21.真夜中の訪問者
あの騒動の後、アーノルドよりも先にパーティーホールへ戻った聖花は、図らずも貴族たちの恐ろしさを、改めて目の当たりにすることになった。
第二王子が姿を消し、その後を追うように第一王子まで退席したことで、会場には一時、戸惑いが広がっていた。しかし、王子たちがいないからといって、貴族たちの会話まで止まるわけではない。むしろ本人が不在であることをよいことに、周囲では二人の王子を比較する言葉が、遠慮なく飛び交い始めていた。
ルードルフは次代の王に相応しい。第一王子は常に王族としての責務を第一に考えている。それに引き換え、第二王子は何を考えているのか分からない。言葉そのものは遠回しに飾られていても、含まれている意味は明白だった。
少しでもルードルフの耳へ入り、好印象を持たれたいのか。それとも、単純にアーノルドを見下しているだけなのか。理由は分からなかったが、本人のいない場所で好き勝手に比べ、片方を持ち上げるためにもう片方を貶める様子は、滑稽であると同時に、聖花にはひどく不快なものに映った。
結局、そのような会話は、アーノルドが会場へ戻ってくるまで続いた。本人の姿を確認した途端、先ほどまで彼を貶していた者たちが何事もなかったかのように口を閉ざし、柔らかな微笑を作る。あまりに鮮やかな変わり身の早さに、聖花は呆れるほかなかった。
それからは余計な騒ぎを起こさないため、会場の端で壁の花に徹した。遠くから貴族たちの様子を観察しながら、近くの卓に並べられていた料理を一人で味わう。せっかく王宮まで来たのだから、せめて食事くらいは楽しまなければ割に合わない。
幸い、シャンファの姿はすでに見当たらなかった。いつの間にか帰ったのか、それとも聖花の目へ入らない場所にいるのかは分からないが、少なくとも再び絡まれる心配をしなくてよいだけでも気が楽だった。
少し離れた場所には、マリアンナの姿も見えた。彼女は友人と何食わぬ顔で会話を続けている。その姿だけを見れば、ヴェルディーレ家の大人しい令嬢以外の何者にも見えない。
やはり奏は平然とマリアンナとして暮らしているのだろう。そのことを思えば、腹の底に重いものが沈んでいくようだった。
けれど、この場で何か行動を起こすわけにはいかない。聖花は湧き上がる感情を飲み込み、手元の菓子へ意識を戻した。
そうしているうちに、長かった夜会は大きな問題も起こらないまま終わりを迎えた。帰りの馬車では、案の定、ヴィンセントから何をしていたのかと幾つも尋ねられた。やはり見られていたらしい。けれども、事の顛末を正直に話すわけには行かない。
聖花は、少し気分が悪くなって静かな場所を探していたのだと、幾つかの事実を混ぜながら誤魔化した。すぐに見破られるのではないかと警戒していたものの、ヴィンセントは多少訝しげな顔をしただけで、それ以上深く追及してはこなかった。
彼の目が決してどのような嘘も見抜けるわけではない。それを知ることができたのは、今後を考えれば大きな収穫だった。
無事にゴルダール家へ戻ると、聖花は早々に寝支度を整えた。今から何かを考えようとしても、まともな答えが出るとは思えない。それほど、今日一日で蓄積された疲労は大きかった。
(今日だけで、本当にいろいろなことがあったな……)
寝台へ横になり、枕へ頭を預けながら、聖花は小さく息を吐いた。身体だけでなく、心まで重い。本当ならば、ギルガルドのことや、アーノルドが自分を庇った理由について考えるべきなのだろう。
けれど、今の聖花には、その気力すら残っていなかった。瞼はすぐに重くなり、意識が緩やかに沈んでいく。
考えることを諦め、押し寄せる眠気へ身を任せると、聖花は程なく深い眠りへ落ちた。
◆
それから、数時間が過ぎた。
