3.始動
朝の光が差し込む部屋の中で、メイは慣れた手つきでマリアンナの身支度を整えていた。
とはいえ、その身体の中にいる聖花にとっては、どれも初めてのことばかりである。幾重にも重ねられる衣服も、背中にある留め具も、腰の辺りを締める紐も、聖花の知る現代の服とは大きく異なっていた。自分一人で着ろと言われたところで、どこから手をつければよいのかすら分からなかっただろう。
メイはそんな聖花の戸惑いを不審に思いながらも、表立って追及することはなかった。
先ほどから何度か心配そうな視線を向けてはいるものの、聖花が「奇妙な夢を見て混乱しているだけだ」と繰り返すため、ひとまずその言葉を信じようとしているらしい。ただし、聖花が自分の家族や身の回りのことまで尋ね始めた時には、さすがに驚きを隠せていなかった。
「それでは、お嬢様がお知りになりたいことからお話しいたしますね」
背後から髪を梳かしながら、メイが慎重に口を開く。
「ありがとうございます」
聖花は鏡越しに頭を下げた。
姿見へ映っている少女の姿には、まだ慣れない。長く艶やかな髪も、整った顔立ちも、自分のものではない。それは頭でははっきり理解していた。それなのに、不思議と強い拒絶感は湧いてこない。自分ではないはずなのに、どこか「これが自分なのだ」と受け入れてしまっている。
その奇妙な感覚を、聖花は深く考えようとはしなかった。
聖花はメイの話へ耳を傾けた。
マリアンナが生まれ育ったヴェルディーレ伯爵家は、アルバ国でも古くから続く由緒ある家柄だった。現在の当主は、ダンドール・ヴェルディーレ伯爵。爵位や身分だけで人を判断することを好まず、貴族に対しても平民に対しても、相応の敬意をもって接する人物だという。高位の貴族と比べれば柔軟な考え方を持っており、領民からの評判も悪くないらしい。
もっとも、何事にも寛容というわけではなかった。家や領地に関わることには厳しく、特に家族が危険へ晒される可能性があるとなれば、普段の穏やかさが嘘のように頑なになる。
そんなダンドールが妻として迎えたのが、現在の伯爵夫人であるルアンナ・ヴェルディーレだった。二人が出会ったのは、貴族の子女が通う学園である。当時のルアンナは、ボルツェーノ男爵家の令嬢に過ぎなかった。伯爵家の嫡男であるダンドールとは、家格に大きな差があったのである。
だが、ダンドールは初めて彼女を見た瞬間に心を奪われた。一目惚れだった。それからというもの、彼は周囲の反対にも臆することなく、ルアンナへ熱烈な求愛を繰り返した。最初は身分差を理由に距離を置こうとしていたルアンナも、やがて彼の真っ直ぐな人柄へ惹かれ、二人は婚約するに至ったという。結婚から長い年月が経った現在でも、夫婦仲は良好だった。
「お父様とお母様は、とても仲がよろしいのですね」
聖花がそう尋ねると、メイは柔らかく微笑んだ。
「はい。旦那様は今でも奥様を大切になさっています。奥様も、旦那様のことを深く信頼しておられますよ」
その言葉を聞いて、聖花は僅かに胸を撫で下ろした。少なくとも、険悪な夫婦の間に生まれたわけではないらしい。しかし、穏やかな夫婦のもとで育ったからといって、三人の子供たちが同じように育ったわけではなかった。
第一子であり長男でもあるギルガルドは、幼い頃にはよく笑う子供だったという。けれど、次期当主として育てなければならないという思いから、ダンドールは彼へ厳しい教育を施した。
伯爵家を継ぐ者が甘さを見せれば、周囲につけ込まれる。誰かへ弱みを見せれば、家そのものが侮られる。そう考えたダンドールは、息子が弱音を吐くたびに突き放し、失敗すれば厳しく叱責した。愛情がなかったわけではない。むしろ、息子の将来を案じたからこその教育だった。
だが、その方法は正しくなかった。第一子ということもあり、ダンドール自身も、子供をどのように導くべきか分かっていなかったのだ。厳しさを与えることと、愛情を示さないことを、知らず知らずのうちに混同してしまった。
その結果、ギルガルドは次第に笑わなくなった。弱さを見せることをやめ、他人へ期待することもなくなり、感情を表へ出さない人間へと育っていった。今では家族に対してさえ、必要以上の言葉を口にしない。両親が教育の誤りへ気づいた時には、すでにギルガルドは彼らへ何も求めなくなっていた。歩み寄ろうとしても、どう接すればよいのか分からない。
ギルガルドの方にも、家族との関係を修復しようという意思は見られなかった。彼にとって家族とは、同じ家に属しているというだけの存在でしかない。両親が何を思い、妹たちが何をしているのかにも、ほとんど関心を示さなかった。そのため、家族でさえ、ギルガルドが何を考えているのかを理解していない。
