4.家族との朝食
食堂へ足を踏み入れると、温かな空気と焼き立てのパンの香りがふわりと鼻先をくすぐった。既に食卓には全員が揃っている。
「マリアンナ、おはよう」
ダンドールとルアンナが、まるで示し合わせたように笑みを浮かべて声を掛けてきた。その表情には愛情が滲んでいて、娘の姿を見られたことを素直に喜んでいるのが伝わってくる。
一方で、兄のギルガルドだけは違った。彼は無言のまま聖花を一瞥しただけで、すぐに視線を皿へと戻してしまう。その横顔には何の感情も浮かんでおらず、まるで興味すら持っていないようだった。
ただ、どうやら皆、マリアンナが来るのを待っていてくれたらしい。胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなる。
「お父様、お母様、そしてお兄様。おはようございます」
聖花は緊張を悟られないよう、精一杯笑顔を作って頭を下げた。
ぎこちなく見えていないだろうか。不自然に思われていないだろうか。そんな不安を押し隠しながら、できるだけ柔らかな声を心掛ける。
その瞬間だった。
先ほどまで食卓へ視線を落としていたギルガルドが、不意に顔を上げた。鋭い視線が、真っ直ぐ聖花へ向けられる。対照的に、ダンドールとルアンナは目を丸くしながらも、どこか嬉しそうな顔をしていた。
(……あれ?)
思っていた反応と違う。不審がられるか、それとも何事もなかったかのように流されるものだとばかり考えていた。
それなのに、三人とも少しだけ驚いたような顔をしている。
けれど、その理由を誰も口にはしなかった。聖花も余計なことは尋ねない。今は知らないふりをしておく方がいい。そう判断すると、小さく息を吐いて食卓へ目を向けた。
すると、壁際で控えていたメイドが静かに歩み寄り、椅子を引いてくれる。その動きには一切の無駄がなく、ごく自然だった。席には既に食器だけが整然と並べられている。自分――いや、マリアンナの席なのだろう。
皆をこれ以上待たせるわけにはいかない。聖花は足早にそこへ向かい、静かに腰を下ろした。
「さあ、食べようか」
ダンドールの穏やかな一声を合図に、食事が始まる。
使用人たちが淀みない手付きで料理を運び始めると、白いクロスだけが広がっていた食卓は瞬く間に色鮮やかな料理で埋め尽くされていった。
湯気を立てるポタージュ。瑞々しい野菜を使ったサラダ。焼き立てのパン。香ばしく焼き上げられたムニエル。どれも見ているだけで食欲を誘うものばかりだった。
皆は何事もなかったかのように料理へ手を伸ばしていく。
(……私を待っていてくれたのかな)
誰一人そんな素振りは見せない。けれど、本当ならもっと早く食事を始めることもできたはずだ。それでも待っていてくれたのだと思うと、不思議と胸が温かくなった。
聖花も皆に倣い、静かに食事を口へ運ぶ。一口食べた瞬間、その美味しさに思わず目を見開いた。素材の味を丁寧に引き出した優しい味付け。
決して派手ではない。それなのに、一口ごとに旨味が広がり、自然と頬が緩んでしまう。前世で食べてきたどんな料理とも違う。温かくて、どこか安心する味だった。
「マリー、今日はいつも以上に美味しそうに食べますね。こちらまで嬉しくなってきますわ」
ルアンナが微笑みながら声を掛ける。
どうやら見られていたらしい。聖花はすぐに『マリー』が自分の愛称なのだと気付き、小さく笑った。
「はい。とても美味しいです」
今度の笑顔は作ったものではなかった。
―――マリー。
初めて呼ばれたはずの愛称なのに、不思議とその響きは胸へすっと馴染んでくる。
懐かしい。そんな感覚さえ覚えてしまい、自分でも少しだけ驚いた。それでも嫌な気持ちはまったくしない。むしろ、その呼び名をもっと聞いていたいと、自然に思ってしまっていた。
そんな二人の様子を見ながら、ダンドールはどこか羨ましそうな視線を向けている。
会話へ入りたい。そんな気持ちが顔に出てしまっていた。
その一方で、ギルガルドだけは違った。訝しげな視線をマリアンナへ向けたまま、じっと様子を窺っている。
冷たい表情は相変わらず崩れない。
(……こんな奴だったか)
彼は胸の内で小さく呟く。昨日までのマリアンナとは、どこか違う。それだけは感じ取れた。だが、その違和感を深く考えることはしなかった。
彼にとって家族など、今や取るに足らない存在でしかない。多少様子が変わったところで、興味を持つ理由にはならなかった。
やがて食事を終えると、ギルガルドは誰よりも早く席を立つ。椅子を引く音だけが静かな食堂へ響いた。そのまま一言も発することなく踵を返し、出口へ向かって歩き出す。
誰も引き止めない。いや、引き止められないのだ。
聖花はその後ろ姿を目で追った。