頬を撫でる冷たい空気に、聖花は薄っすらと目を開いた。夢の続きに片足を残したまま、寝台の上で身じろぎする。掛け布に包まれているにもかかわらず、部屋の中は妙に肌寒かった。
どこから風が入ってくるのだろう。そう思いながら身体を起こし、眠気の残る目で辺りを見回す。
室内は暗かった。雲の切れ間から差し込む僅かな月明かりが、家具の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。その視線の先で、窓に掛けられたカーテンが静かに揺れていた。
窓が、開いている。
(……あれ? 開いて――)
寝る前に閉めたはずだった。そう思ったものの、はっきりとした確信はなかった。
今日はひどく疲れていた。寝支度を終えた後、窓を確認し忘れたのかもしれないし、あるいは、今もまだ寝惚けていて、記憶と夢が混ざっているだけなのかもしれない。聖花は、深く考えることをやめた。
このまま窓を開けていれば風邪を引く。夜はまだ長く、朝まで冷たい風に晒され続けるわけにはいかない。
この時間に、わざわざ使用人を呼びつけるほどのことでもなかった。聖花は掛け布を退け、ゆっくりと寝台から降りた。床へ足をつけた途端、足先から冷気が這い上がってくる。まだ完全に目覚めていない身体を引きずるように、窓へ向かってよろよろと歩き出した。
部屋の中に、自分以外の誰かがいることにも気づかずに。
暗がりに潜んでいたその人物は、突如目を覚ました聖花の動きへ警戒し、息を潜めていた。深夜とはいえ、侵入して間もなく彼女が起き出すとは予想していなかったのだろう。しかし、見つかるとは考えていないらしい。衣擦れの音一つ立てず、闇の中で聖花の様子を窺っている。
聖花は窓の前へ辿り着くと、吹き込む風に逆らいながら窓枠へ手を伸ばした。冷えた金具を掴み、ゆっくりと閉める。窓が閉ざされると、カーテンの揺れも次第に収まっていった。
これで眠れる。そう思って寝台へ戻ろうとした時、聖花は不意に背中へ視線を感じた。
眠気に覆われていた意識が、ほんの僅かに浮上する。聖花は不思議そうに眉を寄せ、肩越しに暗い室内を見回した。
「……誰か、いる?」
夢うつつのまま、深く考えることもなく呟く。
当然、返事はなかった。室内には、耳が痛くなるほどの静寂だけが広がっている。窓を閉めたことで風の音も消え、聞こえるのは自分の浅い呼吸だけだった。
聖花はしばらく首を傾げていたが、すぐに考えることをやめた。恐怖よりも眠気の方が勝ったのである。今の感覚も寝惚けていたせいだろうと、早く寝直したいという欲求に従って聖花は寝台へ向かって足を動かした。
暗がりに潜む人物は、そんな彼女の背中を静かに見つめていた。このまま再び眠りにつくまで待つべきか。それとも、今すぐ目的を果たすべきか。僅かな逡巡の後、何かを思い出したように気配が動いた。
次の瞬間。
寝台へ戻ろうとしていた聖花の背後へ、誰かが音もなく踏み込んだ。冷たい何かが首筋へ触れる。それが刃物であると理解するまでに、時間は掛からなかった。
寝惚けていた意識が、一瞬で現実へ引き戻される。
「なっ……」
「静かに」
声を上げかけた聖花の耳元で、男が低く囁いた。
「これが見えない?」
喉元へ突きつけられた刃が、警告するように僅かに動く。聖花は反射的に息を呑み、出かけていた声を喉の奥へ押し戻した。
すぐ近くで、満足げに笑う気配がする。くすりと響いた、どこか意地の悪い声。恐怖によって思考が遮られる中、聖花はその声に聞き覚えがあるような気がして眉を寄せた。どこかで聞いた。けれど、誰のものだったのか思い出せない。
そもそも、他人の屋敷へ深夜に忍び込み、眠っている令嬢へ刃物を突きつけている時点で、不審者であることに変わりはない。相手が何者であるかを考えるより先に、この状況から生き延びなければならなかった。
