22.入学式前日 前半
その日は雨音から始まった。
ザアザアと雨が振りしきり、建物が水を弾く音が小さくも聞こえてきて、聖花はふと目を覚まして起き上がった。
静かな部屋によく響く音だ。
廊下には人の気配がして、彼らはパタパタと慌ただしく動き回っている。きっと家事でもしているのだろう。あるいは、明日に備えて荷物の詰め込みでも行っているのだろうか。
明日は待ちに待った入学式で、聖花の生活する場所はゴルダール家から学園寮へと暫く移る。
生徒の殆どに例外はなく、余程の事がなければ休暇期間まで家に帰れることはない。
これも学習の一環なのだ。
連れていける使用人は最大一人までで、それ以上は認められていない上に、そもそも連れ歩かないことが推奨されている。
常日頃、面倒を見られることに慣れ切った貴族の子供たちにとっては中々に手厳しい制度でろう。
その面においては、平民の方が暮らしやすいのかもしれない。
そんなことは置いておいて、今日は特別な日でもある。
余り良い思い出はないが、ゴルダール家で過ごす最後の一日。
少し大袈裟ではあるが、重篤な病気など無い限り、当分家に戻って来ないのは確かで、身に何か起こらないことを願うばかりである。
メイドたちの陰口に、ヴィンセントの圧。不可解な日記に、不思議な構造をした家。そんなゴルダール家から離れるのに何ら抵抗はないが、暫く面倒を見てもらった家であることに変わりはないのだ。
だからこそ、有り難みは感じていた。だからこそ、特別な日なのだ。
忙しなかったパーティーの日から数日が経つのは早かった。むしろあの一日の方が長く感じられた程である。
首に薄く付いた傷は、次の日になると綺麗サッパリ消え去っていた。それには聖花も、アデルも不思議に思っていたのだが、聖花は悪夢だったのだと、アデルは寝惚けていのだろうと思い込むことで留まった。
あんなのが現実で起こっていい訳がない、と。
報告を受けたヴィンセントはと言うと、それを闇属性の特性の一つなのかと考えた。
当然、そのことは誰にも伝えられていない。
(明日は晴れるかな‥‥‥‥)
聖花は、窓から見える景色を遠目に眺めた。
この国に天気予報などはなく、彼女に天気を推測する力はない。
天気が晴れるかどうか考えながらも、雨が止んでくれることを聖花は願った。
新たな門出が曇りであれば、自ずと気分が沈むと言うものだ。それは他の者も同様であろう。
アデルが部屋へと来るのを待ちながら、聖花は寝具の上に再び転がり込んだ。
降りしきる雨音に耳を傾けて、放心する。せめてこの時間だけは何も考えずに過ごしておきたかったのだ。
今日は、フェルナンが授業に訪ねて来る日だ。
こんな日まで熱心にやって来る彼にある種の感心を抱きつつも、何処か不安感がある。
‥‥入学式の準備やらは大丈夫なのだろうか、と。彼も教員で、準備が大変な時期であろうに。
数日前、そのことをそれとなく尋ねてみたのだが、"大丈夫"の一点張りで、結局どうなっているのか聖花には把握出来なかった。
教員として、役目を果たしているのか心配になる。
フェルナンの授業は、多少あくどい所もあったものの、案外丁寧に教えてくれるし、工夫を凝らしてくれるしで退屈しなかった。
だからと言って、また受けるかと問われたら答えはノーだ。聖花の弱みを握っていて、それでいて脅迫じみた真似をする人間を誰が信用できようか。
兎に角、そんな事情は無視するとして、あくまでこの授業だけは一つの良い思い出として聖花の心に留めて置きたかった。
学園ではまた近い内に再会するが、その時は今のような近い関係ではなく、遠い関係として出来るだけ関わりたくない。
約束のことと言い、きっと望み通りにはいかないだろうが、それが彼女の本音である。