彼は冷静で、厳格で、時に冷酷だった。少なくとも、周囲の人間からはそのように見られている。
「ギルガルド様は、現在も本邸でお過ごしです」
メイが髪をまとめながら言った。
「では、今日お会いするのですか?」
「はい。朝食の席でお待ちになっているはずです」
その答えを聞き、聖花は無意識に背筋を伸ばした。話を聞いた限りでは、あまり気軽に話しかけられる相手ではなさそうだった。
対して、長女のフィリーネは、兄とはまったく異なる性質を持っていた。彼女は幼い頃から努力家であり、誰かに命じられなくとも、自ら進んで礼儀作法や学問を学んだ。両親がギルガルドの教育で失敗したこともあり、フィリーネには必要以上の厳しさを押しつけなかった。それでも彼女は怠けることなく、自分が伯爵令嬢であることをよく理解し、その立場にふさわしい人間になろうと努力を重ねた。
そうして成長したフィリーネは、年齢以上に洗練された振る舞いと、社交界でも評判になるほどの美貌を併せ持つ淑女となった。すでに複数の貴族家から縁談が寄せられており、将来を期待されているという。
現在のフィリーネは、マリアンナよりも一足先に学園へ入学しており、普段は寮で生活している。長期休暇になれば本邸へ戻ってくるが、今はまだ学園にいるため、この場にはいないらしい。
「お姉様とは、すぐには会えないのですね」
「はい。ですが、次の長期休暇にはお戻りになると思います」
聖花は小さく頷いた。今すぐ会う家族が一人減ったことへ、僅かに安堵している自分がいた。
そして、三人目の子供が次女のマリアンナである。つまり、現在の聖花が身体を借りている少女だった。
マリアンナは、父であるダンドールよりも、母ルアンナの容貌を色濃く受け継いでいた。顔立ちだけではない。声や表情の端々まで、若い頃のルアンナによく似ていたという。愛する妻の面影を持つ末娘を、ダンドールが可愛がらないはずがなかった。ルアンナもまた、自分によく似た娘へ強い愛情を注いだ。もとより末の子供であったこともあり、マリアンナは三人の中で最も甘やかされて育ったのである。
欲しいものがあれば与えられ、嫌がることがあれば無理強いされない。両親は彼女を大切にするあまり、外の世界から遠ざけようとした。
その最たるものが、社交界だった。アルバ国の貴族令嬢は、通常であれば十歳を過ぎた頃から、両親や年長の家族に伴われて茶会や小規模な夜会へ参加し始める。そこで同年代の貴族と顔を合わせ、将来必要となる人間関係や作法を学ぶのだ。ところが、今年で十四歳を迎えたマリアンナは、これまで一度として正式な社交の場へ出たことがなかった。伯爵令嬢としては、異常ともいえる状態である。
マリアンナ本人が強く拒んだわけではない。父であるダンドールが、頑として認めなかったのだ。社交界とは、表面上こそ華やかに見えるが、その裏では数え切れないほどの思惑が交錯している。家同士の利害、婚約者探し、派閥争い、情報の探り合い。ダンドールにとって、それは戦場と大差のない場所だった。そのようなところへ、何も知らない愛娘を送り出すなど到底できないと、彼は言い張り続けたのである。
だが、いつまでも家の中だけで守っていることはできない。マリアンナは十四歳。再来年には、貴族の子女が通う学園へ入学しなければならなかった。
「学園、ですか」
聖花は不安を覚えながら呟いた。
「はい。お嬢様も十六歳になられましたら、三年間学園でお過ごしになることになります」
メイの言葉をきっかけに、話は自然とアルバ国の学園制度へ移っていった。
アルバ国は、古くから続く大国である。周辺諸国と比べれば恋愛結婚に対して寛容であり、家同士が一方的に決めた政略結婚よりも、本人たちの意思を尊重した婚姻が多い。ダンドールとルアンナの結婚も、その風潮があったからこそ実現したものだった。
もっとも、誰もが自由に結婚できるわけではない。貴族と平民の間には、今なお大きな身分の壁が存在する。家門の名誉や血筋を守るため、結局のところ、大半の貴族は同じ貴族階級の中から相手を選んでいた。そのため、学園は教育の場であると同時に、将来の伴侶を探すための場所としても扱われている。
各地から集まった貴族の子女が、三年間を共に過ごす。これほど自然に同年代の貴族と関係を築ける機会は、他にほとんどない。授業や行事を通して互いの人柄を知り、やがて婚約へ至る者も少なくなかった。
