23.入学式前日 中半
聖花の身支度が終わって間もなく、まるでその時を待っていたかのように、一人のメイドが部屋を訪れた。
扉を叩いて入室した彼女は、感情の乏しい表情で一礼すると、ヴィンセントが呼んでいるため同行するよう告げた。
一体、朝から何の用だろう。聖花は僅かに眉を寄せたものの、断るという選択肢はない。椅子から立ち上がり、メイドの後へ続いて部屋を出た。
先ほどまで身支度を手伝ってくれていたアデルの姿は、すでになかった。
他にも仕事が残っているらしく、聖花が呼び出されたことを知る前に、どこかへ向かったようだ。仮に部屋へ残っていたとしても、ヴィンセントのもとまで同行することは許されなかっただろう。
聖花は前を歩くメイドの背中を追いながら、頭の中で幾つもの可能性を考えた。何か失敗をしただろうか。学園へ入る前に、なにか指示でも出すつもりなのか。あるいは、先日の夜会について、改めて問いただされるのかもしれない。
どれもあり得る話だった。聖花は無意識に慎重な歩調で歩いていた。
やがて案内されたのは、ダイニングルームだった。
ゴルダール家へ来てから、それなりの日数が経過している。それでも聖花が一度も足を踏み入れたことのない部屋の一つである。
扉の向こうに広がっていた空間は、貴族の屋敷にある食堂としては妙に質素だった。中央には何人もの人間が同時に食事を取れるほど長い卓が置かれている。椅子や食器棚も上等なものではあったが、華やかな装飾はほとんど見当たらない。埃が積もっているわけではなく、掃除そのものは行き届いていた。
それにもかかわらず、人が長い間使用していない部屋特有の、冷たく乾いた空気が残っている。誰かが食事を楽しんだ形跡がない。誰かのために花を飾った跡もない。
掃除だけは続けられているものの、それ以外の手入れは、随分前から止まっているように見えた。
卓の奥には、すでにヴィンセントが座っていた。聖花は彼へ一瞥を向け、形式どおりの挨拶を交わす。ヴィンセントに促され、聖花は彼と向かい合う位置へ腰を下ろした。
程なくして、数人のメイドが料理を運び込んでくる。
焼きたてのパン。温かなスープ。香草を添えた肉料理と、瑞々しい果物。普段、聖花の部屋へ運ばれてくる朝食と比べても遜色はない。ダイニングルームへ案内された時から薄々察してはいたが、本当にヴィンセントは、今さら聖花と食事を共にするつもりらしい。
その事実に、喜びよりも警戒心が先に立った。これまで一度として、同じ食卓を囲もうとしなかった人間である。明日には聖花が学園寮へ移るという、この時になって突然朝食へ呼び出すなど、何か目的があるとしか思えない。
ヴィンセントが何を考えているのか、聖花には分からなかった。そして、積極的に理解したいとも思わない。ただし、何らかの思惑があるということだけは確かだった。
メイドたちは壁際へ控えている。何かあれば人を呼べるという意味では、一対一よりも安心できる状況であるはずだった。
それでも聖花の緊張が解けることはない。ヴィンセントがいつ本題へ入るのかと身構えながら、平静を装って食事を進める。
自分でも僅かに動きが硬くなっていることは分かった。しかし、余程注意深く観察しなければ気づかれない程度には、普段どおり振る舞えているはずだった。
「調子はどうだ」
料理が一通り並べられ、メイドたちの動きが落ち着いたところで、ヴィンセントが口を開いた。
「問題ありません」
「それは何よりだ。勉強は順調か?」
ヴィンセントは手元の食事へ視線を落としたまま、淡々と続ける。
「教師からも報告は受けているが、本人の口から聞いておいた方がよいだろう」
「おおむね、問題なく進んでおります」
表面上は、娘の体調や学業を気遣う父親の会話である。少なくとも、メイドたちの前ではそのように見せたいらしい。ヴィンセントはすぐに本題へ入ることなく、授業の進捗や学園生活への不安について、当たり障りのない質問を続けた。
(いっそのこと、早く用件を話してくれないかしら)
聖花は内心で溜息をついた。
ゴルダール家へ来たばかりの頃であれば、ヴィンセントと共に食事を取ることを、少しくらい望んでいたかもしれない。しかし、日が経つにつれて、そのような気持ちは薄れていった。
最近では、食事の時間にアデルが近くへいてくれることもある。一人であっても、誰かの思惑を探りながら食べるよりは、余程落ち着いていられた。