広い背中。近寄りがたい雰囲気。どこまでも冷たい横顔。それなのに、どこかひどく寂しそうにも見えてしまう。昨日メイから聞いた話を思い出したからだろうか。
本当の兄ではないとは分かっている。それでも、この世界では確かに兄妹なのだ。
(……いつか、ちゃんと話せる日が来るといいな)
そんな小さな願いが、胸の奥に静かに芽生えていた。
一方で、ダンドールもまた、何かを言いたげな表情でギルガルドの背中を見送っている。しかし結局、その唇が開かれることはなかった。
それは、この家ではいつもの光景なのだろう。
ギルガルドが食堂を出て行ってから、しばらくの間、誰も口を開かなかった。先ほどまで穏やかだった空気が嘘のように静まり返り、食器の触れ合う小さな音だけが食堂へ静かに響いている。聖花はそんな空気に居心地の悪さを覚えながらも、黙って食事を続けていた。
家族の様子を見る限り、この沈黙もきっと珍しいものではないのだろう。誰も無理に話題を変えようとはせず、それぞれが食事へ意識を向けている。
しかし、その静寂を最初に破ったのはルアンナだった。
「旦那様、私、貴方に申し上げたいことがありますの。マリーのことなのですが――忘れてませんよね?」
穏やかな笑みは崩れていない。けれど、その笑顔の奥にある圧力だけは、誰の目にも明らかだった。柔らかな声音とは裏腹に、有無を言わせぬ力を感じさせる。
その言葉を聞いた瞬間、ダンドールの肩がぴくりと震えた。
「あぁ……。勿論、覚えているさ……」
返ってきた声は驚くほど弱々しく、先ほどまで家族へ優しく笑い掛けていた当主と同一人物とは思えないほどだった。
心底触れられたくない話題だったのだろう。言葉を返したあとも、彼は何かを言い淀むように視線を泳がせ、小さく息を吐く。
対するルアンナは何も急かさない。ただ貼り付けたような笑顔のまま、じっと夫を見つめ続けていた。
その様子に使用人たちまで息を潜めている。食堂には先ほどとは違う意味で緊張が漂っていた。
(……意外と強い人なんだ)
聖花は思わずそんな感想を抱いてしまう。朝から見ている限りでは、穏やかで優しく、どちらかといえば控えめな女性だと思っていた。
けれど今目の前にいるルアンナは違う。娘のこととなれば決して譲らない、母親としての強さを静かに滲ませていた。
やがてダンドールは諦めたように小さく肩を落とし、ゆっくりと口を開く。
「マリー。お前はもう少しで学園へ入学する。しかし、社交界では殆ど顔を見せていないだろう。……流石に、そろそろ社交界にも慣れなければならない」
一度言葉を切り、ダンドールは娘の様子を窺うように視線を向ける。
「ルアンナとも話し合った結果、近いうちにパーティーへ参加してもらうことにした。食後、お前の部屋へ招待状が運ばれてくるはずだ。その中から好きなものを一つ選びなさい」
その言葉を聞いて、聖花は小さく瞬きを繰り返した。
(パーティー……)
もちろん前世でも耳にしたことくらいはある。けれど、それはテレビや漫画、ゲームの中だけの話だった。まさか自分が参加する側になるなど、一度も想像したことはない。
しかも貴族の社交界である。どんな人たちが集まり、どんな振る舞いを求められるのか、見当もつかなかった。
不安が胸をよぎる。けれど、その一方で少しだけ胸が高鳴っている自分もいた。知らない世界を、この目で見てみたい。そんな好奇心が、恐る恐る顔を覗かせていたのである。
しかし、その空気を打ち破るようにルアンナが口を開いた。
「貴方が頑なにマリーを社交界へ参加させなかったから、こうなったのですよ?」
言葉自体は責めるようなものだった。それでも怒鳴るわけではなく、静かに事実を突きつける口調だからこそ、かえって逃げ場がない。
どうやら長い間、このことを言いたくて仕方がなかったらしい。実際、マリアンナが社交界へ出る話になるたび、ダンドールは何かと理由を付けて見送ってきたのだという。
もっとも、それはダンドールだけの問題ではなかった。ルアンナ自身もまた、心のどこかでは『繊細なマリーが社交界で傷ついてしまうのではないか』という不安を抱いていた。だからこそ夫の反対を強く押し切ることができず、気付けば今日まで先延ばしになってしまっていたのである。
もちろん、そのことをルアンナ自身は自覚していない。そしてダンドールもまた、妻が同じ思いを抱いていたとは知らないままだった。
「あぁ……。すまない……」
ダンドールは力なくそう答えると、肩を落としたまま苦笑を浮かべる。その姿はヴェルディーレ家当主というよりも、妻に頭の上がらない一人の夫そのものだった。
その様子を見ていた聖花は、思わず口元を緩める。厳格な貴族の家だと思っていたけれど、こうして見ていると、どこにでもいる仲の良い夫婦のようにも思えた。