だから、聖花はフェルナンを説得する必要があった。出来るだけ早く、この問題だけでも片付けたいのだ。
まだまだ問題が山積みで、面倒事は少しでも減らしておくに越した事はないから。
折角の今日という絶好の機会。
これを逃せば、余計な種を学園まで持ち越してしまう。
どの道、口約束に過ぎないのに変わりはないが、それでも彼女の正体を広めないという確証が欲しかった。
「お嬢様!おはようございますっ!!」
「おはよう‥‥‥‥‥」
そうしている内に、とうとうアデルが部屋へとやって来た。もう少し寝転がっていたい気分であったが、そうは言ってられない。時間に限りはあるのだ。
聖花は再び起き上がると、相変わらず朝から元気なアデルに顔を向けた。
彼女の存在は、ゴルダール家の毎日を幾分楽にしてくれた。そう改めて感じた瞬間だった。
そんなことも知らない本人は、聖花の身支度を整えながら、染み染みと話し始めた。
「明日は入学式ですね。お嬢様が家にいらしてから早いものです」
「そうね。本当に」
「‥‥‥ここでの暮らしは充実していましたか?」
「‥‥‥‥‥‥ええ。アデルのお陰でとっても」
「えへへ。嬉しいなぁ。お世辞でもそう言って頂けて私は幸せ者です」
他愛の無い会話を交わしながら、時間はゆっくりと過ぎて行く。
不意に褒められて頬を赤くしたアデルは、照れ臭そうに微笑みを浮かべた。鏡越しにそれが見える。
聖花は、何故こんなに純粋な人間がわざわざゴルダール家で働いているのかと改めて不思議に感じた。
辞めることも、他の家に移ることも出来た筈なのに、そうしない理由がよく分からない。
けれども彼女がいたからこそ、救われてきた点も多々あることは確かだ。
「お世辞なんかじゃないわ」
「そう思っておきますね」
聖花が本心からそう告げたにも関わらず、どうやらアデルにはお世辞にしか聞こえないらしい。
他者を褒めたりはしても、自身には評価が厳しいようだ。聖花はそんなアデルが何処かもどかしかった。
鏡越しにアデルの方に視線を送って、聖花は彼女の名前を力強く呼んだ。ハッキリと、穏やかに。
「アデル」
「どうしましたか?」
「貴女は周りの人を明るくしてくれる素敵な人よ。もっと自信を持っていいの」
聖花はストレートに褒めた。何時もの彼女はこんな事はしないけれども、今日だけは違った。
明日から、アデルとも当分お別れなのである。もっと言うと、今度会う時はマリアンナとして会うのかもしれなかったから。
だから、これだけは早めに伝えておきたかった。"聖花"として。
聖花は、奏と出来るだけ早めに決着を着けるつもりだ。まだまだ準備は足りないが、その意志は決して変わらない。
やがて、大きなものと向き合うことになろうとも。
「そんなこと‥‥‥‥‥」
アデルは困惑した。まるでお別れを言うような聖花を不思議に思ったのか、それとも唐突に褒め称えられて慌てているのか。
手を止めて顔を沈めるアデルに、聖花が向き直って彼女の顔をしっかりと見た。折角整えている途中の髪が崩れるかもしれないことも厭わずに。
「私が保証するから、そんなに暗い顔をしないで。アデルがそんな顔をしていると私まで寂しくなるの」
「お嬢様‥‥‥‥‥‥」
アデルは思わず、聖花が何処かに行ってしまうのかと聞きそうになった。それ程までに彼女の様子は何処か変に思えたのだ。
けれども既の所で言葉を飲み込んで、静かに微笑み返す。
それが聖花の願いだったから。
何処か和やかな、不思議な雰囲気に包まれたまま、ふたりは朝食の時間が来るまで取るに足らない会話を交わした。
いつの間にやら雨は止み、雲だけが空に浮かび上がっていた。
まだ一日は始まったばかりだ。
次回、久々のフェルナン登場話です(*‘ω‘ *)
(なお、何度も授業でゴルダール家に訪問しています