裏に幾つもの事情を抱えているヴィンセントと向かい合う方が、聖花にとっては遥かに息苦しい。今さら一度朝食を共にしたところで、父娘らしい情が湧くこともなければ、関係が改善するとも思えない。話があるのなら、食事を終えた後で呼び出せばよい。せめて食事の時間くらいは、静かに過ごさせてほしかった。
もちろん、その不満を口にすることはできない。機嫌を損ねれば、何をされるか分からないからだ。
聖花はヴィンセントにとって、利用価値のある存在である。少なくとも、今すぐ聖花自身へ危害を加える可能性は低いだろう。
しかし、その怒りが他の人間へ向けられないという保証はない。聖花へ直接手を出す代わりに、アデルを遠ざけることもできる。その程度のことは、ヴィンセントならば躊躇なく行うかもしれなかった。
食事が半ばまで進んだところで、ヴィンセントは控えていたメイドたちへ退出を命じた。
メイドたちは一斉に礼をし、静かに部屋を後にする。重い扉が閉ざされると、広いダイニングルームには、聖花とヴィンセントだけが残された。
先ほどまで以上に静かになった室内で、食器が触れ合う小さな音だけが響く。やはり、ここからが本題なのだろう。聖花は表情を変えず、意識だけをヴィンセントへ集中させた。
「フェルナン殿の授業では、魔術についても学んでいるそうだな」
「はい」
「実際に魔力を扱うこともあるのか?」
「基礎的なものだけです」
「そうか」
ヴィンセントは、授業の内容から魔術の習得状況へ、少しずつ質問を広げていった。
聖花がどこまで知識を得たのか。魔力をどの程度扱えるようになったのか。フェルナンから何を教えられているのか。一見すれば学習の進み具合を確認しているだけだが、聖花には、どこまで自分を制御できるのか確かめられているように思えた。
もっとも、その程度の質問であれば問題はない。フェルナンから禁じられていることや、聖花自身が隠したい事柄へ触れないよう、差し障りのない範囲で答えていけばよい。
だが、やがてヴィンセントの口から夜会の話が出た時、聖花の指先が僅かに止まった。
「先日のパーティーで、第二王子殿下と何かあったのか?」
問いは至って簡潔だった。そのため、かえって誤魔化しにくい。聖花は何も知らないふりをして、僅かに首を傾げた。
「何か、と申しますと?」
「お前が会場を離れた後、第二王子殿下もその場を抜けられた」
ヴィンセントの視線が、真っ直ぐ聖花へ向けられる。
「偶然にしては、随分と間が短かった」
聖花は内心で息を呑んだ。
帰りの馬車で尋ねられた時には、ヴィンセントは具体的なことを何も言わなかった。その後も指摘されなかったため、そこまで深く見られていなかったのではないかと油断していた。
しかし、考えてみれば当然だった。
王宮の中へゴルダール家のメイドを自由に配置することはできない。普段のように使用人へ監視させられない以上、ヴィンセント自身が聖花の動きを確認していても不思議ではなかった。
彼にとって、聖花は計画へ利用するための駒である。勝手な行動を起こせば、後から問いただせるよう見張っておく必要がある。
夜会では、シャンファや旧友、ギルガルドへの対応に気を取られ、そこまで考えが回っていなかった。自分の脇が甘かったのだ。
しかし、ここで動揺を見せるわけにはいかない。ヴィンセントが見たのは、聖花が会場を出たことと、その後を追うようにアーノルドが退出したことだけである。廊下で何があったのかまでは知らない。
それに、彼の質問の仕方から判断する限り、アーノルド本人から事情を聞かされてはいないようだった。もしアーノルドがヴィンセントと完全な協力関係にあるのなら、わざわざ聖花へ確認する必要などない。アーノルドから直接、報告を受ければ済む話である。
つまり二人は、目的の一部を共有していても、全ての情報を交換する関係ではない。それぞれが、それぞれの思惑で動いている。
聖花が以前から抱いていた予想は、どうやら間違っていなかったらしい。
「偶然です」
聖花は、できるだけ自然な声で答えた。
「少し席を外したのですが、その時、第二王子殿下が私の行動を誤解されたようで……後を追ってこられたのです」
「何を誤解されたんだ」
一歩踏み込んだ質問に、聖花は一瞬だけ言葉を選ぶ。
「恥ずかしい話ですが、手洗いへ向かう途中で道を間違えかけまして。指定された区域から外へ出ようとしているように見えたのでしょう」