そんな何気ないやり取りが、胸の奥をじんわりと温かくしていく。
―――この家は、本当に優しい人たちばかりなのかもしれない。
気付けば聖花は、そんなことを自然と思っていた。
◆
メイは行動が早いらしく、聖花が部屋へ戻った頃には、机の上へ既に山のような手紙が積み上げられていた。どれも見事な蝋封が施されており、一目見ただけでも貴族同士の正式な招待状であることが分かる。これが全てパーティーの招待状なのだろう。
一体いつの間にこれだけ運び込んだのだろうか、と聖花は目を丸くした。朝食を終えてから、ここへ戻るまでそれほど時間は経っていない。それにもかかわらず、机いっぱいに並べられた招待状はきちんと整理され、一枚たりとも乱れていないのである。
改めてメイという侍女の仕事ぶりに感心すると同時に、これほど多くの招待状へ目を通さなければならない貴族という立場の大変さを、聖花は身をもって実感していた。
「どれにしようかしら……。この量から今日中に選べ、だなんて、お父様も随分と無茶を言いますね」
思わず苦笑しながら、一通ずつ手に取って中を確認していく。
しかし、どの招待状も家紋こそ違うものの、書かれている内容に大きな違いは見当たらない。開催日時や場所、定型的な挨拶が記されているだけで、それ以上の情報はほとんどなく、これだけでは何を基準に選べばいいのか見当もつかなかった。
しばらく唸りながら招待状を見比べていた聖花だったが、そんな様子を見かねたのか、少し離れた場所で控えていたメイが遠慮がちに口を開く。
「……お嬢様、大変差し出がましいこととは存じますが、私がお手伝い致しましょうか。招待状の仕分け程度でしたら、お力になれるかと思います」
その申し出に、聖花はぱっと顔を上げた。
「メイさん……! あっ……メイ。ありがとう。お願いしてもいい?」
危うくいつもの癖で「さん」を付けてしまい、慌てて言い直す。そんな小さな失敗にも、メイは気にした様子を見せず、「滅相もございません」と穏やかに微笑みながら机へ歩み寄ってきた。
彼女の手際は見事なものだった。大量に積まれていた招待状を次々と手に取り、家門ごと、交流の深さごと、さらには参加する価値の高低まで考慮しながら、迷うことなく幾つもの束へ分けていく。その動きには一切の無駄がなく、普段からこうした仕事を何度もこなしてきたことが一目で分かった。
程なくして机の上は見違えるほど整理され、聖花の目の前には意味ごとに分けられた招待状が綺麗に並べられていた。
「こちらは日頃から親交の深い家門でございます。こちらは表向きには友好的ですが、裏ではあまり良い噂を耳にしません。そしてこちらは……」
メイの説明を聞きながら一枚ずつ眺めてみるものの、聖花には相変わらず違いが分からない。
どれも丁寧な文面に見えるし、どれも立派な家紋が押されている。それなのにメイには、その文章の端々から相手の思惑や本音まで読み取れているようだった。
(すごい……)
思わず感嘆する。
前世では会社ごとの違いすら気にしたことがなかった自分にとって、貴族社会というものは想像以上に複雑らしい。これでは、一人で選んでいたら間違いなく失敗していただろう。
メイがいてくれて、本当に助かった。そう思いながら改めて机の上を見渡すと、比較的友好的だと分類された招待状の束が自然と目に留まった。
いきなり敵意を向けられるような場所へ飛び込む勇気は、今の聖花にはない。まずは安心して話せそうな場所から少しずつ慣れていきたい。
そう考えた末、一通の招待状をそっと手に取った。
「……これにします。どうでしょうか?」
差し出した招待状を見て、メイは小さく頷く。
「ゴルダール伯爵家でございますね。良いご判断かと思います」
ヴェルディーレ家と比べれば僅かに格は劣るものの、両家は長年良好な関係を築いており、相手方も礼節を重んじる家柄として知られているらしい。
初めて社交界へ足を踏み入れるマリアンナにとっては、これ以上ない相手なのだという。
その説明を聞き、聖花はようやく胸を撫で下ろした。どうやら大きな失敗はせずに済んだらしい。
役目を終えたメイは選ばれなかった招待状を手際よくまとめると、「旦那様へご報告して参ります」と一礼し、そのまま静かに部屋を後にした。
扉が閉まる音が響き、部屋に静寂が戻る。聖花は椅子へ深く腰掛け、小さく息を吐いた。
異世界へ来てからというもの、目の前で起こること全てが初めて尽くしで、その度に緊張してばかりだった。それでも、こうして一つずつ乗り越えていけば、いつかはこの世界でも普通に暮らせる日が来るのだろうか。
そんな淡い期待を胸に抱きながら、聖花は机の上へ残された一通の招待状を静かに見つめていた。




