22.入学式前日 前半
その日は、雨音と共に始まった。
ざあざあと絶え間なく降り続ける雨が屋根や窓を打ち、石造りの壁を伝って流れていく。時折、軒先から落ちた大粒の雫が何かへぶつかり、ぱしゃりと小さな音を立てた。
普段よりも静かな部屋の中では、それらの音が妙によく響いて聞こえる。聖花は閉じていた瞼をゆっくりと開き、掛け布の中で僅かに身じろぎした。まだ朝早いのだろう。厚い雲に覆われているせいもあって、窓の外は薄暗く、部屋の中にも夜の名残が残っていた。
しばらく雨音へ耳を傾けた後、聖花は枕から頭を持ち上げ、寝台の上で身体を起こした。
廊下からは、すでに何人もの気配が伝わってくる。足早に歩く音。扉を開閉する音。何かを運びながら、小声で指示を出し合う使用人たちの声。朝の仕事を始めているのだろうか。あるいは、明日の出発に備え、最後の荷造りを進めているのかもしれない。
明日は、待ちに待った学園の入学式だった。
入学後、聖花の生活する場所は、ゴルダール家から学園内の寮へと移る。生徒のほとんどに例外はなく、余程の事情がない限り、長期休暇に入るまで実家へ戻ることは認められない。単に授業を受けるだけではなく、親元を離れ、自分の身の回りを管理することも学習の一つと考えられているらしい。
寮へ連れていける使用人は、最大でも一人まで。それ以上の同行は許可されておらず、そもそも使用人を伴わず生活することが推奨されていた。幼い頃から誰かに着替えを手伝われ、食事を用意され、身の回りの全てを整えてもらうことへ慣れきった貴族の令嬢や子息にとっては、なかなかに厳しい制度だろう。
その点だけを考えるなら、自分のことを自分でするのが当たり前である平民の方が、寮生活へは馴染みやすいのかもしれない。もっとも、今の聖花にとって重要なのは、制度の是非ではなかった。
今日は、ゴルダール家で過ごす最後の一日である。最後と言っても、二度と戻ってこないわけではない。大きな病気や怪我でもしない限り、長期休暇までは帰宅できないというだけだ。
それでも、しばらくこの屋敷を離れることに変わりはない。聖花にとっては、ひと区切りとなる特別な日だった。
メイドたちの陰口に、何を考えているのか分からないヴィンセントからの圧力。読み進めるほど謎が増えていく日記。どこか不自然で、不思議な構造をした屋敷。ゴルダール家で過ごした日々に、よい思い出ばかりがあるわけではなかった。むしろ、離れられることへの安堵の方が大きい。
だからといって、この家で世話になった事実まで否定するつもりはない。衣食住を与えられ、学園へ入るための準備を整えてもらった。警戒すべき相手がいる一方で、アデルのように聖花を支えてくれた者もいる。有り難いと思う気持ちは、確かにあった。
忙しない夜会の日から、すでに数日が経っている。振り返れば、時間が過ぎるのは驚くほど早かった。もっとも、あの一日だけは、朝から夜まで何日分もの出来事が詰め込まれていたかのように長く感じられたのだが。
夜会から帰ったその晩、聖花は何者かに襲われた。少なくとも、聖花の記憶ではそうなっている。
首へ突きつけられた冷たい刃。耳元で囁かれた声。繰り返された問いかけ。それから、床を滑っていったはずのナイフ。どれも、思い返せば生々しい。
ところが、翌朝には、首筋へ薄く残っていたはずの傷が綺麗に消えていた。赤みもなければ、指で触れても痛みすらない。まるで、最初から傷つけられてなどいなかったかのようだった。
聖花だけでなく、昨夜の騒ぎを知っていたアデルも不思議がった。しかし、室内から侵入者の姿は見つからず、落ちていたはずのナイフも消えている。窓が開いていたこと以外に、誰かが入り込んだと証明できるものは残されていなかった。
現実に起きたことだと考えれば、あまりにも不可解である。だから聖花は、疲労のせいで見た悪夢だったのかもしれないと、自分へ言い聞かせることにした。アデルもまた、聖花が寝惚けたまま夢と現実を混同したのだろうと、無理に納得しようとしているようだった。
あんな出来事が現実に起きたなどと、簡単に認めたくなかったのだ。
報告を受けたヴィンセントだけは、二人とは違う考えを抱いていた。彼は消えた傷について、闇属性の魔力が持つ特性の一つではないかと疑っていた。もっとも、その推測が聖花へ伝えられることはなかったけれど。