ただし、本来の目的はあくまで教育である。学園では主に、魔術や剣術、国の歴史、領地経営に必要な基礎知識などを学ぶ。礼儀作法や貴族としての振る舞いについては、多くの者が幼い頃から専属の教師に教え込まれている。そのため、学園で改めて扱われる機会は少ない。一方、魔術や剣術は、家に十分な指導者がいなければ学ぶことが難しい。そのため学園には、各分野に通じた教師が揃えられていた。
もっとも、長く平和が続いている現在、戦闘の心得を身につけることへ強い意義を感じる貴族は多くない。武門の家系や、将来騎士を目指す者を除けば、剣術や実戦的な魔術を真面目に学ばない生徒も珍しくなかった。彼らにとって学園とは、勉学の場というよりも、人脈を築き、婚約者を見つけ、将来の地位を確かなものにするための舞台なのである。
「魔術が、本当にあるのですか?」
思わず尋ねた聖花へ、メイは不思議そうな顔をした。
「もちろんでございます。お嬢様も、入学前には魔昌石で属性をお調べになりますよ」
この世界では、学園へ入学する前に魔昌石と呼ばれる特殊な石を使い、自身がどの属性へ適性を持つのかを調べる。発現した属性に応じて、学ぶ魔術の系統も変わるという。
魔術は大きく分けて、炎、水、森、光、闇の五属性に分類される。炎は熱と燃焼を操り、水は液体や冷気へ干渉する。森は植物の成長や大地に根づく生命へ働きかける属性であり、治療薬の材料を育てたり、植物を操ったりする者もいる。その三つは比較的発現しやすい属性だった。
一方、光と闇は滅多に現れない。中でも光属性は、多くの者が欲する特別な力とされていた。光を持つ者は、傷を癒やし、毒や呪いといった穢れを退ける力を得ることがある。その能力の希少さから、光属性が発現しただけでも社会的な地位や名誉が約束されやすい。強い光の力を持つ者となれば、神へ近い存在として崇められることさえあった。
反対に、闇属性は不吉の象徴とされ、人々から忌み嫌われている。その偏見の始まりは、数百年以上前に起きた一つの事件だった。かつて、強大な呪いの力を用い、世界中を混乱へ陥れた男がいた。男は長い間その正体を隠しながら、各地で密かに犯行を繰り返していたという。人々の心を蝕み、街へ病を広げ、国同士の争いまで引き起こした。被害が表沙汰になった時には、すでに数多くの命が奪われていた。後に、その男が闇属性の魔術を使っていたことが判明したのだ。
事件を終息へ導いたのは、一人の光属性を持つ女性だった。彼女は神からの御告げを受け、男の居場所を突き止めた。そして、呪いや傷のような穢れを撥ね退け、男が操る闇を打ち払ったと伝えられている。
あまりにも大きな災厄であったため、男個人の罪は、いつしか闇属性そのものへの恐怖へと変わっていった。それ以来、闇を持つ者は災いを招くと信じられ、光を持つ者は人々を救う存在として崇められるようになったのである。
現在でも、光属性を持つ者の中から、神の声を聞くことのできる女性が極稀に現れるという。ただ光属性を持つだけではない。神の御告げを聞き、その意志を人々へ伝えられる女性。人々は、その存在を『聖女』と呼んでいた。
「聖女……」
その言葉を口にした瞬間、聖花の胸の奥で、何かが微かに揺れた。
初めて聞いた言葉ではないような気がする。けれど、どこで耳にしたのかは分からない。思い出そうとすると、記憶へ靄が掛かる。
マリアンナという名前を聞いた時と同じだった。家族のことも、学園のことも、魔術のことも、聖花にとっては本来なら何一つ知らない話のはずである。それにもかかわらず、聞けば聞くほど、それらの情報は不思議なほど自然に聖花の内側へ浸透していった。思い出したわけではない。過去の記憶が蘇ったわけでもない。それでも、まったく初めて聞くものとは思えなかった。
話を聞けば聞くほど、胸の奥が静かに落ち着いていく。初めて聞くはずの話なのに、不思議と違和感がない。まるで昔から知っていたことを、誰かに確認してもらっているような感覚だった。
理由は分からない。けれど、その奇妙な安心感を、聖花は自然と受け入れていた。
自分が伯爵家の娘であること。家族がいること。少なくとも、これまで大切に育てられてきたらしいこと。本来なら、自分とは何の関係もない人生のはずだった。それでも聖花は、その事実をどこか自然なものとして受け入れている自分に気づく。そのことへ疑問を抱くよりも先に、不思議な安心感が胸の中へ静かに広がっていた。
「お嬢様、お話はそろそろ終わりにいたしましょう」
考え込んでいた聖花へ、メイが声を掛ける。鏡の中では、乱れていた長い髪が美しく整えられ、見慣れない衣服もきちんと身につけられていた。