男は、ゴルダール家の警備を突破してここまで入り込んでいる。相当な手練れなのか。それとも、屋敷の警備に致命的な穴があるのか。できることなら、前者であってほしかった。後者ならば、今夜を切り抜けたとしても、今後安心して眠ることさえできなくなってしまう。
聖花は怯えを悟られないよう、必死に呼吸を整えた。怖がる姿を見せれば、相手を喜ばせるだけかもしれない。それに、本当に最初から殺すつもりであれば、眠っている間に命を奪えばよかったはずである。わざわざ目を覚まさせ、ナイフを突きつけているということは、何か聞きたいことがあるのだ。
少なくとも、質問へ答えるまでは殺されない可能性が高い。その推測だけを頼りに、聖花は相手が話し出すのを待った。
「ねえ……街で、何を知ったの?」
耳元で、男が囁く。同時に、首筋へ当てられていた刃が僅かに強く押しつけられた。冷たい金属の感触が一点へ集中し、全身を凍らせる。死への恐怖が、遅れて現実味を帯びた。ぞくりとした感覚が首筋から背中へ伝い、身体中を這い回る。
質問の意味が分からなかった。街で何を知ったのかと言うが、いつの話をしているのか。どの出来事を指しているのか。幾つもの疑問が浮かんだが、喉元へ刃を当てられたまま尋ね返す勇気はなかった。
そもそも、声を出すために喉を動かせば、それだけで皮膚が切れてしまいそうだった。
「もう一度聞くよ」
沈黙した聖花へ焦れたのか、男の声から僅かに笑みが消える。
「何を知った?」
刃を握る手へ、さらに力が込められた。ぷつり、と鋭い先端が皮膚へ食い込む感触がした。傷になったのかどうかは分からない。しかし、その瞬間、聖花の中で死がすぐそこまで迫っているという実感が、一気に膨れ上がった。意思とは関係なく身体が震え始める。背中や額から冷たい汗が噴き出し、指先から力が抜けていく。
聖花が答えられないまま黙り込んでいると、やがてすぐ傍から小さな溜息が聞こえた。男は何かに気づいたように、首へ押し当てていたナイフを僅かに離す。それでも、聖花が逃げ出せるほどの距離ではない。
何を知ったのかと聞かれても、答えようがなかった。聖花が街で知った重大なことといえば、マリアンナの身体にヒイラギカナデという謎の人物がいることくらいである。だが、この男がそれを尋ねているとは思えない。もっとも、カナデのことを知っているのであれば、「街で何を知った」などという曖昧な聞き方をする必要がないからだ。
きっと、この男は何かを勘違いしている。聖花はそう直感した。
深く息を吸う。大丈夫。まだ殺されてはいない。根拠など何もなかったが、そう言い聞かせなければ声を出すことさえできそうになかった。
男は、聖花が呼吸を整えている間、手を出してこなかった。何をしているのか観察していただけかもしれない。それでも、答えを待ってくれたことに変わりはない。
しばらくして、聖花は震えを押し込めながら、小さな声を絞り出した。
「……知りません」
「うん?」
待ちくたびれていたのか。それとも、聞き間違えたと思ったのか。男が緊張感の抜けた声で聞き返した。聖花は喉を鳴らし、今度は先ほどよりもはっきりと言う。
「私は……何も知りません」
口にしてしまえば、不思議と少しだけ恐怖が薄れた。
本当に知らないのだ。何を求められているのかも分からない。知らないことを答えろと言われても、答えられるはずがない。そう思うと、追い詰められていた心に、僅かな開き直りが生まれた。
聖花の声は、先ほどまで震えていたことが嘘のように、真っ直ぐだった。あまりに堂々とした返答が意外だったのか、背後の男がほんの僅かに動きを止める。ただの令嬢が、刃物を突きつけられたまま、どうしてこれほど明確に言い切れるのか。