聖花は窓へ目を向けた。灰色の雲から降り注ぐ雨によって、庭の景色は薄い幕を被せられたように霞んでいる。
(明日は、晴れるかな……)
この国には、元の世界にあったような天気予報はない。雲や風の様子から天候を読む者はいるのかもしれないが、聖花にはそのような知識も能力もなかった。
ただ、雨が今日のうちに止んでくれることを願うばかりである。新たな生活を始める日が雨では、どうしても気分が沈んでしまうから。晴天とまではいかなくとも、せめて傘のいらない空になってほしかった。
アデルが部屋へ来るまで、まだ少し時間がある。聖花は起こしていた身体を再び倒し、寝台の上へ転がった。枕へ頬をつけ、一定の調子で響く雨音に耳を澄ませる。
今のうちだけは、何も考えずにいたかった。学園へ入ればカナデと接触する機会が増えるし、他にも考えるべきことは山ほどある。けれど、考えたところで、今すぐ解決できることはほとんどなかった。
今日もまた、フェルナンが授業のために屋敷を訪れる予定になっている。入学式の前日まで授業を続けるとは、随分と熱心なものである。感心する気持ちがないわけではないが、それ以上に教員である彼自身の準備は大丈夫なのだろうかという不安の方が強かった。
入学式を迎えるのは、なにも生徒だけではない。教師にも、授業の準備や新入生を受け入れるための仕事があるはずである。
数日前、聖花はそのことを遠回しに尋ねてみた。だが、フェルナンは「大丈夫だ」と繰り返すだけで、詳しい事情を話そうとはしなかった。本当に問題がないのか、それとも、何かを他の教師へ押しつけているのか。教員として果たすべき役目を、きちんと果たしているのか。どうにも心配になる。
もっとも、フェルナンの授業そのものは、悪いものではなかった。多少――いや、かなり性格の悪い教え方をされることもあったが、説明は丁寧で、聖花が理解できるよう工夫もしてくれた。ただ知識を並べるだけではなく、退屈しないよう考えられている。その点についてだけは、教師として優秀なのだろう。
だからといって、今後も個人的に授業を受けたいかと問われれば、答えは否である。聖花が脱獄した罪人であることを知り、その事実を利用して、半ば脅迫じみた約束を取りつけた人物だ。教え方が上手だからといって、信用できるはずもない。
それでも、この屋敷で受けた授業だけは、一つのよい思い出として心へ残しておきたかった。学園へ入れば、近いうちに再会することになる。けれど、その時は、今のように一対一で向き合う家庭教師と生徒ではなく、大勢いる教師の一人と生徒の一人の関係になるはずだ。
できる限り距離を置き、必要以上に関わらずに済ませたい。約束――という名の脅迫がある以上、望みどおりにはいかない可能性が高い。だからこそ、今日のうちに少しでも話をつけておく必要があった。聖花の正体を誰にも明かさないこと。学園で余計な要求をしないこと。
口約束にすぎないとしても、改めて確かめておきたかった。学園へ持ち込む問題は少ない方がよいから。今日は、そのために残された最後の機会でもある。
「お嬢様! おはようございますっ!」
考えを巡らせているうちに、元気な声と共に部屋の扉が開いた。
アデルが、いつもと変わらない明るい表情で姿を現す。
「おはよう……」
もう少し寝台の上で転がっていたい気分ではあった。しかし、今日は荷物の最終確認もあり、フェルナンの授業もある。いつまでも寝ているわけにはいかないと、聖花は小さく息を吐きながら、再び上体を起こした。朝から変わらず元気なアデルへ顔を向ける。
その笑顔を見た時、聖花は改めて思った。この屋敷での生活が耐えられたのは、アデルがいてくれたからだ。誰にも信用されず、周囲の使用人から陰口を叩かれていた時も、彼女だけはいつもと変わらず接してくれた。何も知らないまま向けられる無邪気な好意に、救われたことは一度や二度ではない。
そんな聖花の思いには気づかないまま、アデルは手早く朝の身支度を始めた。髪を梳かしながら、鏡越しにしみじみとした表情を浮かべる。
「明日は、いよいよ入学式ですね。お嬢様がこの家へいらしてから、随分早かったように感じます」
「そうね。本当に」
「……ここでの暮らしは、充実していましたか?」
突然の問いに、聖花は一瞬だけ言葉を詰まらせた。充実していたかと問われれば、素直に頷くことは難しい。命の危険を感じたこともあれば、胃が痛くなるような出来事も数え切れないほどあった。