完全な嘘ではない。実際、指定区域外へ出たことをアーノルドに咎められた。ただし、その理由や、ギルガルドを追っていたことを伏せているだけである。
「その程度のことでしたので、ご報告する必要はないと考えました」
ヴィンセントはすぐには答えなかった。聖花の表情を見つめ、声の揺れや僅かな動作から、嘘を見抜こうとしているようだった。聖花も視線を逸らさず、平静を保つ。
ここでヴィンセントに確認する手段はない。アーノルドへ直接尋ねたとしても、彼が真実を話すとは思えなかった。聖花とギルガルドの接触を、ヴィンセントへ知らせる利点がないからだ。
しばらくして、ヴィンセントは彫りの深い顔をさらに険しくし、小さく呟いた。
「……なるほど」
完全に信じたわけではないだろう。疑念と納得が半分ずつといったところか。しかし、これ以上追及するための材料も持っていないらしい。それ以降、ヴィンセントが夜会について触れることはなかった。
聖花も自ら話を広げず、残りの食事を黙々と進める。程なくして、奇妙な朝食の時間は終わりを迎えた。
部屋を出た聖花は、誰にも聞こえないよう小さく息を吐く。ずっと気を張っていたせいで、食事をしたはずなのに、かえって疲労が増したような気分だった。
ヴィンセントとの会話から、決定的な情報を得られたわけではない。それでも、彼とアーノルドが全てを共有していないことや、ヴィンセントの監視にも限界があることは確かめられた。
とはいえ、聖花には朝食の内容を振り返っている余裕はなかった。この後には、フェルナンの訪問が控えている。
入学前、最後となる授業である。最終日だからといって、彼が大人しく通常の授業だけを行う保証はない。むしろ、何か余計なことを仕掛けてくる可能性の方が高い。
そして聖花自身にも、今日のうちに伝えておきたいことがあった。
フェルナンが屋敷へ来るまでの間、聖花は書庫で参考書を読むことにした。中途半端に空いた時間では、他にできることもない。授業を行う部屋で先に待つことも考えたが、あの部屋は狭く、壁際まで本棚に囲まれている。一人で長時間待つには、どこか息が詰まりそうだった。
その点、ゴルダール家の書庫は蔵書が多いだけでなく、天井も高く、空間にも余裕がある。
聖花は窓際の椅子へ座り、魔術の基礎について書かれた本を開いた。文字を目で追いながらも、頭の中ではフェルナンへ何をどう伝えるべきか、何度も考え直す。正面から約束を取り消してほしいと言って、素直に受け入れるとは思えない。それでも、何も言わないまま学園へ行けば、彼の要求がどこまで続くのか分からない。
少なくとも、聖花の正体を他人へ明かさないという確約だけは得たかった。口約束にすぎなくとも、何もないよりはましである。
しばらくすると、フェルナンが到着したという知らせが入った。聖花は読んでいた本を閉じ、早々に書庫を後にする。
使用人へ案内されるより先に、授業を行う部屋へ向かった。ここ最近は、いつもそうしていた。
当初と比べれば、屋敷のメイドたちの態度は随分ましになっている。多くの者が罰を恐れ、聖花へ不用意に近づかず、遠巻きに見るだけになっていた。
好かれたわけではない。しかし、危害を加えられなくなったというだけでも、大きな進歩だった。
授業部屋へ到着すると、聖花はいつもの席へ腰を下ろした。机の上へ必要な教材を並べ、落ち着いてフェルナンを待つ。内心では何度も話の切り出し方を考えていたが、表情だけは、ずっと前から余裕を持って待っていたかのように整えた。
程なくして、扉が開く。
現れたフェルナンは、今日も変わらず、どこか危うい雰囲気を纏っていた。柔らかな笑みを浮かべているにもかかわらず、それが親しみよりも警戒心を抱かせる。
聖花と挨拶を交わした後、フェルナンは向かいの席へ腰を下ろした。以前であれば、その顔で微笑まれるだけで必要以上に動揺していたかもしれない。
慣れとは恐ろしいものである。今では、表面上の美しにも慣れた。その笑顔の裏で、どのような悪巧みをしているか分からないと知っているからだ。
入学前日ということもあり、その日の授業は復習が中心だった。事前に出されていた課題を確認し、間違っていた箇所を重点的に説明される。新しいことを詰め込むのではなく、これまで学んだ内容が身についているかを確かめる、至って平凡な授業である。
少なくとも、表面上は平穏だった。フェルナンはいつものように説明が上手く、質問にも丁寧に答える。教師としての態度だけを見れば、非の打ち所がない。
