と抱いていた考えが、少しずつ形を成していく。図書委員になれば、図書室へ出入りする機会は自然と増えるだろう。本棚の配置も徐々に覚えられるはずだし、職員と言葉を交わすことにも不自然さはなくなる。何より、調べ物をするために図書室へ足を運んでも、周囲から怪しまれる理由にはならない。シンシアについても、フェルナンについても、今の聖花には圧倒的に情報が足りていなかった。だからこそ、自由に図書室を利用できる立場は思っていた以上に都合が良かったのだ。
もちろん、委員会へ所属する理由を他人へ説明するつもりはない。それでも、自分の目的を考えれば、図書委員ほど適した役目はないように思えた。
(悪くないかもしれないわね)
他クラスとの交流を持つためにも、元々何らかの委員会へ所属するつもりではいた。その上で、図書室という場所は今後何度も訪れることになるはずだ。そう考えると、図書委員を選ぶ理由としては十分過ぎるほどだった。
小さく頷いた聖花は、そのままルードルフへ視線を向けた。
「そうですね。一年間だけと思えば、一度挑戦してみるのも良いのかもしれません。……ルードルフ様は、どちらの委員会へ入られるのですか?」
「私ですか? ……いえ、私は委員会には所属しません」
きっぱりと言い切ったあと、不思議そうに小首を傾げる聖花を見て、彼は僅かに困ったような笑みを浮かべる。
「正確には、所属できない、という方が適切でしょうか。私は生徒会へ入る予定ですので、委員会との兼任はできないのですよ」
「生徒会……」
思わずその言葉を口の中で繰り返す。
聖花の知る生徒会とは、誰でも入れる組織ではなかった。例えば、成績上位の者。あるいは特別な才能の持ち主。学園側から認められた生徒だけが所属を許される、いわば学園の中心となる存在であると彼女は記憶している。
その中に、聖花のすぐ隣に座っている人物が加わる。そう聞けば驚くべきことなのかもしれないが、目の前の青年を見れば不思議と納得してしまう自分がいた。
第一王子という立場だけではない。学業も礼儀作法も、人との接し方も、どれを取っても非の打ち所がない。王太子という肩書きを外したとしても、生徒会へ選ばれるだけの資質は十分備えているように思えた。
(……そうなると)
自然と、もう一人の姿が頭へ浮かぶ。アーノルド――彼もまた、生徒会に入るだけの能力は持っているはずだ。兄と同じ道を選ぶのか。それとも、あえて別の所を選ぶのか、聖花にはまだ分からない。ただ、アーノルドの性格を思えば、自ら望んで兄と行動を共にするようには思えなかった。
(彼なら、生徒会に入ることもできそうだけれど……どうするのかしら)
そこまで考えたところで、聖花は小さく首を振って視線を再び黒板へ戻した。今考えるべきなのは、アーノルドではない。自分がどの委員へ立候補するか、その一点だけだ。
もっとも、候補はすでに殆ど決まっていた。図書委員――調べ物をするにも都合が良く、人前へ立つ機会も少ない。クラス委員のように必要以上に目立つ役職は避けたいと考えていた聖花にとって、それ以上の役目は思い浮かばなかった。
唯一気掛かりなのは、カナデが同じ委員へ立候補する可能性くらいである。だが、その心配も恐らく杞憂だろう。ここ数日の様子を見る限り、彼女が自ら図書委員を希望するようには思えなかった。むしろ、人目を引く役目の方を選びそうな気がしてならない。
そう考えると、図書委員はますます有力な候補となっていくのだった。
委員決めは、聖花が想像していたよりも遥かに円滑に進んでいった。誰もが人気のある役職へ我先にと立候補するものだと思っていたが、実際はそうではない。それぞれが希望する委員は意外なほど分散しており、仮に希望者が重なったとしても、互いに譲り合うことで大きな揉め事へ発展することはなかった。貴族社会では体裁を重んじる者が多いからなのか、それとも入学して間もない今だからこそ遠慮が働いているのか、その理由までは分からない。少なくとも、この場に限って言えば委員決めは拍子抜けするほど穏やかに進行していた。
その中で、聖花は予定通り図書委員へ名乗りを上げた。幸い希望者は他におらず、特に異論が出ることもないまま、あっさりと担当が決まった。胸の内で小さく安堵する。
これで今後は図書室へ足を運ぶ理由が自然にできる。蔵書の場所も少しずつ覚えられるだろうし、分からないことがあれば職員へ尋ねることも、委員としてなら何ら不自然ではない。フェルナンやシンシアについて調べる上でも、思っていた以上に大きな一歩となりそうだった。
一方で、教室のあちらこちらへ視線を巡らせていると、ロザリアが静かに手を挙げる姿が目に入った。彼女が希望したのは美化委員――教室や校内の環境整備を担う、決して目立つとは言えない委員会である。
(少し意外ね……)
もっと華やかな役職を選ぶものだと勝手に思い込んでいた聖花は、ほんの僅かに目を丸くした。もっとも、だからといって深い意味があるとは限らない。単純に希望しただけなのかもしれないし、何か別の理由があるのかもしれない。本人へ尋ねるつもりもない以上、その真意を考えたところで答えが出ることはないだろう。
そして、もう一つ聖花が意外に感じたことがあった。最も面倒そうに思えた学級委員が驚くほど早く決まったのである。責任も重く、人前へ立つ機会も多い役職だ。当然、最後まで希望者が現れず押し付け合いになるものだとばかり思っていた。
しかし現実は予想とは正反対で、立候補した生徒によって難なく決定してしまった。教壇ではエルザが淡々と黒板へ担当者の名前を書き込んでいく。滞りなく決まっていく委員会を眺めながら、聖花は静かに息を吐いた。
少なくとも今日という一日は、余計な波風が立つことなく終わりそうだ。