その一瞬の疑問によって、ナイフを持つ腕から僅かに力が抜けた。
聖花は、その隙を見逃さなかった。考えて動いたわけではなく、ほとんど反射に近かった。身体を低くしながら勢いよく振り向き、両手で相手の腕を外側へ払いのける。ナイフの刃が首筋を掠め、聖花は痛みに顔を歪めた。けれど、男が予想していなかった方向から全体重を掛けたためか、力の緩んでいた指からナイフが抜け落ちる。
硬い床へ金属がぶつかった。カラン、と甲高い音を立て、そのまま二人から離れた場所まで滑っていく。男は驚いたように僅かに目を見開き、その場で動きを止めた。まさか、怯えていたはずの令嬢が、突然腕を払いのけてくるとは思っていなかったのだろう。
しかし、状況が逆転したわけではない。たとえナイフを手放したとしても、体格も身体能力も男の方が上である。他に武器を持っていないとも限らない。聖花自身それは分かっていた。分かっていたが、それでも何もせずに殺されるよりはよかった。
少しでも抵抗したかった。勘違いによって命を奪われるなど、冗談ではない。まだ男が意外そうにこちらを見ている間に、聖花は大きく息を吸い込んだ。肺が痛くなるほど吸い込み、腹の底から声を張り上げる。
「きゃあああああっ! 誰か! 誰か来て!」
静まり返っていた屋敷へ、聖花の叫び声が響き渡る。深夜に突然大声を上げることが、迷惑極まりないことは分かっていた。
しかし、今は非常事態である。これで誰かに責められたとしても、生きていられるのならば安いものだった。痛いことは怖い。死ぬことも怖い。けれど、何もできないまま、誰にも知られず消されてしまうことだけは嫌だった。みっともなくても構わない。生き残るためならば、最後まで足掻いてみせる。
聖花の声が届いたのか、離れた部屋で何かが倒れる音がした。続いて、扉が開く音と、慌ただしく廊下を走る足音が聞こえてくる。
誰かが起きた。何事かと叫ぶ声もする。侵入者に残された時間は、ほとんどなかった。ここで聖花を仕留めることはできるかもしれない。しかし、その後で証拠を消し、誰にも見つからず逃げることは難しいだろう。
男は近づいてくる足音へ耳を傾けた後、なぜか楽しそうに笑った。
「アハッ」
聖花が必死に助けを呼んだことさえ、彼には予想外の遊びのように思えたらしい。
「いいよ。君がそういうつもりなら、その思惑に乗ってあげる」
聖花には、その言葉の意味が分からなかった。自分には、誰かを罠へ嵌めるような思惑などない。ただ、殺されたくなくて叫んだだけだ。しかし男は、聖花の行動を何か別の意図によるものだと解釈したらしい。
「今日のところは、もう帰るね。バイバイ」
ふざけたほど軽い言葉を残し、背後の気配が一瞬で遠ざかった。聖花が慌てて振り返った時には、すでにそこに人影はなかった。いつもの寝室が、月明かりの中に広がっているだけである。
先ほどまで誰かがいたことが、悪い夢だったのではないかとさえ思えた。しかし、首筋には刃が触れていた感覚が、今も生々しく残っていた。
やがて、部屋の扉が勢いよく開かれる。住み込みのメイドであるアデルが、数人の騎士を伴って駆け込んできた。
「聖花様!」
青ざめたアデルが室内を見回し、騎士たちが剣へ手を掛けながら散開する。けれど、その時にはすでに遅かった。部屋の中には、聖花以外の人間は見当たらない。先ほど床へ落ちたはずのナイフも、いつの間にか消えていた。侵入者は逃げる僅かな間に、それすら回収していったのだろう。
窓だけが再び開かれて、夜風が室内へ吹き込み、白いカーテンをゆっくりと揺らしている。
それはまるで、最初から誰も侵入していなかったのだと、聖花を嘲笑っているかのようだった。
一体彼は誰だったのでしょうか‥‥。