しかし、聖花は授業へ完全には集中できなかった。いつ話を切り出すべきか。どのように言えば、少しでも有利な返答を引き出せるか。そのことばかり考えてしまい、目の前の文章がほとんど頭へ入ってこない。
「……セイカ嬢?」
不意に名前を呼ばれ、聖花は我に返った。
確かにフェルナンは「セイカ」と呼んだはずである。それなのに、一瞬だけ、「カナデ」と呼ばれたような気がした。
聖花が顔を上げると、にこやかに微笑むフェルナンと目が合った。口元には笑みがある。しかし、瞳は全く笑っていない。先ほどまで平穏だった室内の空気が、僅かに重くなった。
「授業中だよ」
フェルナンは指先で、聖花が開いている本の一箇所を軽く叩いた。
「他のことを考えている場合ではないと思うけれど」
「……申し訳ございません」
「学園では気をつけてね。教師によっては、僕ほど優しくないかもしれないから」
優しいという自己評価には異議を唱えたいところだったが、聖花は黙って頭を下げた。フェルナンは、そんな彼女を観察するように見つめながら、僅かに首を傾げる。
「ところで、一体何を考えていたのかな?」
「先生が期待されているようなことではございません」
「ふふ。僕が何を期待していると思ったの?」
楽しそうに聞き返され、聖花は口を閉ざした。わざわざ説明すれば、相手を喜ばせるだけである。
「説明するほどのことではございません」
「そう?」
フェルナンがさらに何かを言おうと、口を開きかける。どうせ、ろくでもない方向へ話を持っていくつもりだ。
聖花はそれを遮るように、少しだけ声を強めた。
「それよりも、お話ししたいことがございます」
フェルナンが目を瞬いた。
授業が一度中断した今を逃せば、次に話を切り出せるのがいつになるか分からない。聖花は小さく唾を飲み込み、心を決めた。
「……ん? どうしたの、急に」
フェルナンは、何事もなかったかのような調子で問い返す。
「分からないところでもあった?」
「いえ、そうではなく……」
あまりにも普段どおりの声で返されたため、聖花は思わず口籠った。こちらは今日まで何度も考え、ようやく切り出そうとしているのに、相手には授業中の些細な質問程度にしか見えていないらしい。
その態度に調子を狂わされ、一瞬、用意していた言葉が頭から抜け落ちる。
フェルナンは、そんな聖花の様子を一瞥すると、何かを考えるように顎へ指を添えた。けれどもすぐに顔を上げ、今度は教師らしい穏やかな笑みを作る。
「話してくれなければ、僕にも分からないな」
優しく促すような声。それがかえって、聖花の警戒心を強めた。
「ほら、僕に話してごらん。何か悩みがあるのなら、相談してほしいな」
フェルナンは胸へ片手を当て、いかにも誠実そうに続ける。
「教師が生徒を助けるのは、当然のことだからね」
聖花は、思わず疑いの目を向けた。絶対に何か裏がある。
そもそも、今の聖花が抱えている悩みの一部は、目の前の自称教師によって作られたものなのだ。それに気づいていないのか。分かったうえで、わざとこのようなことを言っているのか。後者である可能性の方が、遥かに高い。思わず「あなたがそれを言うのですか」と突っ込みそうになったが、聖花は寸前で飲み込んだ。
ここで相手を刺激する必要はない。今は、少しでも有利な言葉を引き出すべき場面である。
「本当に、助けてくださるのですか?」
聖花が確認するように尋ねると、フェルナンは迷う素振りもなく頷いた。
「もちろん。僕にできることなら、任せてよ」
言質は取った。とはいえ、これだけで話が上手く進むとは、聖花も思っていない。相談を持ちかけた程度で、フェルナンが以前の約束を素直に取り消すほど甘い人間なら、最初から聖花の正体を利用して脅すような真似はしなかっただろう。
それでも、何も言わずに諦めるよりはいい。学園へ入る前に、少なくとも一度は拒絶を伝えておくべきだった。
聖花は膝の上で手を握り、ゆっくりと口を開く。
「ありがとうございます」
一度言葉を切り、フェルナンの目を正面から見つめた。
「では、以前のお話そのものを、なかったことにしてください」
フェルナンの表情から、ほんの僅かに笑みが薄れた。
「……以前の話、とは?」
先ほどまでの柔らかな声よりも、一段低い。
知らないふりをしているだけなのか。それとも、聖花自身の口から具体的に言わせようとしているのか。
どちらにせよ、ここから先が本当の交渉だった。