「身支度が整いました。朝食へ向かいましょう。伯爵夫妻とギルガルド様がお待ちでございます」
「……はい」
いよいよ、この身体の家族と顔を合わせなければならない。聖花は膝の上へ置いていた手を強く握りしめた後、覚悟を決めて立ち上がった。
メイに続いて部屋を出ようとする。そのはずだった。ところが、扉を抜けた瞬間、聖花はごく自然に廊下の右へ足を向けていた。食堂の場所など教えられていない。それなのに、「こちらだ」という考えが、ごく当たり前のように頭へ浮かぶ。
不思議だとは思った。だが、それ以上に、その判断を疑おうという気持ちが湧いてこなかった。『きっと、こっちで合っている』そう思うこと自体が、あまりにも自然だった。
聖花は迷うことなく歩き出す。後ろを歩くメイも、その様子を何一つ不思議には思わなかった。
長い廊下を進み、いくつもの扉の前を通り過ぎる。その一歩一歩に迷いはなかった。
―――きっと、こっちで合っている
◆
その頃、奏はすでにアルバ国の王都へ入っていた。森で出会ったルーツに街の近くまで送り届けてもらい、別れ際には当面の生活へ困らない程度の金銭まで渡されている。
「本当に親切な人だったなぁ」
奏は受け取った硬貨の入った袋を手の上で軽く跳ねさせながら、上機嫌に呟いた。見ず知らずの自分を助け、街まで案内し、そのうえ金までくれた。異世界へ来た直後に、あれほど都合のよい人物と出会えるとは思っていなかった。
けれど奏は、それを不思議には思わない。物語の主人公とは、困っている時に助けてくれる人物と出会うものだ。自分がそういう立場なのだから、これくらいの幸運は当然なのだろうと、彼女は本気で考えていた。
王都へ入った奏が最初に向かったのは、ギルドだった。彼女がゲームや物語の中で見てきた異世界では、冒険者や傭兵はギルドへ所属し、そこで仕事を受けるものだったからである。
実際、この世界のギルドも、奏が想像していたものと大きくは違わなかった。薬草や魔物の素材を集める依頼。街道や水路の整備。商人や貴族の護衛。危険な獣の討伐。内容は多岐にわたり、身分を問わず多くの者が仕事を求めて訪れている。
貴族からの依頼も、直接人を雇うのではなく、ギルドを通して出されることが珍しくない。人と依頼が集まる場所である以上、各地の噂や情報も自然と行き交っていた。異世界へ来たばかりの奏にとって、金銭と情報の両方を得られるギルドは、都合のよい場所だった。
「まずは、お金を集めないと」
奏はギルド内に置かれていた資料や、魔道具・薬品の一覧を一通り眺めたあと、小さくため息を吐いた。
(……やっぱり、そんな都合のいい物はないか)
一時的に容姿を変える薬。幻術を補助する魔道具。顔立ちを僅かに誤魔化す装身具。そういった類の物はいくつか見つかった。しかし、どれも奏の望むものではない。
(こんなのじゃ意味ない。私は|あの子になりたいんだから)
元の姿へ戻ってしまう程度では、最初から使う価値などない。奏が欲しいのは、もっと根本から目的を叶える方法だった。ゲームの中で、それらしい噂を耳にした覚えがある。王都の裏社会には、表へ決して出回らない知識を売る情報屋がいるという話を。
本当に存在するかは分からない。けれど、この世界がゲームそのものなら、試してみる価値は十分にある。
問題は金だった。情報は安くないし、仮に方法が見つかったとしても、それを実現するには更に莫大な金が必要になるかもしれない。
「……だったら、稼ぐしかないか」
奏は第一目標を、お金集めに決めた。依頼をこなしながら魔術にも慣れ、同時に情報も集める。遠回りではあるが、それが一番の近道だと彼女は考えた。
順調だ。何一つ問題はない。奏は満足そうに頷き、受けられそうな依頼を探し始めた。その間、ルーツがギルドへ姿を見せることはなかった。奏の思い描く異世界では、傭兵もまたギルドで仕事を受ける者である。だから彼女は、登録をしていれば、いつかこの場所で彼と再会するだろうと漠然と思っていた。
けれど、その日、ルーツが現れることはなかった。奏は、それを深く考えなかった。今日は仕事を受ける予定がないのかもしれない。別のところを利用しているのかもしれない。物語と現実では、多少仕組みが違うのかもしれない。
自分にとって都合のよい答えを一つ見つけると、それ以上考える必要などないと判断した。ルーツが姿を見せなかったこと。彼が自らを傭兵と名乗りながら、ギルドへ立ち寄ろうともしなかったこと。その違和感が何を意味するのか、奏はまだ知る由もなかった。
そしてもう一つ。
自分が求める願いを叶える代償が、想像を遥かに超えるものになることも。