けれど、アデルと過ごした時間まで、嫌なものだったとは思わない。
「……ええ。アデルのお陰で、とても」
「えへへ。嬉しいなあ。お世辞でも、そう言っていただけるなら、私は幸せ者です」
アデルは頬を赤くし、照れ臭そうに笑った。鏡越しに見えるその表情は、本当に嬉しそうだった。それでも聖花の言葉を、完全には信じていないらしい。自分が誰かの役に立ったということを、素直に受け取れないのだろう。
聖花は以前から不思議に思っていた。
どうして、わざわざゴルダール家で働き続けているのだろうかと。もっと給金の高い、あるいは同じくらいの他の家へ移ることもできたはずだ。それほどまでに、この環境はアデルに合っていなかった。ヴィンセントの下で働くことに、何か特別な理由があるのか。それとも、アデルには聖花の知らない事情があるのか答えは分からない。
ただ、彼女がこの家にいてくれたからこそ、聖花が救われてきたことだけは確かだった。
「お世辞ではないわ」
「そう思っておきますね」
本心から告げたにもかかわらず、アデルは冗談めかして笑った。他人のよいところを見つけることは得意なのに、自分自身への評価だけは妙に厳しい。そんな彼女を、聖花はもどかしく思った。
聖花は鏡越しにアデルを見つめ、はっきりと名前を呼んだ。
「アデル」
「はい。どうしましたか?」
「あなたは、周りにいる人を明るくしてくれる、とても素敵な人よ」
アデルの手が僅かに止まった。
聖花は視線を逸らさず、穏やかに続ける。
「もっと、自分に自信を持っていいと思うわ」
普段の聖花であれば、ここまで真っ直ぐに誰かを褒めることはなかったかもしれない。気恥ずかしさもあるし、改まって口にするほどのことでもないと考えてしまう。
けれど、今日だけは伝えておきたかった。明日から、アデルとはしばらく会えなくなる。それだけではない。カナデとの決着がつけば、次に会う時には、聖花は今の姿ではないかもしれない。
アデルの前へ、マリアンナとして立つことになる可能性もある。だからこそ、今のうちに伝えたかった。聖花として、自分を支えてくれた彼女へ。聖花は、できるだけ早くカナデとの問題へ決着をつけるつもりだった。準備はまだ充分とは言えないし、カナデがどのような力を得ているのかも分からない。
それでも、奪われたままにしておくつもりはなかった。そのために、やがて自分より遥かに大きな存在や力と向き合うことになるとしても、意思を変えるつもりはない。
「そんなこと……」
アデルは困惑したように目を伏せた。唐突に褒められて、どう反応すればよいのか分からないのかもしれない。あるいは、聖花の言葉がまるで別れの挨拶のように聞こえ、戸惑っているのかもしれなかった。
髪を整えていた手を止め、顔を俯かせるアデルへ、聖花は身体ごと向き直った。途中まで整えてもらった髪が崩れる可能性など、今は気にならなかった。
アデルの顔を正面から見つめる。
「私が保証するから、そんなに暗い顔をしないで」
「お嬢様……」
「アデルがそんな顔をしていると、私まで寂しくなるわ」
アデルは何かを言い掛けた。まるで聖花が、どこか遠くへ行ってしまうかのようだと。本当に学園へ行くだけなのかと、確かめようとしたのかもしれない。しかし、言葉になる直前で、それを飲み込んだ。
代わりに、聖花の願いへ応えるように、ゆっくりと微笑み返す。
「分かりました。でしたら、笑っていますね」
「ええ。その方が、アデルらしいわ」
二人の間に、穏やかで、どこか不思議な空気が流れた。それ以上は改まった話をせず、アデルは再び聖花の髪を整え始める。
朝食の時間が来るまで、二人は取り留めのない会話を交わした。学園寮にはどのような部屋があるのか。食事は美味しいのか。休暇になったら、どのような話を聞かせてほしいか。どれも些細な話だった。けれど、その些細な時間が、聖花には何よりも心地よかった。
気がつけば、窓を叩いていた雨音は聞こえなくなっていた。外へ目を向ければ、雨はすでに止んでいる。厚い雲はまだ空に残っていたが、その向こう側には僅かに明るい光が透けて見えた。
今日はまだ、始まったばかりだった。
次回、久々のフェルナン登場話です(*‘ω‘ *)
(なお、何度も授業でゴルダール家に訪問しています




